5 勘違いの物語

「一言で言うと、これは勘違いの物語なんだ」と直子はコーンスープの海に浸したフォカッチャを頬張りながら言った。あの後すぐに男の店員が飛んでやってきて、お詫びの品だからどうか食べてくれと、半ば懇願するようにこのフォカッチャを置いていった。胸のネームプレートには「店長」とあった。


「勘違い?」

 直子が頷く。

「お前は、あたしがお前のことをボコそうとしてると思ってる。違うか?」

「違うの?」

「違う」

「あれはあいつらが勝手にやったことだ」

「けど、この間屋上で私をボコすって宣言したじゃない?」

「したか?」

「したよ」

「あれはあれだ、言葉のあやだ」

 そこで直子はフォカッチャを口に放り込んだ。「トーイックだ」

「トーイック?」

「そう、TOEIC。Test Of English for International Communication」

「ごめん。話が見えないんだけど」

「オーケー、順を追って話そう」

 直子はそう言うと、それが『順』の一つ目であるかのように、まずフォカッチャをスープに浸した。


「あいつらが、なぜお前を屋上に呼び出したか。その理由がトーイックだ」

「まだわからない」

「お前と屋上で話した後、あいつらにお前を呼び出した理由を聞いたんだ。そしたら、あいつらはこう言った。『あいつ、この間のトエイクであと十点で満点だったんで、調子にのってるんすよ』」

「あと十点? ていうか、『トエイク』って……」

「それであたしも先月トーイックを受けた」

「なんで?」

「負けず嫌いなんだ」

 真紀は直子の表情に注目したが、どうやら冗談や軽口の類ではなさそうだった。


「それで結果は?」

「あと十点で満点だった。お前と同じだ」

「いや、私はあと十点で満点じゃない」

「あたしもだ」

 真紀は、わからない、というように眉を寄せた。

「あんたと話をしてると、森で蝶々を追いかけてるような気分になる」

 直子はくすっと笑った。実に魅力的な笑みだった。

「似たようなことを言われることは多いけど、お前の表現が一番文学的だ」

「ありがとう」


 フォカッチャがまだ一つ残っていたが、直子はもう興味がないらしく、皿を真紀の方へ押し出すとタバコに火をつけた。真紀が脇にあった灰皿を差し出すと、「悪い」と小さな声で言った。

「あいつらにその結果を見せてやったら、あいつらはバツの悪そうな顔でこう言った。『いくら直子さんでもそういうこともありますよ』」

「なるほど、読めた。勘違いだ」

「だろ? 小さな勘違いによる何てことはない物語だ。酒のつまみにはなるかもしれないけど、これで小説でも書こうものなら間違いなく駄作だ」

「違いないね」

「トーイックを受けたこともないあいつらは、満点が千点だと思ってた。だからお前もあたしもあと十点で満点だったわけだ。そしてあたしには初めから勝ち目なんかなかった。負けか引き分けしかない勝負なんて、結末を知ってる映画と一緒だ。何の面白みもない」

 違う、と真紀は思った。結末は初めからそこにあったわけじゃない。それは直子が作り出したものだ。狙って満点を取った直子の勝ちだった。


「とにかく、これが勘違いの物語の第一部だ。名付けて、『トエイク満点でボコされそうになるの巻』」

 直子は人差し指を立ててそう言った。

「第一部?」

「そう。この物語は二部作なんだよ。気づいてたか?」

 真紀は一応考えてから、首を振った。

「だろうな。それが勘違いってもんだ。勘違いをしていることに気づかないから、勘違いなんだ」

「ちょっと待って。じゃあ、勘違いをしてるのは私ってこと?」

「いかにも」

 立てた人差し指を無遠慮に真紀の鼻先に突きつける。「題して、『さっきの手紙のご用事なあにの巻』」


 直子は後ろを振り返るようにして、厨房の方を見やった。つられて真紀もそちらを見る。どうやら厨房の手前の壁に掛けられた時計を見ているらしい。時刻は午後五時四十五分だった。

「この話はそもそもの発端から間違ってたんだ」

「発端?」

「そう。何なら第一話の一行目から読み直してもいい。お前にとって、この話は何から始まった?」

「私にとって?」

 真紀は記憶を二カ月前に巻き戻す。そうだ、あの手紙だ。


「手紙が下駄箱に入ってた」

「屋上であたしに見せたやつだよな? 『屋上で待つ。一人で来い』、そう書いてあった。それを読んで、お前はどう思った?」

「どうって、あんたに呼び出されたと思ったよ」

 それこそラブレターと勘違いしたことは言わないことにした。「実際にあんたがいた」

「そうなんだ。偶然にもあたしがあそこにいた。まぁ、あたしは暇な時はほとんど屋上にいるから、偶然というにはちょっとばかし確率が高いには高いんだけど、とにかく、それで一見筋が通っちまった。でも、あの時言ったように、あたしはあの手紙を書いてない」

 そう言われれば、確かに今日受け取った二枚目は字体が全く違っていた。


「じゃあ、あの三人組が書いたんだろ? 昼休みに私のところに来たあんたのシモベの」

「そこだ。よりによって、あの三人もあの日にお前のところに行った。でも、よく考えてみろ。教室まで行くなら、どうしてわざわざ手紙を書く必要がある? というか、あいつらは手紙なんていう古き良き文化に縁がない」

 言われてみれば、確かにそのとおりだった。

「じゃあ、いったい誰が?」

「あの時、屋上にいたやつがもう一人いただろ?」

「もう一人?」

 記憶を辿るまでもなく、その人物の顔が浮かぶ。そう言えば屋上に続く階段を上っていた時、あいつは上から下りてきた。屋上から。

「でも、なんで……」

「おっと、続きは本人から聞いた方がいいだろう」


 そう言って、直子は顎で自分の右手後方をしゃくった。店の入り口の方向だ。視線をずらすと、今まさに噂のその人が店に入ってきたところだった。店員と二言三言言葉を交わした後、店内を見回し、すぐに真紀を見つけて歩み寄って来た。しかし近づくにつれ、直子の存在に気がついたらしく、その歩調がゆっくりになっていく。二人の座っているテーブルに到着したところで、直子が腰を上げる。

「邪魔したな。あとは二人で仲良くやってくれ」


 そう言って伝票を摘みあげると、出口に向かった。しかし、数歩進んだところで何かを思い出したように振り返る。

「真紀。コーンスープもいいけどよ、今度は一杯やろうぜ。いいジャズバー知ってるから」

 そう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。うっとりするような、それでいて泣きたくなるような不思議な笑顔だった。

「この国の高校生って、ジャズバーで一杯やっていいんだっけ?」


 やがてレジで支払いを終えた直子が店から出ていく。気がつけばさっきまで降っていた雨は嘘のように上がっていて、黄色く透明な空気が街を満たしていた。濡れた街並みがきらきらと輝いている。


 直子は店の目の前に停まっていた黒いセダンの助手席のドアを開けた。そのまま乗り込むと、セダンがゆっくりと発進する。真紀はやれやれと思った。どおりで濡れないはずだ。

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