再生へのフラワーロード

一、崩れゆく日常

第一話


―――


「何でこんな事もできないんだ!この役立たずが!!」


 上司の罵声がオフィスに響き渡る。同僚や先輩、そして後輩の視線が背中に突き刺さった。


「はぁ、すみません……」

 恭介はあまり心の込もっていなさそうな声でそう呟く。上司の顔がピクッと強張ったのを、何処か他人事のように眺めていた。



 今思えば、この時から少しおかしかったのかも知れない。しかし、周りも自分でさえも、少しづつ崩れていく心の音に気づかなかったのだ――




―――


 黒木恭介は普通の家庭に長男として生まれ、二つ違いの弟の剛と両親の四人で、父が35年ローンで買った一軒家で平和に暮らしてきた。


 男の兄弟、しかも二人だけで歳も近いので、喧嘩は日常茶飯事だった。だいたい負けるのはいつも恭介の方で、その理由として挙げられるのが、母から『お兄ちゃんだから負けてあげなさい。』『剛はまだ小さいからいじめてはダメ。』と言い聞かせられてきたからだ。

 本気になって喧嘩をするも途中でその言葉を思い出すと戦意喪失して、勝ちを譲るというのがこの兄弟の関係性だった。


 父は中堅会社のサラリーマン、母は近所のスーパーでパートとして働いていた。生活は派手ではなかったが、年に数回は家族旅行に行ったり、誕生日には豪華な食事とデコレーションされたホールケーキが食べられるくらいの一般的な家庭だった。


 恭介の性格は基本大人しく、かといって無口という訳でもなかった。気の合う仲間と飲みに行ってその場のノリで騒いだりもするし、カラオケでは意外と渋い歌を歌って、それが上手かったりもした。


 友達によく、『恭介に反抗期ってあったの?想像つかないんだけど。』って言われるが、思い返してみると確かにいつが反抗期だったか自分でも良くわからない。グレてもいないし、かといって決して優等生だった訳ではないが、いつの間にか過ぎていたという感じだ。それをその人に言うと、何故か爆笑されたが。


 大学には特にやりたい事があって入った訳ではなく、就職するには有利だと思っただけだったが、しかし根が真面目だから一生懸命勉強に取り組んだ結果、文学部を首席で卒業した。


 そしてある広告代理店に入社して、今年で五年目。

 27歳になった恭介はその真面目な性格と誠実な仕事ぶりによって、会社内で一目置かれる存在へと成長したのである。


 後輩ができて同僚や先輩にも恵まれ、重要な仕事も任されるようになった。上司からの評価も右肩上がりで、人望も厚い……はずだった。




―――


 それはちょっとしたミスから始まった。恭介にしては初歩的な間違いだった。


「あの~……黒木さん。ここなんですけど……」


 ある日の終業間際、今日はこれで終わりだからと机を整理していた時だった。事務員の近田ちかだ美紀が側にきて、持っていた書類を見せてきた。


「どうしたの?確認?」

「それが……この二枚、逆になってます。」

 おずおずと差し出された二枚の書類、その宛て先が逆になっていたのだ。

 A社に出すはずの宛て先がB社。B社の方はA社と間違って印刷していたようだ。


 そしてこれを作成したのは恭介だ。美紀は相手方に郵送する前に気づいて、こっそり持ってきてくれたのだろう。

 慌てて自分のパソコンでその書類の原本を確認しても、間違っているという事実が更に浮き彫りになっただけだった。


「ごめん、近田さん……僕のミスだ。教えてくれてありがとう。すぐ直すよ。」

「いえいえ。それにしても珍しいですね。完璧超人な黒木さんが間違うなんて。」

「完璧超人って……僕だって間違う事もあるよ。」

「またまたぁ~謙遜しちゃって。」

「いや、本当に……」

「おーい!美紀ちゃん。これ事務室に持ってってくれ!」

「はーい!じゃあ黒木さん。後で取りにきますね。」

「あ、あの……」


 自分でそっちに持っていくと伝える前に、美紀はさっさと呼ばれた方へ小走りに去っていってしまった。


「ふ~……完璧超人、ね。」

 そう呼ばれている事は何となく知っていた。特に後輩達から羨望の気持ちを込めてという事で、悪い気はしなかった。


 でもここでニヤけている場合じゃない。そう思いながら机の上に並ぶ、二枚の書類を眺めた。

 こんなミス、いつもの自分らしくない。入社一年目の時でさえもミスというミスは犯してこなかった。どんな難しい仕事でも、片手間でできるこういう書類仕事でさえ、手は抜かずにやってきたのだ。自慢する気はないが、『完璧超人』と言われるだけの事をこの五年間、会社の為にやってきたのだ。


 それを、こんな初歩的なミスで台無しにしてしまうところだった。


 A社とB社はライバル会社で、お互いにこの恭介の会社が間に入っている事を知らない。もしこの書類が間違ったままそれぞれの元に届いたら……


 考えただけで冷や汗が背中を伝っていく。両手が震えてパソコンのキーボードがカタカタ鳴った。


「こうしてる場合じゃない!早く直さないと……」


 終業の鐘の音が社内に響く。だが恭介の耳にはもはや届いていないだろうと思われた……



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