4 Eastbound


 まもなく着陸態勢に入ることを知らせる機内アナウンスが流れる。腕時計を確認し(それはやはりあまり意味のあることではないが)、時差を計算して日本時間に合わせる。


 年に何度かは帰っていたが、生活をするという意味では三年半ぶりの日本だった。長かった気もするし、短かった気もする。若い頃は、いや夫にドイツ赴任の内示が出るその直前まで、自分が海外で生活を送るような日が来るとは思っていなかった。


 シートベルトサインが点灯する。アナウンスの指示通り、リクライニングとフットレストを元の位置に戻す。ほぼ直立した座席の背はやや窮屈だったが、新しい生活を前に「背筋を伸ばして生きていけ」と言われているようで、どこか晴れ晴れとした気持ちになる。飛行機がゆっくりと右に傾き、旋回を始める。窓越しに模型のような東京の街並みが見える。本当に帰って来たのだ。


 私は視線を隣に座る慧へとわずかにずらした。シートに頭を預け、じっと窓の外を見つめるその表情は見えない。寝ているのかと思ったが、時折まつ毛が静かに動いた。


 慧はどんな気持ちで窓外の日本の風景を眺めているのだろう。果たして幼少期を異国の地で過ごしたことは、今後の彼女の人生によい影響を与えるのだろうか。ドイツでの暮らしには問題なく順応していたように思える。年齢的な語彙の制限を別にすれば、驚くほどのスピードで言葉を習得した。同年代の友人もでき、学校生活も楽しんでいるようだった。日本に帰ることを告げた時も少し寂しそうな顔をして、またドイツに来れるか、と訊いてきた。きっと彼女はドイツが好きだったのだと思う。


 帰日が迫ってきたある日、台所でスープの味見をしていた私に慧がいつになく緊張した表情でこう尋ねた。

「どうして日本に帰るの?」

 私はお玉を鍋に戻しながら、質問の意味を考えていた。

「どうしてそんなことを訊くの?」

「今日友達に訊かれた」

「慧は何て答えたの?」

「わからないけど……」

「けど?」

「日本人だからって」

 そうか、と私は思った。我ながら無責任だと思うが、その時初めて慧の立場になって、慧の人生を顧みることができたのだと思う。


 もちろん、当時五歳になったばかりだった慧をドイツに連れてきたのは、親の都合だということは認識していた。それでもできる限り慧のことを考え、彼女にとってもプラスになるように考えてきたつもりだった。そして三年半が経ち、日本に帰ることになった今、私たちはそれが当たり前だと思っていた。私たちにとって、ドイツでの暮らしは期限付きの仮初めのものだった。しかし慧にとっては違った。


 物心ついた頃にすでにドイツにいた慧にとって、そこは紛れもない彼女の生活の地だったのだ。彼女にとっては、「なぜドイツに来たのか」は問題ではなく、「なぜ日本に帰るのか」の方が大きな疑問だったのだ。彼女が自分なりに考え、導き出した答えが「日本人だから」だった。


 慧にとって、日本に帰る理由はそれだけでしかなかった。そしてもちろん、幼い彼女をそのような状況に置いたのは私たちであり、最も罪なのはそのことにその時まで全く気がついていなかったことだった。


 私は込み上げる感情を隠すように、慧に背中を向けた。

「どうしたの?」と邪気のない声が私の背中にかけられる。

「なんでもない」

 そう答えた私の声は震えていた。私はお玉でスープを少しすくうと、屈んで慧の口元に添えてやった。慧は反射的にそれに口を付けようとしたが、一度思い留まり、息を三回吹きかけた。その様子に思わず笑みが漏れる。それから慧は恐る恐るスープを啜った。

「どう?」と私は尋ねる。

「しょっぱい」と慧は顔をしかめる。

「やっぱりそうよね」と私は笑った。


 ふと足元に目を落とすと、メモ用紙ほどの大きさの紙が落ちている。座席を倒していたので今まで気がつかなかった。シートベルトを少し緩めてから、屈んでそれを拾い上げる。片面だけに日本語で文章が書かれていた。読みながら思わず笑みが漏れる。不思議な文章だった。


『私たちは、また同じところに戻ってくる』


 確かにそうかもしれない。しかし、全てが常に同じではない。時間とともに少しずつ形を変え、何かを失い、別の新しい何かを手に入れながら、私たちは帰るべきところへ帰って行くのだ。


「お母さん」

 慧の声に、私は少し驚いて隣の席に目を向ける。

「うん?」

「綺麗だね」

 そう言って微笑むと、再び窓の外に顔を向けた。


 その優しい笑みに、私は救われた気がした。自分のお腹の上に、その下にある新しい命の上に、そっと手を重ねる。知らず知らずに零れた一粒の涙が手の上に落ちた。



Home  <了>

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