第二話


―――


「ただいま……」

 恭介は玄関に入りながら口の中でぼそぼそと呟くと、靴を脱ぐのももどかしい様子で、そそくさと二階の自室に向かった。


「あら、お帰り。早いのね。」

 母の声が背中に届く。居間から聞こえたから、また煎餅でもつまみながらテレビを見ていたのだろう。


「まぁね。」

 短く答えると階段を駆け上がった。鞄を床に放ってネクタイをむしりとる。そしてそのままベッドにダイブした。



 最初のミスは表沙汰になる事はなかった。あの後ちゃんと直したし、教えてくれた近田美紀も誰かに話したりはしなかった。


 だけどあの事を境に、いつもなら気にならない事が気になったり、失敗が許されない場面で急に緊張したりと今までの自分らしからぬ行動が多くなった。


 そして今日ついにやらかしてしまう。

 大事なプレゼンで大失敗をしてしまったのだ。


 途中までは順調だった。それなのに急に自分を見る目が恐く思えて頭が真っ白になり、あろう事か気分が悪いと退出してしまった。


 実際に気分は悪く吐き気を催していて、トイレに駆け込んだ後はしばらく出てこれなかった。

 胸がムカムカして息苦しいのとプレゼンで失敗した事への羞恥心が恭介を襲い、便器にすがりついて泣いた。


 会議室に戻ると得意先の面々はもう帰っていて、代わりに怒りの表情で突っ立っていたのは上司である課長だった。

 恭介は平謝りするしかなく、延々と説教を食らったのだった。



「はぁ~……」

 恭介は長いため息をついた。


 自分は疲れているのだろうか?どこか体調が悪いのではないか?


 そう思っていた時、『コンコン』とノックの音がした。


「兄貴?入るよ。」

 弟の剛が遠慮がちに入ってきた。

「あぁ、剛か。来てたんだ。」

「うん。さっきね。」

 そう言いながらベッドの下の絨毯に直に座った。


 剛は家を出てアパートで一人暮らしをしながら、そこそこ有名な大学の大学院で何やら小難しい研究をしている。


「兄貴さ、何かあったでしょ?」

「えっ!?」

 突然の剛の言葉に恭介は戸惑い、声が裏返ってしまった。


「やっぱり。」

「いやいや、何もないって。ただ疲れてるだけ。」

「ふぅ~ん……ならいいけど。」

 納得してくれた様子に密かに安堵した恭介だった。


「兄貴はさ、俺と違って頑張り屋だし、ちゃんと結果出せる人だって思ってる。」

「な、何だよ。急に……」

 一瞬心の中を読まれたのかと身構えたがそうではなかった。


「それに比べて俺は……ホントダメだなぁ。何で兄弟でこんなに出来が違うんだろ。」


『はぁ~……』と深いため息が剛の口から漏れる。

 どうやら剛の方も何か悩みがあるらしい。


 恭介は驚いて剛の顔を見た。あのいつも自信満々な剛がこんな弱気な事を言うなんて。


「……なんてな。じゃあ俺そろそろ行くわ。今日は着替え取りに来ただけだから。」

 そう言うと剛はさっさと立ち上がり、茫然とする恭介を他所にドアまで歩いていった。


「剛っ!」

「兄貴。俺はずっと兄貴には敵わないって思ってたんだよ。子どもの頃から。そりゃそうだよな。二年早く生まれてるんだから。」


 ちょっと泣きそうな顔をした剛は、恭介が近寄る前に素早くドアを閉めてしまった。


「剛……」


 そんな風に思っていたのか。自分の方こそ、剛には敵わないと思っていたのに……


 例えば両親からの愛情が少しばかり剛の方に向いていた事。例えば剛が中学生の時、ちょっとグレて好き勝手した事。恭介にはそんな真似出来なかったから。


 例えば大学院に進み、好きな事をしていられる事。一人だけ家を出て、気儘な生活をしている事。


「ごめんな……」

 一人になった部屋でぽつりと呟く。


 悩みがある風だったのに聞いてやる事が出来なくて。変なプライドが邪魔をして素直になれなくて。


「ごめん……」

 部屋を出る前に見せた剛の表情を思い出して、恭介は項垂れた……



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