3 記憶

 驚いたことに、男は本当に海に向かっているらしかった。


 車は幹線道路から海岸沿いの幅の広い道路に入る。運転手が仮眠をしていると思しきトラックが数台停車していた。男はそのトラックから少し離れた路肩に車を停めると、海だ、海だ、と子どものようにはしゃいで車を降りた。弥生も仕方なく後に続く。


 コンクリートの堤防を登ると、まず目に入ったのが東京湾の反対側で輝く工場の灯りだった。オレンジの小さな光が無数に瞬いている。綺麗だな、と弥生は思った。「そうだろ?」と隣の男が自慢げに言う。どうやら無意識に声に出していたらしい。


 しかし、肝心の海は、当然と言えば当然だが、漆黒の闇に同化しその姿を見ることができなかった。それがあるべきところには、黒く大きな穴がぽっかりと口を開けていた。

「海が見えない」と弥生は指摘する。

「夜の海は見るものじゃない」と男は言う。「聴くものだ」と。

「海がきこえる」と弥生は言った。

「風の歌を聴け」と男は言った。


 完璧な絶望という言葉が頭を過ぎる。彼が言うように、恐らくそんなものはないのだろう。もしそれに幾分か近いものがあるとすれば、目の前の海の暗さがそれかもしれないと弥生は思う。それでもどこかに光はある。要は、どこを見るかの問題なのだ。絶望ですら主観的だと言うこともできる。そういう意味で、恐らく完璧な絶望というものはない。他のあらゆるものがそうであるように。


 海は聴くものだと言った男は、その言葉通り目を閉じたまま何も語ろうとはしなかった。岸壁にぶつかる波の音がかすかに聞こえた。


 海に来るのはいつ以来だろうと弥生は考えた。少なくとも思い出せる記憶の中にはなかった。彼女は海が好きではなかった。その茫洋ぼうようさは、時に多くの人を無邪気に引きつけ、時に一人の人間を孤独にさせる。そしてその両方を弥生は恐れた。


 今、弥生は海の気配を目前に感じながら、昔を思い出していた。校舎の屋上に立ち、眼下に広がる街並みを見下ろす。あの時、彼女は校舎の屋上で海を思っていた。そして今、彼女は海を見ながらあの街並みを思っている。そこには物理的な距離も時間的な隔たりもなかった。ただあるのは、孤独感だけだった。


「明日の予定は?」と車に戻りながら男が訊いた。

「別にない」と弥生は答えた。「日が暮れたら、またあの店でしょうもない客どもに酒を注ぐだけだ」と。男は短く笑った。

「しょうもない客っていうのは、夜中の三時に『海に行こう』とか言うやつのことかな?」

「正確に言うと、『俺は君と海に行きたいんだ』とか言うやつのことよ」

「すごく素敵なセリフだと思うけど」と男は幾分気分を害したように漏らした。

「まぁ、その通りだけど」と弥生は素直に認めた。


 助手席のドアに手をかけたところで、弥生はふと思いついて言った。

「私に運転させてくれない?」

「いいけど、マニュアルだよ?」

 少し考える間があってから、男は答えた。

「あら、その方がいいじゃない? 自分で運転してる感じがして」


 二人はドアを離れ、車の前方に回り込んだ。すれ違う時、男は弥生の眼前に鍵を垂らした。弥生はその鍵を掴んだが、男は手を離さなかった。ほんの数秒、二人は一つの鍵を握りながら見つめ合う。

「質問がある」と男が切り出す。街路灯にぼんやりと浮かび上がる表情は、何かを決意したように固かった。「どうして、弥生なんていう偽名を使ってるんだ?」


 女は驚いた。確かに、弥生というのは彼女の名前ではなかったが、男がそのことに気づいているとは思わなかった。

「どうして偽名だとわかったの?」

「先に俺の質問に答えてくれないか?」

 今までの能天気な雰囲気から一転した男の様子に、女は初めて恐怖に似た感情を抱いた。

「偽名じゃない」と女は言った。「ネームプレートを付け間違ったんだ。単純に」

「それだけ?」

「それだけ。弥生っていうのは、同じ店で働いてる同僚。どこかのタイミングでネームプレートが入れ換わったみたいだ。あんたに名前を呼ばれるまで気づいてなかったんだけどね」

 男は「なるほど」と言ったきり、女の言葉を信じていいものかどうか思案するような表情で黙りこんだ。


「それで? 私の質問に対する答えは?」

「どうして俺はそんなに格好いいのか、だっけ?」

「違う。全然違う」と女は無下むげに否定する。「どうして、私の名前が弥生じゃないとわかった?」

 その質問に対して男は愛くるしい笑みを浮かべただけで、助手席へと歩を進めた。

「わかった。質問を変える。なぜ私の本名を訊かない?」

 男は助手席のドアを開けた。そのままやはり質問に答えずに乗り込むかと思ったが、男は少し逡巡した後に口を開いた。

「その二つの質問に対する答えは同じだ。俺は君の本名を知っている」

 その瞬間、女の心臓が、どくり、と鼓動した。ある一人の人物の存在が脳裏に浮かぶ。

「まさか……」


 その時、目の端に光が差した。きらきらと煌めく水面。焼けるような日差し。幾重にも重なる甲高い笑い声の中に、彼女の名を呼ぶ声を聞いた。数少ない海の記憶は、母親の記憶だった。お母さん? どこか遠くで男の叫び声が聞こえる。

「……ぶない! 直子!」


 次の瞬間、壁のような波が直子を襲った。

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