Journey
1 陽炎
眠い。男は疲れていた。ハンドルを握る手を少し傾け、時間を確認する。夜がその闇を最も深くする頃だった。瀬戸内にある工場を出たのが夕方だったから、もうかれこれ十時間近く経とうとしていた。途中に一度、遅い夕飯を取るためにサービスエリアに寄った以外は、ほとんどハンドルを握りっぱなしだった。
溝口亮平というのが男の名前で、彼が握っているのはトラックのハンドルである。安アパートの一室ほどはあろうかというコンテナには、しっかりと緩衝材で梱包され、ダンボールに収められた腕時計が積まれていた。
溝口は運送会社に勤めている。だから荷物を運ぶのが彼の仕事であり、その荷物が時計であってももちろんおかしくはない。しかし、彼が「今」「眠たそうに」「時計を」運んでいるのにはちょっとした理由があった。
掻い摘んで述べれば、こうなる。
ある俳優がいた。年は溝口と同じ二十代半ばで、整った顔立ちをし、飾らない服装が清々しかった。演技だけでなく、歌も上手い。トーク番組に出演すればウィットに富んだ会話で場を盛り上げたし、誠実そうな人柄は画面越しにお茶の間まで伝わった。要は全てに恵まれていたのだ。
彼は現在放送中の探偵物のドラマに出演している。周りを固める役者からスタッフ、脚本家まで実力と実績を兼ね揃えた人材のみが集められた。土曜の午後九時という時間までが完璧だった。ドラマは当然のごとくヒットした。学校でも会社でも、あるいは昼下がりのファミレスでも、彼と彼のドラマに関する話題は飽きることなく繰り返された。
やがて土曜九時の一時間だけでは吸収しきれなくなったその熱気は、様々な所に波及した。雑誌やテレビでは彼の特集が組まれ、彼の歌う歌はラジオの電波に乗って日本中を駆け回った。彼が身につける服やアクセサリーは飛ぶように売れた。それまで全国展開するジーンズショップの片隅で忘れられたように売られていたTシャツが、彼がそれを身につけてテレビに映った数日後には、もうどこの店を探しても見つけることはできなかった。
もちろん、何が何でも日本国民が一人残らず彼に熱狂したなんてことはない。むしろそんな人たちはほんの一握りだった。しかし、彼らが生み出す熱の塊は、マスコミによって肥大化され、その温度を増し、日本中を包み込んだ。皆が何となく、何かに酔ったような状況だったのだ。
冷静に考えてみれば、不思議で不可解で不合理な現象だった。何かが根本的に間違っていた。しかし、最も根本的に間違っていたのは、誰もそのことを指摘しなかったことだった。
今、溝口が眠たい目を擦りながら必死に運んでいる腕時計も、そんな陽炎の一つである。その俳優と、彼が「親しくお付き合いさせていただいているお友達」がホノルルのビーチで日光浴をした時、彼が付けていたのがこの時計だった。元々それほど流通量が多くなかったその時計は、すぐに欠品となった。メーカーはここぞとばかりに生産ラインを拡大したが、三歩遅れて需要に食らいついていくのが精一杯だった。
そんななか、一つの問題が発生した。出荷した製品の一部に不具合が発見されたのである。時折、秒針が痙攣でもするように細かく震えるというのが症状だった。メーカーが発表した釈明文の内容は何やら複雑だったが、とどのつまりは、製造する機械のスピードと稼働時間を急激に増したことが原因だった。精度が落ちたのだ。ただ、不良品をそうと気づかずに出荷してしまったのには、過密したスケジュールに起因する人為的ミスがあったとも言われている。
ともかく、メーカー側は不良品の回収と新品の出荷に躍起になった。これが一時的なブームであることを、実態のない陽炎であることを、生み出している本人たちも知っていたのだ。今、この時を逃がすわけにはいかない。
これが今、溝口が夜通しトラックを走らせている大きな意味での理由だった。小さな意味で言えば、事業所の仮眠室で寝ていた溝口の肩を所長が叩いたからに違いなかった。
「仕事だ」と所長は言った。
「仕事って、今一つ終わったばっかりですよ」
「お前の今は一体いつだ? 四時間も前だろう? とっくに大昔だよ」
四時間前、溝口は博多からトラックを走らせ帰ってきたばかりだった。大体人が少ないくせに仕事が多すぎる、と溝口は思う。
その時計メーカーはそれほど名の知れた会社ではなかった。神戸に本社があるほかは、関西圏にいくつかのこじんまりとした事業所を抱えているだけだ。そこに突然、桁違いの発注が舞い込んだ。製造するほうも必死だが、それを運ぶほうも死に物狂いである。
元々溝口の会社を含め三社で製品の輸送を請け負っていたが、出荷数が増えてもそれは変わらなかった。せっかくのチャンスをみすみす他の会社に分け与えるわけにはいかない。結果、以前より安い金で受注せざるを得なかった。明らかに無理な経営だった。そしてそのつけは、溝口たちのような実際にハンドルを握る人間に回ってくる。
溝口は買い込んであった缶コーヒーの一つを開けると、勢いよく流し込んだ。
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