第五話


―――


 結局今の恭介に任された仕事は、お茶汲みやコピー取りなどだった。


 岡本達同僚は優しく接してくれたが、それが却って恭介には苦痛だった。でも仕方がない。自分が望んだ事なのだから。


 そう言い聞かせ、今日も仕事に行く為に家を出た。恭介は車に乗って会社へと向かった。



 一体自分はどうしてしまったのだろう。こんな事は今までなかった。至って健康体で体力にはそれなりに自信はあった。


 徹夜をしても次の日にはちゃんと出勤し、入社して五年間、一日も休んだ事はなかった。だからこそ、休みを取れという課長の言葉が深く胸に刺さったのだ。


 自分でも流石にわかっている。今の自分は異常だと。しかし何をどうしたらいいのか、わからないでいたのだった。


 会社までの道のりを安全運転で、何の問題もなく半分ほどの距離を行った時だった。

 直進車を見送りハンドルを右に切った時、突然の吐き気に襲われた。


「うっ!!」


 幸いな事に吐き気だけで済んだが、胃の辺りがもやもやして気持ち悪い。このままでは運転に支障をきたしかねないと判断して、曲がって少し行った先でハザードを点けて停まった。


「はぁっ…はぁっ……」

 窓を開けて深呼吸を繰り返す。シートをゆっくりと傾けて楽な姿勢で横になった。


「ふぅ~……」

 もう一度大きく深呼吸をする。大分良くなってきたみたいだが、まだ少し気分は悪かった。

 ふと腕時計に目を落とすとビックリして起き上がる。思ったより時間が経っていたのだ。


「やばっ!遅れる……」

 車を発進させるべく顔を上げた。途端、フロントガラスの向こうから何かに見られている、という妙な感覚に襲われた。しかし目を凝らしても何もない。ただいつもと同じ日常がそこに流れているだけだった。


「!!」


 バックミラーに目をやると、そこには今にも恭介の車を追い越そうとするトラックが映っていた。良くある光景のはずなのに、その時の恭介は何故かとてつもない恐怖を感じ、運転席の椅子にまるで隠れるように蹲ってしまった。


「こわい……」


 思わず声に出して呟いていた。

 前からも後ろからも左右からも、何か得体の知れないものが迫ってくる感覚が拭いきれない。


 何かが来る。俺に向かって……

「こわい……こわい!!」


 目を瞑って耳を塞いで出来る限り小さく身を縮ませながら、恭介は一人暗い穴の中へと落ちていった……




―――


 恭介はどこまでも続く暗い闇の中を、当てもなく歩いていた。いや、歩いているのか止まっているのか、はたまた走っているのかわからない程、周りの闇は深く暗かった。自分の体が自分のものじゃないみたいだった。


「ここは……?」

 恭介はかろうじて出た掠れ声で呟いた。


 そこは不思議な場所だった。どこもかしこも黒い壁のようなものが圧倒的な存在感、圧迫感をもって覆い被さってくるように感じる。

 右も左も前も後ろも、上も下も……全てが深い底のない闇に塗り潰されていた。まるで恭介以外の全てのものが、その黒い色に染められてしまったかのように。


 いや、もしかすると恭介自身、既に全身真っ黒に染め上げられているのかも知れない……


「ここはもしかしたら、天国……?いや、地獄か?」

 自嘲気味にそう言った時、不意に目の前の壁がゆっくりと音もなく開いた。


「え……?」

 黒い空間に突如として現れた丸い穴は、しかし不思議な事に他と同じ真っ黒い色をしていた。それでもそこに穴があり、向こうにはこことは別の空間があるのだと直感的に感じられた。


『そこの者に尋ねる。お前はこの先ずっとここにいたいか。辛い事も悲しい事も憎しみも恐怖さえない、この黒い世界に。』


 何処からともなく声が聞こえ、恭介に語りかけた。恭介は驚きと恐怖と、そして何故か冷静な気持ちでその声が放つ言葉を聞いていた。


『ここにいれば今までお前が感じてきたいくつもの感情から逃れられる。しかし……』

 声はそこで一旦言葉を切った。まるで恭介を試そうとしているかのように。


『お前の意思でここにいる事を選んだその時から、もう二度と元の世界には戻れない。いくら叫んでも後悔しても、神に祈っても悪魔に魂を売り渡しても……それでもお前がここにいたいのならそうするがいい。しかし、強い心であの世界へと戻りたいと願うのなら、この扉から外へ出るがいい。そして外へ出たら決して後ろを振り向かない事だ。前だけを見て己の意思で、突き進むがいい。』


 無機質でいて何処か優しげな声音が鼓膜を撫でた後、また元の暗い静寂が辺りを包んだ。


「僕は……一体どうしたいんだ?」

 恭介はそっと自分の胸に手を当てた。


 身体も心も限界だった。自分を取り巻く全てのものが恐いと感じる。家族も会社の人達も、友達も知らない人でさえ。

 頬を撫でるそよ風や散歩中の犬でさえも……


 ここにいれば何もかもから逃れられるのか。もう二度とあんな想いをしなくてもよくなるのか。

 ここにいれば弟に向ける両親の、あの愛おしいものを見る目を見なくても済むのか。そんな両親に対してこんな黒い感情を抱いている自分自身を、見なくても済むのだろうか……?


「それでも…僕は……」


 顔を上げてそう呟いた恭介は、猛然とぽっかりと開いた穴へと向かって駆け出した。


 愛しい家族の元へ。恐怖に支配された、しかし逃げてはならない世界へと……



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