4 コーンスープの本場

 渡辺直子からの「ラブレター」が再び届いたのは、そのことも忘れ始めた、正確に言えば、直子がそのことを忘れてくれたのではないかと期待し始めた、二カ月後の雨の日だった。雨と言っても様々あるが、その日降っていたのは、世界を灰色に煙らせ、肌に落ちた雨粒は骨まで染み込むような夏の終わりの豪雨だった。時折、鋭い閃光がどす黒い雲を切り裂き、獣の咆哮ほうこうのような雷鳴が耳をつんざいた。まるで悪魔が現れる前触れのような天気だった。


 今回のラブレターは下駄箱の中ではなく、椅子の裏に貼られていた。全ての授業が終わり、掃除をするために椅子をひっくり返して机の上に載せた時に、真紀はそれに気がついた。世界を覆う雲がいっそう低くなった気がした。手紙は前回と同じように赤字で書かれ、宛名も差出人の名前もなかった。ただ違ったのは指定された場所が屋上ではなく、駅前の喫茶店だったことだった。屋根があるところでよかった。真紀はせめてそのことに感謝することにした。


 傘は差していたものの、指定された喫茶店に着いたころにはブラウスが透けるほどに濡れていた。扉を開けると、戸に付けられた鐘がカランカランと妙に乾いた音を立てた。直子は、店の一番奥の窓際にこちらに背を向けて座っていた。しぶきで煙る街とガラス一枚を隔てただけの彼女の周りには、台風の目にも似た静けさがある。真紀は寒気を覚えて体を震わせた。


 店員が差し出してくれたタオルで髪を拭きながら、真紀は直子の前に腰かけた。直子はちらりと真紀の顔を見たが、すぐに面白くもないといった様子で窓の外に目をやった。


 いらっしゃいませ、と言いながら店員が真紀の前に水の入ったグラスを置く。

「コーンスープ」

 メニューを差し出そうとする店員を言葉で遮るように、直子が言った。

「はい?」

 聞き取れなかったというよりは、虚を突かれて反射的に言ってしまったというように店員が聞き返す。

「こいつにコーンスープ持ってきて」

「え?」と声を漏らしたのは真紀だった。「私?」

「ここはコーンスープがうまいんだよ。だろ?」

 直子の問いかけに、店員がぎこちない笑顔を返す。

「水なら服絞ればいくらだって出てくるからさ。コーンスープ持ってきてよ」

 店員はその台詞は聞こえなかったふりをして立ち去った。真紀は聞こえたけれども、特に気にしなかったふりをした。


 しばらく沈黙があった。直子は相変わらず無機質な視線を窓の外に向けていて、真紀はそんな直子の横顔を見つめていた。見とれていた、と言ってもいいかもしれない。直子にはそういった類の美しさがあった。雨に濡れた服の冷たさも、その重たさも、あるいは自分が見とれている人間が自分を「ボコす」ためにここに呼んだことという事実さえも、忘れてしまうような美しさだ。


「雨、すごいな」

 窓の外の景色は何も変わっていないが、直子はまるでいま気がついたみたいに呟いた。

「どうして濡れてないの?」

 真紀は気になっていたことを思いきって言葉にしてみた。全身ずぶ濡れの自分に対し、直子は髪はおろかズボンの裾すら濡れていないようだった。見る限り傘も持っていない。

「心なしか雨があたしを避けるんだ」

 一瞬、直子が何を言ったのかわからなかった。

「心なしか雨があたしを避けるんだ?」


 そこにさっきの店員がコーンスープを持ってきた。直子を怖がっているのか、カップの載った受け皿を持つ手が微かに震えている。どんな表情をしているのかと店員の顔を見れば、彼女の視線は手に持ったカップではなく直子に注がれていた。気性の荒い女主人に怯えるメイドのような視線だ。カップを見ていなかったせいで距離を測り損ねたらしく、置く時にガチャリと大きな音がして、中身が受け皿に少しこぼれた。直子の視線がカップに移り、店員の顔から血の気が引く。


「ちょっとどこ見てるのよ?」

 そう言ったのは直子ではなく真紀で、その言葉に店員だけでなく直子も少なからず驚いたが、一番驚いたのは発した真紀本人だった。「まさかこぼれた分まで金取るんじゃないでしょうね? え? それともコーンスープの本場では、一度皿に移してから飲むのが流儀とか?」


 店員が唖然と真紀の顔を見つめている。直子も初めこそ同じ表情をしていたが、やがて体を大きく震わせ始めた。笑いを堪えているらしい。泣き出して厨房に逃げ込むか、青褪めながら謝罪の言葉を口にするか、真紀は早いところどちらかの事態が起こることを望んだが、店員はそのどちらでもない行動を取った。カップを手に取り、中身を皿の上にさらにこぼしたのだ。中身が七割くらいになったところで、カップをその皿の上に戻す。コーンスープの海に浮かぶひょっこりひょうたん島ができあがった。


「今カップに残っているのが料金に含まれている分で、こぼれた分は当店からのサービスです」

 店員はそう言うと、二人の反応を確かめることもなく悠然と厨房へと帰って行った。直子と真紀は呆気に取られてその後ろ姿を見送り、それから同じ表情のまま見つめ合い、どちらからともなく笑いだした。


「あの店員、やるじゃない」と直子が演技がかった動作で手を叩く。「てか、お前、なんであんなにキレたんだよ? ちょっとこぼれただけじゃねぇか」

「だ、だって、何か焦っちゃって。あんたがキレて暴れ出すと思ったから」

「あたしはキングコングか」と直子が苦笑する。「でも、あたしがキレてお前が取りなす構図の方が結果的にはよかったんじゃないか? お前がキレたおかげで、店員までキレた」

「確かに」と真紀も笑う。その後で短い沈黙が訪れ、「ところで」と直子が改まった声を出す。

 閑話休題。今日ここへ来た理由を思い出し、真紀は身を固くした。


「ところで、コーンスープの本場ってどこなんだ?」

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