第九話
―――
そこは殺風景な部屋だった。必要最低限な物しか置いておらず、壁も天井も真っ白く染められていた。
その中で部屋の主たる人物はゆっくり振り向いた。
「初めまして。高林といいます。黒木、恭介君ですね。」
「はい……」
顔に似合っている渋い声を頭の上で聞きながら、恭介は聞こえるか聞こえないかぐらいの声で返事をした。
「そこの椅子にどうぞ。あ、ご両親はこちら。」
「あ、はい。」
医師の向かい側にある椅子に恭介が座り、両親はその後ろに並べられた椅子に揃って腰を下ろした。恭介は居心地悪そうに体勢を立て直しつつ、そっと医師の方を盗み見た。
高林医師はいかにも気むずかしいお医者様みたいな風貌をしていたが、かといって取っつきにくい訳でもなさそうで、何処か温かみのある雰囲気を醸し出していた。さすが精神科の医師だと恭介は思った。
人の目を見る瞳は優しく、包容力のある深みがあり、人の心の奥深くを見透かすようだった。
「さて、何から聞こうかな?」
黒木恭介と書かれたカルテを手元に寄せながら悪戯っぽく言うと、恭介の方に体を向かせた。
「じゃあまず名前、生年月日、お父さんの名前、お母さんの名前、兄弟の名前、何人家族か、卒業した小学校・中学校・高校・大学・今勤めている会社の名前、入社して何年か、一番仲の良い友達の名前、好きな食べ物、好きなテレビ番組、趣味、特技……まぁ、このくらいかな。最初だから。答えられる範囲でいいからね。はい、どうぞ。」
穏やかな雰囲気とは打って変わって早口に捲し立てられて、恭介はおろか両親もビックリして顔を見合わせた。
「え、えっと……まず、名前は黒木恭介です。父は黒木茂、母は黒木葉子。二つ離れた弟がいます。名前は剛。四人家族です。あと何だっけ?あぁ、生年月日か。1992年8月11日。」
そして小学校・中学校・高校・大学など、履歴書に書くような項目と会社名を答えた後、仲の良い友達は適当に同僚の名前を口にした。好きな食べ物、テレビ番組も適当に思いつくものを答えた。
「趣味、特技かぁ……」
一番苦手な質問だった。少し考えた後、いつもの様に読書と答えた。
「ほぉ~読書か、良いですね。どんな本を読んでるんですか?」
「色んなジャンルを読みますけど、好きなのは探偵小説というか推理小説ですね。」
「推理小説ですか。私も実は読むんですよ。恭介君は海外派ですか、国内派ですか?」
「僕は拘らないです。どちらも面白ければ良いと思います。」
「なるほど、なるほど。」
リズミカルに相槌を打ちながらカルテに何やら書き込む。恭介はボーッとその手を見つめていた。
「ところでお父さん、お母さんに質問します。」
「は、はい!」
急に呼ばれて戸惑いながら、両親は居住まいを正した。
「恭介君が元気がなくなったのはいつぐらいからでしたか?」
「えっと……会社での事を余り話してくれなくなったのは、三ヶ月くらい前からでした。それまでは時々話してくれてたんですよ。新しい仕事を任されたとか嬉しそうに……後は、食欲が無くなったのは一ヶ月前くらい、ほとんど食べなくなったのは、ここ二週間です。」
母のこの言葉を聞いて恭介はビックリしてしまった。こんなにも自分の事を見ていてくれてたのだと、嬉しくなった。
しかしそう思う反面、気づいていなかった、いや気づこうともしていなかった自分を恥じた。
「そうですか。恭介君はどんなお子さんでしたか?」
「え?どんなって……」
高林医師と目が合ったらしい父は、しどろもどろになりながらも答えた。
「大人しくて手がかからない子でした。男の子だというのに外遊びより、家の中で本を読んでいる方が好きな子で。だからこの子が小学校に上がった時、とても分厚い昔話の本をお祝いに買ってやったんです。これからたくさんの言葉や漢字を習うからその足しになるだろうと思って。まだひらがなすらも読めないのにこいつは喜んでね、それから学校で漢字を学ぶ前より早く難しい字を読んでましたよ。そのお陰か国語が一番得意で、テストはほとんど百点満点でした。算数や理科はちょっと苦手だったかな。」
父はそう言うと、懐かしげに恭介を見た。母と同様、自分をちゃんと見てくれていた父に心の中で『ありがとう』と呟いた。
「弟の剛とは違って大人しくて思いやりのある子でした。だからといって剛がとんでもなくダメな子だとは言わないけど。」
そこでその場に笑いが起こる。恭介もくすりと思わず笑った。
「私たちに対して歯向かったり手を上げたりとか、そういう事は一度だってなかった。無茶して心配かけたり、人様に迷惑かけたりした事もない。ずっと良い子で、こんな事言ったら気を悪くするかも知れないけど、本当に優等生で手のかからない子どもでした。」
最後の方でチラッと恭介を見た後、そう話を締め括った。
「なるほど。素直で真っ直ぐで良いお子さんですね。」
笑顔でそう言いながら更にカルテに一言書き加えた後、医師はおもむろに椅子から立ち上がった。
「さて、ここからは恭介君一人に聞きたい事があるので、ご両親は廊下の待合室で待っていてもらえませんか?」
「え?恭介一人ですか?それは……」
「これは恭介君の問題ですのでね。これ以上の詳しい事は、恭介君自身にしかわからない事ですから。」
高林医師の厳とした言い方に、両親は渋々廊下へと出て行った。
「それでは詳しく聞かせてもらおうかな。きっかけはどういう事だったのか。先生に全部話して下さい。」
優しい口調とは裏腹に例の人の心の奥深くを見透かすような瞳に見つめられ、恭介は身震いを感じながらもこれまでの経緯を語り始めた……
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