第四話


―――


 恭介は『行きたくない』、そして『恐い』という思いと闘いながら、課長の机へと向かっていた。ふらつく足の原因は、急激に痩せて体力がなくなっていた事ともう一つ。この『恐い』という感情によるものだった。


 自分の席に座っていても隣や周りの人の視線が恐い。まるで誰も彼もが自分に対してとてつもない悪感情を抱いているように感じる。

 上司に至っては突然怒鳴ってくるんじゃないかといった妄想まで浮かぶのだ。


『課長が呼んでいる』その言葉は今の恭介にとっては、死刑宣告よりずっと恐ろしい言葉だった。


「課長、お呼びですか。」

 ついに辿り着いてしまった。恭介は課長の机の前で恐怖に震えながら言った。


「あぁ、黒木君……この間の企画書なんだがね、破棄しても構わないかな?」

「えっ……!」

「はっきり言おう。あれでは課の会議にも出せん。新人でももっとマシな物を作るだろう。君にはもう、仕事は任せられん。」

「そんな……」

 課長は呆然と固まった恭介に構わず言葉を続ける。


「黒木君、一体どうしてしまったんだね。君らしくないよ、ここ最近。私がこの間皆の前で君を叱り飛ばしてしまったのが原因で、元気がなくなってしまったのかな。もしそうなら申し訳ない。でも君には期待しているんだ。だからこそらしくないミスに対して残念に思ってああいう態度に……」

 心底申し訳なさそうな顔で謝ってくる課長に、逆にこっちが恐縮してしまう。恭介は無言で首を横に振った。


「君は今までとても優秀な社員として、企画部の一員として頑張ってきたじゃないか。ミスをいつまでも引き摺らないでこれまでの君らしくどんどん新しいアイディアを出してくれよ。私だけではない、部長も君を応援しているんだからな。」

 ポンと肩を叩かれて、恭介はぎこちなく頷いた。


「しかし……そうは言ってもなぁ……」

 わざとらしく顎に手を当てて考え込む課長を、不安げな目で見つめる恭介。嫌な予感が胸を掠める。


「そうだ、君休みを取りたまえ。有給休暇も溜まっているだろう。ゆっくり休んで元気になってそれから……」

「休みません!」

「え……?」

 恭介の突然の大声に、課長だけでなくその場にいた全員が仕事そっちのけで顔を上げた。


「嫌です。休みたくありません。……私は大丈夫です。出来ます。やらせて下さい。今までのような仕事がダメなら何でも……出来る事をやらせて下さい。休みを取れだなんて言わないで下さい……」

 恭介は課長の机にしがみつくように崩れ落ちた。課長は額に汗を滲ませながら恭介の肩に手をかける。

 岡本や佐木、他の社員達は余りの事にその場から動けずにいた。


「黒木君……」

「お願いします。……見捨てないで下さい……」

 蚊の泣くような恭介の言葉に、課長は少し迷った後で思い切ってこう言った。


「わかった、わかったよ、黒木君。」

 ハッと顔を上げた恭介の目に映ったのは、憐れみと悲しみ、そして優しさで彩られた課長の顔だった。


「ありがとうございます!」

 喜びに満ち溢れた顔で頭を下げた恭介だったが、その心は何故か深く暗い闇の中へと足を踏み入れていたのだった……




―――


「剛……来てるのか。」

 恭介は玄関に剛の靴があるのを見るとそう呟いた。

 途端にもやもやした気持ち悪さが胸を支配する。両親と剛の楽しそうな笑い声が聞こえた瞬間、何かが弾けた。


「……っ!」

 恭介はただいまも言わずに、逃げるように部屋へと駆け込んだ。そして力なくベッドに崩れる。ため息が出た。


 両親の愛情が自分より弟の剛に向いている事は子どもの頃からわかっている事。三十にもなるいい大人がこんな事を気に病むなどどうかしている。


 それでも……恭介には引っ掛かっていた。


 子どもの頃は弟がまだ小さいから手がかかるんだと自分を慰めてきたが、弟が中学生になり高校に入ってからもそんな感情は消えるどころか恭介の心を黒く塗り潰していった。


 特に母は何かあれば『剛が、』『剛は、』とこれ見よがしに弟の名前を口にする。

『同じ兄弟なのに何で?』なんていう思いはとうの昔に自分の中に飲み込んだ。


 そんな事を思っている自分が嫌で、両親にも剛にも申し訳なくて心の奥深くに閉じ込めた。自分は兄で長男で、そして何より両親の自分への愛を疑いたくはなかったのだ。


 しかしこの前の剛の言葉で、そんな思いをしたのは自分だけではなかったのだと思った。


 何処にでもある平凡な家庭。特に厳しくもなくかといって放任主義でもなく、ちゃんと自分達を育ててくれた人達を何という目で見ていたのだろう。


 そんな事を思いながら、恭介の心はますます黒くなっていったのだった……



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