2 ダイ・イズ・キャスト
放課後。「行かない方がいい」と忠告する友人たちに「もちろん、行かないわよ」と答えると、心配する彼女たちを帰らせ、真紀は一人教室に残って考えた。どうするべきか。なぜ私なのか。
犯人に心当たりはある。渡辺直子。県でもトップクラスの進学率を誇るこの高校で、彼女の存在は明らかに異質だった。彼女はほとんど学校に来ない。たまに来たとしても、授業にはほとんど顔を出さない。まれに出したとしても、ほとんど何も言葉を発しない。それでいて、周囲よりも一オクターブ低い空気が常に彼女の周りにはあった。
簡単に言ってしまえば、彼女はいわゆる不良に違いなかった。だが、彼女のことを単に『不良』だとか『問題児』という言葉で片付け、脇に追いやることには誰しもが抵抗を覚えた。直子にはある一つの逸話があるからだ。
渡辺直子は首席でこの高校に合格している。それも全教科満点で。だから教師たちは初め、直子を学校の模範生として祭り上げようとした。「みなさん、渡辺さんを見習いなさい」と。
しかし、教師の目論見は早々に狂った。直子がものの三日で不登校になったのだ。誇張でも、物のたとえでもなく、文字どおり三日だった。教師は初めのうち、大いに戸惑った。まぁ、今も戸惑ってはいるのだろうが、今はどこか諦観めいたものがあるのに対し、その当時は焦りがあった。教師たちは自分たちの期待が直子を押し潰してしまったと考えたのだ。「渡辺さん、いいんだ。自分のペースでやりなさい」と。
しかし、それは教師のエゴだった。直子は教師たちの期待も、圧力も、もちろん謝罪ですら、歯牙にも掛けていなかった。彼女は自分の意思で首席でこの高校に合格し、そして不登校になったのだ。
不良にして天才。あまり学校に来ないもんだから希少価値が付いた、というわけではないだろうが、女子生徒の一部には彼女の熱狂的なファンがいた。信者と言ってもいいかもしれない。彼女たちは久しぶりに登校してきた直子を取り巻き、「この間の期末テストでは誰それが一位を取ったけれど、直子がいれば間違いなく一位にはなれなかった」とか、「教師の誰それを殴ったやつがいて、あいつは最近調子に乗ってるから一度やっちゃおう」とか、そういう毒にも薬にもならないことを言った。時には、そういう気に入らない誰それを実際に屋上や体育館裏に呼び出すこともあるという。そう、ついさっきのように。
だから、誰かが怪我をしたり、しばらく学校に来なかったりすると、決まって『渡辺直子』の名前が実しやかに囁かれた。
真紀はふぅっと大きなため息を吐くと、立ち上がって窓際まで行き、窓を大きく開け放った。湿気を含んで重くなった夏の空気が、すぐに体に纏わりつく。何重にも重なり歪んだ蝉の鳴き声が、その空気に鈍く反響していた。真紀は眩暈を覚えた。
その時、真紀の鼻先を白い小さな結晶がひらひらと落ちていった。雪? いや、そんなわけはないか。そんなことを考える真紀の前を結晶は次から次へと舞っていく。手のひらを差し出すと、その上に落ちた結晶は消えることなく残った。白だけでなく所々に黒が混ざっていることに気づく。ひとしきり結晶が通り過ぎた後で、真紀は仰向けになる格好で頭を窓の外に出し、空を見上げた。
少し先に渡辺直子がいた。左手に煙草を持ち、視線はそこから見えるであろう街の片隅に向けられている。青い空に校舎の白壁と直子の白いシャツとが映えていた。そこに不穏な空気はまるでない。暑く穏やかな夏の光景だった。
次の瞬間、ふと直子の視線が下がり、真紀と目があった。真紀の心臓が強く打った。少しの間があってから、直子は煙草を持った手を左右に揺らした、ように見えた。
真紀は体を教室の中へと引き戻すと、大きく深呼吸をした。始まった、と真紀は思った。私は宣戦布告を受けたのだ。ダイ・イズ・キャスト。一日中、上の空だった今日の授業で唯一真紀の記憶に残った英語のフレーズが頭に浮かぶ。
ダイ・イズ・キャスト。アイ・マスト・ファイト。
真紀は勢いよく教室の扉を開けると、大股で屋上に向かった。階段を上っている途中で、下りてきた
「あ」
そう言ったまま、誠生は真紀を見つめる。悪い、今はそれどころじゃないんだ。幼稚園、いや、生まれた時からの腐れ縁である誠生に真紀は表情だけでそう告げる。
「真紀」
誠生はそれでも真紀を呼び止める。「屋上に行くのか?」
隣のクラスの誠生の耳にも、昼休みの出来事は届いているようだった。真紀は真剣な面持ちでこくりと頷くと、前を向き直り、歩を進める。が、すぐに誠生が後に付いてくるのに気がついた。
「どうして付いてくる?」
「どうしてって……」
誠生は面食らったような顔をしている。
「話をしてくるだけだから、心配いらないよ」
そう言うと、真紀は最後の数段を上り、扉を開いた。
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