第十五話
―――
恭介は目を覚ました。真っ白い天井が見える。壁も床も白く、眩しくて目を細めた。どうやらベッドで寝ていたようで、頭を動かすとふかふかの枕の感触がした。
「ここは……」
そう呟くとベッドに起き上がって辺りを見渡した。病院のようだった。しかも個室だ。恭介はそっとベッドから足を下ろした。
「いっ!?」
ベッドに手をついた瞬間手首が痛んで、思わず反対の手で押さえた。痛んだ左手を見ると包帯で覆われていた。
「そうか…僕はあの時……」
恭介はようやく思い出した。あの時、両親の目の前で手首を切った事を。
『コンコン』
ノックの音がして扉が開く。恭介はぼんやりとした頭のまま、そちらを振り向いた。
「恭介!起きたのか。」
「うん、ここは?」
「高林先生の病院だよ。最初は救急車で行ったから総合病院に連れていかれたけど、事情を話したら移してもらえた。」
「そう。」
「ほら、寝てなさい。まだ痛むだろう。」
「うん。」
父に支えられてベッドに横になる。恭介は天井を見上げながらこう言った。
「何も聞かないんだね。何でこんな事したのか。」
途端に父の顔色が変わる。一瞬躊躇した恭介だったが、構わずに続けた。
「何で手首なんか切ったのか、知りたくないの?」
「…………」
黙っている父。恭介はいてもたってもいられなくなって起き上がった。
「知りたくないのは僕の中に踏み込みたくないからだろう?いつもそうだった。ずっと昔から。僕の内面を見ようとしない、僕の気持ちをわかってくれない。お兄ちゃんだからって誤魔化して、剛のせいにして僕から逃げた!」
「恭介!」
脇のテーブルに置いてあったものを手当たり次第に投げつける。陶器のマグカップが音を立てて割れた。
「病院に初めて来た時、僕は嬉しかったんだ。子どもの頃の事を語ってくれた事が。見てくれてたんだ、わかってくれてたんだ、って。でも本当は違った。いつも父さんと母さんは僕から逃げてた。剛を言い訳にして!」
「違う!違うんだ、恭介!話を聞いてくれ。」
「何を聞くって言うの?本当の事でしょ?誕生日のケーキはいつも剛が一番大きかった。剛が壊したプラモデルも、剛は責められなかったし、僕はお兄ちゃんだからって我慢した。そうだよ、僕はお兄ちゃんだよ。だから我慢した。我慢し続けた。いつか良い事があるかもって期待して。でもなかった。挙げ句の果てにこんな病気になって皆に迷惑かけて。いっそ死んでしまえば良かったのに!」
「恭介!!」
父に肩を掴まれた。顔を上げると目に涙をいっぱい溜めた父が、こちらを真剣な眼差しで見つめていた。
「何を言うんだ!死んでしまった方がいいだなんて……母さんが聞いたら泣くぞ。」
「いいよ、もう。母さんの事気にして生きていくの、辛い。それに誰も僕の事なんてわかってくれないんだから、生きていても仕方が……」
「そんな事はない!そりゃ小さい頃は剛にかこつけてお前を蔑ろにしてしまった事もあった。お兄ちゃんだからって言えば、お前が何も言えない事を利用して都合よく使っていた事も自覚している。だからこそ今は分かり合おうと努力している。お前がこんな事したのも私達の責任だ。だから嘘でもそんな事言うなよ。お前……恭介は私達の大切な息子なんだから。そんな、悲しい事言わないでくれ……」
父が懇願するように頭を下げた。言っている事はわかった。そんな風に思ってくれていたんだと嬉しい気持ちが心の底から沸き上がってきたし、感激した。
しかし恭介の心の闇は、そんな事では晴れなかった。
「わかった、もういい。しばらく一人にしてくれない?」
そう言うと、布団を頭から被って父に背を向けたのだった。
―――
次に目を覚ました時は傍に母がいた。覗き込んでくる母に、恭介はそっと目を逸らした。
「恭介!今高林先生呼んでくるからね!」
「後でいいよ。」
「そ、そう?じゃあ後で……」
そう言って椅子に座った。しばらく気まずい沈黙が場を支配したが、母がぽつりと溢した。
「何で……こんな事したの?」
恭介は母の方を向いた。母は真っ直ぐ壁を見ていた。
「実は自分でもよくわかんないんだよね。」
「え?」
「あの時の記憶、あまりないんだ。父さんが帰ってきた辺りからぼんやりと覚えてる。暴れたって聞いて母さんの顔見た瞬間、信じられなくて……それと今までのもやもやした感情が爆発したみたいになって、ああいう事に……」
「そう……」
「それにしてもどうして暴れたりしたんだろう……?」
恭介が呟いた時だった。母がピクリと肩を揺らした。
「どうしたの?」
「ごめんなさい!」
「え……」
突然立ち上がって謝ってくる。恭介は不意を突かれたようになってポカンとした。
「実はあの時、私が強引に連れ出そうとしたの。」
「え?どういう事?」
「あんまり部屋に閉じ籠っているから、たまには出かけるのも悪くないんじゃないかと思って。でも部屋から出した途端、暴れちゃって……」
「そう、だったの……」
「ごめんね、恭介。」
「いやこっちこそ……殴ったりなんかして、ごめん……」
母の頬に目をやる。まだ少し腫れていた。
そういう事情だったのか、と納得した反面、他にも何かあったんじゃないかという気持ちになる。自分がそんな事で手を上げるなんて未だに信じられないだけかも知れないが。
ちらと母に目をやった。腫れた頬に手をやりながら何やらボーッと物思いに耽っている。
ふと恭介は言い知れない不安を抱いた。今まで感じた事のない感情と、何処か気まずい空気が複雑に絡みついていくのを感じていた……
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