3 Westbound

 目を覚ました時、すでに映画は終わり、エンドロールが流れていた。観ていた映画のタイトルを思いだそうとしたが、どうしても思い出せなかった。彼は咳払いを一つし、目頭を押さえた。頭の奥に痺れに似た感覚がある。


 腕時計は四時三十分を示していた。日本時間、夕方の四時三十分だ。ここのところ、昼間に睡魔に襲われることが多くなっていた。恐らくは就寝前に飲んでいる睡眠導入剤の副作用なのだろう。彼は一年のうちこの季節だけ、どうしても夜に寝付くことができなかった。


 ふと気がつくと、前の座席の背とテーブルの間にはがき大の紙片が挟まれていた。細かな文字が並んでいる。


〈すい星〉

巨大な氷のかたまり。

一定の周期で太陽の周りを回っている。(私たちみたいに)

何十年~何百年に一回太陽に近づく。

その時に、太陽のエネルギーで溶けて、尾ができる。


〈流れ星〉

宇宙を漂うチリ。すい星よりずっと小さい。

地球の引力で引っ張られて、大気圏にぶつかると燃えてなくなる。


すい星と流れ星はまったく別物みたいです。

すい星はまた戻ってくるけど、流れ星は消えちゃいます。

  

 その内容から、先ほどの客室乗務員が残したメモだということがわかった。上空を飛行するこの密室の中で、彼女は彗星と流星の違いについて調べることに成功したのだ。彼はもう一度、彼女の文章を最初から読み直した。なるほど。どこまで正確かはわからないが、二つの違いについては何となくわかった気がした。


『すい星はまた戻ってくるけど、流れ星は消えちゃいます』


 最後に書かれていたその文章で彼の目は留まった。また戻ってくる。彗星は私たちみたいに太陽の周りを回っている。

「我々は流星ではなく、彗星である」と彼は声に出して言ってみた。そして言ってから、少し後悔した。


 俺には帰る場所があるのだろうか。俺に帰る権利はあるのだろうか。


 出口のない思考に入ることを嫌うように、彼は頭を左右に振ると席を立った。トイレが使用中であることを示すランプが前方の通路上に点灯しているのを確認し、あえて前方に向かう。閉まっていることがわかっているトイレのドアには目もくれず、ギャレーを覗く。


 コーヒーポットを手にした客室乗務員と目が合った。その後ろにもう一人客室乗務員がいるが、どちらも彼女ではない。「お手洗いですか?」とコーヒーポットの方が声をかけてきたが、彼は曖昧な返事をして来た道を戻った。自分の席を通り過ぎ、後方のギャレーに向かったが、そこには誰もいなかった。彼は諦めて近くのトイレに入った。鍵を閉め、ドアに背をもたせかける。


 もう一度彼女に会うことを自分が切望していることに彼は気がついた。もう何年も、何かをこれほど強く望んだことがないように感じられた。彼女に対する好意や愛情からそうしているわけではない、少なくとも彼はそう考えていた。ただ、もう一度彗星の話をしてみたい。


 帰ることの許される場所が自分にあるのかどうかを、溝口は知りたかった。

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