2 懐古

「仕事、何時まで?」


 気がつくと、カウンターを挟んで目と鼻の先に男が立っていた。どうやら知らぬ間に物思いに耽っていたらしい。どこから来たのかと訝しんだが、すぐに奥のテーブルで派手にやっていたグループの一人だということに思い当たった。質問に答えない彼女に向かって、その男は「ヤヨイちゃん」と呼びかけた。


 いぶかしそうに目を細める彼女の左胸を、男は幾分得意気に指差した。この店に制服らしい制服はないが、黒いシャツにネームプレートを付けることが暗黙のルールとなっている。男が指差したのは「YAYOI」と書かれたネームプレートだった。弥生は煙草をゆっくりと吸うと、ため息とともに煙を吐き出した。


「おいしいウィスキーちょうだい」

 今しがたの質問に弥生が答える前に、男は千円札を二枚、カウンターに放り出しながら言った。弥生は返事をする代わりにくわえていた煙草を足元に捨てると、靴底で踏みつぶした。にこりともせずに、そしてろくに考えもせずに、棚から十二年物のマッカランのボトルを手に取った。男の気を悪くしない程度に値が張ったし、何より残りわずかだったので棚を空けることができた。


「ストレート、ノー・チェイサー」

 男が演技掛かった声色でそう言い、人差し指で天井を指差した。つられて見上げそうになったが、寸でのところで男が指差しているのは天井ではなく、天井から流れている音楽のことだと気がついた。見上げたところで天井には薄汚れたシミしかないことはわかっているし(そんなものをわざわざ指差す客はいない)、何より、その時流れていた曲がセロニアス・モンクの「ストレート、ノー・チェイサー」だった。


「仕事は何時まで?」

 男は同じ質問を重ねる。

「あなたに関係があるかしら?」 

 弥生は、男が差し出した手を無視してマッカランをカウンターの上に置いた。

「僕は君と海に行きたいんだ。君の仕事が終わり次第ね。だから、僕にとっては大いにある」


 弥生はその真意を推し量るように、男の顔を見つめた。長い前髪の奥にある目は、思いのほか優しい光を宿していた。自分の心の底に眠っているもの――名前を付けるなら「懐古」や「郷愁」と呼べそうなもの――をそっとすくい上げられているような気がした。弥生は思わず目を逸らし、新しい煙草に火をつける。千円札をレジにしまうと、釣り銭を投げ捨てるように返す。男はマッカランをまるでビールのように勢いよく流し込むと、飲み込むのが早いか、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「まずい!」

「あぁ?」

 反射的に弥生も棘のある声を出す。

「いや、失礼。君の酒がまずいと言ったんじゃないんだ」

 男は慌てて弁明する。

「じゃあ、何がまずいんだよ。浮気相手の家に忘れ物でもしたか?」

「いや、浮気相手を家に忘れてきた」

 男は弥生の反応を伺うように間を作ってから、ふんと鼻で笑った。「冗談だよ。実はウィスキーを飲むのは初めてなんだ」

「じゃあなんで、あんな粋がって注文したんだよ?」

「僕の小さな夢だったんだ。君みたいな素敵なバーテンダーに、ああやって粋がってウィスキーを注文するのが」

「ふん、ちっぽけな夢ね」

「だから、自分でそう言ってる」

 男はもう一度、今度は熱いコーヒーでも飲むみたいにグラスを啜ってから、やはり同じように顔をしかめた。


「どこかで会ったことがあるかしら?」

 気がつくと、弥生はそう尋ねていた。そう思わず尋ねてしまうような既知感が男にはあった。私はこの人にどこかで会っている。男は一瞬きょとんとしたあと、大げさに笑い始めた。

「いつもそんなふうに男を口説くの?」

「『君と海に行きたいんだ』なんていう時代遅れなセリフより、よっぽどマシだと思うけど」

 別段の意図はなかったとはいえ、軽率な質問をしてしまった自分に対する嫌悪感を、男に対するそれに置き換え、弥生はあからさまに不機嫌な顔を浮かべた。


「時代遅れ、か。そりゃそうだ」

 男はなおも面白そうにそう言った。「三時。それより遅くはならないだろ?」

 弥生は、さぁね、というように首を傾げる。

「外で待ってる」

 男は一方的にそう言うと、元いたところへと戻って行った。勝手にすればいい、弥生はそう思った。


 二時半に外に出た時、男は本当にそこにいた。弥生は男が何かを言う前に、これ見よがしにため息を一つ吐いた。

「あなたってよっぽど暇なのね」

 言いながら、どこかで男がいることを期待していた自分をやはり少なからず嫌悪した。

「いつも初対面の人にそんな失礼なことを言うの?」

 男は弥生の言葉を気にする様子もなく、人懐っこい笑顔を浮かべている。「で? 行くの? 行かないの?」

 そう言って、停めてあった車のルーフトップに得意げに左手を載せる。どうやらそれが男の車らしかった。赤のフェアレディZ。いけ好かない車だ。

「どこに?」

「海だよ」

「夜中の二時半よ」

「夜中の二時半でも海はあると思うよ」

 男はそう言うと、さっさと運転席に乗り込んだ。車のエンジンをかけ、助手席の窓を開ける。


「乗らないの?」

「あなたが運転するの?」

「確かにいい車だけど、自動操縦はできないんだ。あいにく見ての通り、俺たち以外に誰もいないしね」

 弥生はもう一つため息を吐くと、助手席のドアを開け、乗り込んだ。シートに座ると、沈み込むような、包み込まれるような感覚がある。


「あなた、二時間前までビールをしこたま飲んでたじゃない?」

「ビールと粋がって注文したウィスキーね」

「あなたのちっぽけな夢」

「そう、僕のちっぽけな夢」

 そう言って男は満足そうに微笑んだ。「二時間前なんて大昔だよ。それとも、ルールは守る主義?」

「まさか。主義を守ることをルールにしてるだけ」

 少し考えるような間があってから、男は「面白いことを言うね」と言った。


 滑るように動き出した車は、従順なしもべのように弥生たちを目的地へ、それがどこであるかは別として、誘った。男のハンドルの動きにあわせて車が動いているのではなく、車の動きにあわせて男がハンドルを動かしている。そんな感じだった。

「前に会ったことがあるか、さっきそう訊いたよね?」

「訊いたかしら?」と弥生は嘯く。

「僕は君を知らない。でも君は僕を知っているかもしれない。あるいはもっと根本的な関係とも言える」

「それって、なぞなぞか何か?」


 男は短く笑い、その会話はそこで終わった。エンジン音が夜の帳を切り裂く。高低を繰り返すその音が、中空に浮いた二人の会話の切れ端を辛うじて地表に繋ぎとめていた。

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