2 安全な旅路

 自分に妹がいるということを知ったのは、俳優としての仕事を始めて間もない頃だった。初めてのCM出演が決まったことを知らせた、そのついでにみたいに、マネージャーが言った。場所は、確か、昼下がりのファミレスで、男はレモネードを飲んでいた。


「君のことを調べさせてもらったよ」

 男は首をかしげた。自分に調べるだけの価値がある秘密があるとは思えなかった。実につまらない人生を送ってきたようだね。マネージャーがそう言うのを待った。

「この仕事をやるうえで重要なことは、隠すことが何もないということだ。やましいことは何もない。そこで何かを隠して初めて、神秘性、神格性が生まれる。疾しいことを隠したところで、そこから生まれるのは、きな臭さでしかない。わかるか?」

 男は頷いた。わからないのは、マネージャーがなぜそんな回りくどい前置きをするのかだった。


「君には妹がいる」

 理解するのに少し時間が要った。それから男は安堵と同時に、落胆した。

「いません」

 マネージャーの鋭い視線が男の瞳を捉えた。まるで、男の心の内を見透かそうとしているようだった。

「渡辺直子。年齢は二十四歳。千葉県内の私立高校を中退後、年齢を偽って幕張のジャズバーでバーテンとして勤務。現在もそこで働いている」


 男の脳裏に瞬く間に過去の記憶が蘇る。渡辺直子。もちろんその名前は知っていた。彼女が僕の妹?

「君と同じ高校に通っていた。知っているんじゃないか?」

「確かに……確かに同じ名前の同級生がいました」

 男はそこでようやく気がついた。「そうです。彼女は僕と同じ学年でした。妹であるはずがない」

「兄妹で同じ学年ということがないわけではないが、君の場合は事情がちょっと異なる」

 そこでマネージャーは気まずそうに視線を外した。「君と彼女は、母親が違う」


 その事実を知らされて以来、男は渡辺直子のことが気になっていた。仕事の合間だとか、たまの休みにコーヒーを飲みながら天気予報を見ている時だとか、そういう生活の隙間に、彼女は冬の太陽みたいに顔を出した。だが、それだけだった。あの日までは。


 あの日。放送中のドラマの撮影がすべて終了し、男は他の役者や撮影スタッフとの打ち上げに参加した。最後のロケ地が幕張だったので、幕張のイタリアン・レストランが会場だった。会は大いに盛り上がり、そのまま何人かが二次会に流れた。場所は、学生時代に津田沼に住んでいたという監督が行きつけにしていたジャズバーだった。


 そこで彼女に会った。男の運転する車で夜の海に行き、そして彼女は死んだ。



「おじさんの妹もこの学校の卒業生?」

 空になったコップを振りながら彼女が尋ねた。

「あぁ、中退だけどな」

「ふーん」


 男は自分の罪を彼女に話したい衝動に駆られた。どういうわけかはわからないが、彼女なら自分の話を受け入れてくれる気がした。誰かに許されることを望んでいたのかもしれない。しかし、男はすぐに思い直した。自分の罪は誰かに話されるべき類のものではない。この罪を抱えたまま死ぬその時まで、後悔することから逃れることは許されないのだ。


「もしかしたら、うちの親とかぶってるかもね」

「かぶってる?」

「うん。うちの親、二人ともここの卒業生なんだ」

 そこまで言って、彼女は突然笑い出した。何かを思い出したらしかった。

「うちの父親、この屋上で告白したんだって。正確に言うと何か色々あったらしいんだけど、母親曰く『勘違いして屋上に行ってなかったら、お父さんと付き合うことはなかった』って。よくわかんないけど、とりあえず恥ずかしいよね。私、ここで告られそうになったら絶対言うもん。『とりあえず場所変えよ』って」

 屈託のない彼女の笑顔を見ながら、気がつくと男も笑っていた。心の底から笑ったことなどもう何年もなかった。


「あ、」

 そう言って彼女はバッグから携帯電話を取り出した。「そろそろ行かなきゃ。映画を観に行くんだ」

「映画?」

 彼女は、うん、と頷き、映画のタイトルを口にした。「おじさん、知ってる? 二十年くらい前にめっちゃ流行ったドラマのリメイクらしいんだけど、そのドラマの主演俳優がうちの学校の卒業生だったんだって」

「あぁ、よく知ってる」

「やっぱ知ってるんだ。その人、カッコよかった?」


「慧!」

 その声に、二人は同時に屋上の入り口を振り返る。何人かの女子生徒が立っていた。

「映画、始まっちゃうよ?」

「ごめんごめん、すぐ行く!」

 女子生徒たちがドアの向こうに消えるのを見送ってから、さてと、と彼女は言った。


「ごめん、おじさん、本当に行かなきゃ」

「あぁ、ありがとう。久しぶりに楽しかったよ」

「ほんと? よかったー」

 男の言葉に、彼女はなぜか心の底からほっとした表情を浮かべた。

「何て言うか、ありきたりな言い方だけど、生きてたら絶対いいことあるから。死んだりしたら絶対にダメだよ」

「え?」

「特に、ほら、ここはうちの両親の思い出の場所だから、『とりあえず場所変えて』。なんて」

 そう言って笑うと、彼女は短く手を振り、あっという間に扉の向こうに走り去った。


 残された男はしばらく呆然と彼女の出ていった扉を見つめていたが、やがて「あ!」と声を上げた。自分の足元を見る。それから脇に置かれた自分の靴を見た。裸足の中年男性が屋上から下を見下ろしていれば、当然そう思うだろう。自然と笑いが込み上げてきた。


 帰ろう。眼下に広がる海のような街並みを眺めながら、萩原はそう思った。それがどこかはわからない。もしかしたら、自分にはもう帰るべき場所など残されていないかもしれない。でも、それがどうした。探せばいい。


 帰るべき場所はきっとある。そして、そこへと続く安全な旅路も。



Safe Journey Home <了>

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