3 屋上の会話
抜けるような夏空の下に渡辺直子はいた。手すりに寄りかかり、景色を眺めている。もう煙草は吸っていなかった。真紀がゆっくりと直子の方へ歩み寄り、靴の下で小石が鳴ると、直子が振り向いた。まっすぐに真紀を見つめる。
声が十分に届く距離まで近づいても、真紀は何も言葉を発しなかった。発すべき言葉を考えていなかったのだ。ただ、鼓動が真紀の体を震わせているのを感じていた。直子は体ごと真紀に向き直った。白いブラウスの胸元が大胆に開いており、白い肌が覗いている。これだけ開いていても下着が見えないのは、彼女がそれを着けていないからではないのか、と真紀は関係のないことを思った。
それまで真紀の目にまっすぐ注がれていた直子の視線が、わずかに左に逸れた。その先を追って真紀が振り返る。誠生が扉の横で、事のなりゆきを推し量るようにこちらを見つめていた。どうやら近づいてくる意思はないようだった。
一点の曇りもない夏の日差しの中で三人の静かな視線が交錯したのは、いったいどのくらいの時間だっただろう。初めに言葉を発したのは、直子だった。
「あたしに何か用?」
とぼけているというよりは、真紀の出方をうかがっているようだった。
「手紙」
「手紙?」
直子は不思議そうに真紀を見つめる。言葉が続かない自分に苛立ちながらも、真紀はポケットから例の紙片を取り出すと、直子の顔に向ってぐいっと突き出した。直子が一歩近づいてそれを手に取る。
「これがあたしの仕業だと?」
素早く紙面に目を走らせてから、直子が言った。そうきたか、と真紀は思った。こっちは売られたケンカを買おうっていうのに、売っていないふりとは卑怯じゃないか。怒りが増すに従って、どういうわけか真紀は落ち着きを取り戻していった。
「昼休みに、あんたの
その真紀の言葉に直子は小さく噴き出した。
「シモベ、ときたか」
「そうだろ?」
「あたしにはファンと信者はいるけど、僕はいないよ」
そう言った直子が急に思案顔になった。真紀はおやっと思う。
「今、あいつらが昼休みに行ったって言ったか?」
「あぁ、そうだよ」
「何て言ってた?」
「そこにあるとおりだよ。放課後に屋上に来いって」
直子はもう一度紙切れに目を落とした。それから顔をあげ、少し遠くを見つめる。誠生が立っている方向だ。
「あいつはここで何してる?」
真紀は振り返る。誠生は姿勢も変えずにそこに立っていた。
「さぁ。勝手に付いてきたんだ。心配なんだろ?」
「何が?」
「何がって」
真紀は当惑した。こいつは本当に天才なのか? それとも、わざとやっているのか。
「私があんたにボコされるんじゃないかって、心配してるんだよ」
真紀と誠生を交互に見比べていた直子の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。微笑みの類ではなく、どちらかと言えば『不敵な』と形容されるべき笑い方だった。やがて体が小刻みに震え始め、ついには声をあげて笑った。心底面白そうに、屈託のない表情を浮かべている。真紀は、直子が笑っているところを初めて見ることに気づいた。白い肌に浮かんだ汗の粒がきらきらと光っていた。綺麗だ。真紀はそう思った。
「おいおい、何だが複雑になっちまったな」
「何が?」
「わかった」
直子はまだ笑みの残った顔で、ぴしゃりとそう言う。「あたしはお前をボコすことにするよ」
「へ?」
思わず間の抜けた声を出してしまった。直子は真紀に歩み寄り、その肩に手をかけた。香水でも付けているのか、甘い香りに混じって微かに汗の匂いがする。間近で見る直子の眼は、まるで人跡未踏の深い淵のように静かで不気味な光を宿していた。その引力に吸い込まれるような錯覚を覚える。
「お前をボコすよ。でも、今日じゃない。そうだな。ラブレターを出すから、そん時に会おう」
直子はそう言うと、ふっと微かに口元に笑みを浮かべ、立ち去った。真紀はしばらくの間、その場に立ち尽くした。
やっとのことで屋上からのたった一つの出口を顧みた時、直子の背中はちょうどその向こうに消えるところだった。扉がゆっくりと閉まり、最後にバタンと音をたてた。真紀は閉まった扉を見つめながら、直子と交わした会話を思い出していた。だが、麻酔がかかったようにうまく頭が回らない。
「大丈夫?」
気がつくと、誠生がすぐそばまで来ていた。
「あぁ、別に」
「何て言われたの?」
真紀は少し考える。
「私をボコすって」
「え? 呼び出されたの? いつ、どこに?」
「今度。どこかで」
「今度って、いつ?」
「ラブレター出すって」
「ラ、ラブレター?」
誠生の声がきれいに裏返った。
それから、何かを留めていたピンが外れたみたいに、真紀は突然頭をかきむしり始めた。
「な、何? どうしたの?」
誠生は思わず数歩後戻りしながら、そう尋ねた。
「あぁ、もう何なの! 結局私はボコされるわけ? て言うか、じゃあ今日は何のために呼び出したのよ。呼び出すために呼び出したわけ? 意味がわかんない。私が何したっていうのよ」
「さ、さぁ……」
気圧されながらも、誠生が答える。「美しすぎるのが罪だ、とか?」
真紀は鋭く誠生を睨む。
「あんたまで私にケンカ売ってるわけ?」
「まさか。無謀だ」
真紀が誠生の尻を蹴る。誠生は大げさに痛がって見せた。
ともあれ、二人は家路に着くことにする。階段を下りながら、真紀はふと気になったことを口にした。
「ねぇ、さっき直子に何て言われたの?」
「さっき? あぁ……」
直子が屋上から去る直前、誠生に何かを話しかけたように見えたのだ。
「別に。何でもないよ」
誠生は何でもなくはなさそうに、そう答えた。
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