2 Eastbound

 海、と思った。夢を見ていたわけではないと思う。ただ、大きなものに内包されている心地よさと、自分の意志では制御できないその揺れが海を連想させたのかもしれない。水中と水面を浮き沈みするような長い夢現の後に、私は目を覚ました。


 周囲は深海のように暗く、抑えつけられたような低いエンジン音のほかは静まり返っていた。腕時計を見る。二時三十分。それが昼なのか夜なのか、あるいは地球上のどこの時間を刻んでいるのかは大きな問題ではない。今この時、その腕時計は旅が始まってからの時間と旅に残された時間との比率を示しているに過ぎないからだ。


 座席を起こし、覚醒しきっていない頭で白く浮かび上がった自分の手を見るともなく見つめていると、目の前に白いハンカチが差し出された。驚いて見ると、客室乗務員が優しい笑顔を浮かべていた。首から下げられたネックレスが目に留まる。流れ星のような大きなヘッドが付いたネックレスだった。


「よろしければお使いください」と彼女は言った。

 そう言われるまで、涙が自分の頬を伝っていることに気づかなかった。一瞬迷ってから、素直にそれを受け取った。

「ありがとう」

「旅というのは思い出ですから」

 そう言ったように聞こえた。あるいは聞き間違えたのかもしれない。

「熱いコーヒーをお持ちしましょうか?」と彼女は言った。

「そうね。お願いするわ」と私は答えた。

 彼女は静かな笑顔を浮かべると、薄闇に溶け込むようにその場から消えた。


 私は何に涙していたのだろう、と考える。今では住み慣れたドイツの地への愛着か、日本に帰ることができることからの安堵か。あるいは別の何か。そういえば、と私は思う。何か夢を見ていた気がする。内容は覚えていないが、懐かしい感覚だけが微かに残っている。昔を思い出していたのかもしれない。


 気がつくと、先ほどの客室乗務員が紙コップに入ったコーヒーを持って、傍らに立っていた。私がテーブルを出すと、彼女は音も立てずにコップをそこに置いた。差し出された砂糖とクリームに手を振り、コップを口に運ぶ。彼女の言ったとおり、とても熱いコーヒーだった。


 踵を返そうとする客室乗務員を私は呼び止めた。振り返った胸元で、流れ星が揺れる。借りたハンカチを差し出し、礼を言った。しかし、今度は客室乗務員が差し出されたハンカチに向かって手を振った。

「到着まで持っていてください」

 ハンカチに目を落とす。そこに涙の痕跡は見つけられなかった。


 少し考え、「そうさせてもらうわ」と言いながら顔を上げた時、すでに彼女はいなかった。

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