三、戦いの始まり

第十一話


―――


 恭介はまた、あの闇の中にいた。どこを向いても真っ黒な色で塗り潰され、自分のいる所さえ存在していないかのように見える場所。


 恭介は辺りをぐるりと見回すと適当な所に当たりをつけ、じっと見つめた。以前のように真っ黒い穴がぽっかりと口を開くのではないか、そう期待を込めた。


 しかし、いつまで経っても穴は空かなかった。ただそこに黒い壁があるだけで何も変化は起きない。恭介は少し疲れて視線を逸らした。

 どうやら立っていたようだったので、座り込んで足を前に投げ出す。思わずふぅ~っと盛大なため息が漏れ出た。


(俺は一体どうなるんだろう。これからどんな風になっていくんだろう……)


 今まで健康に育ってきて、軽い風邪や擦り傷なんかはあったものの病院という場所に余り縁がなかったのだ。こんな風になってしまうなんて誰が想像出来ただろう。

 食欲がなくほとんど食べていないから、見た目はやつれているとすぐわかるが、心の中のこの何とも言えない不安は他の誰にも、自分自身でさえわからなかった。


「社会不安障害……か。」

 そして恭介をますます不安にさせているのがこの聞き慣れない病名だった。

 社会不安という事は社会全ての事に於いて不安を感じるという事なのか。

 そう言えばあの後高林医師はこうも言っていた。


「一般に言うあがり症というものとも似ている。人前に出ると顔が赤くなり、手足から汗が止まらない。話そうとすると舌が縺れる等。食事は家族以外とは食べられないという人もいる。社会不安障害とは、こういった事が日常生活のあらゆる場面で出現してしまう病気なんだ。人と話す、皆の注目を集める、車の運転をする、家から出る、外を歩く、知らない人とすれ違う、等の何でもない場面で強い不安や苦痛を感じてしまう。」


「恭介君は全ての事に対して臆病になっているんだ。だからその、不安や心配を僕と一緒にこれからゆっくりと取り除いていくんだ。不安に感じると思うけど必ず治る病気だから、焦らずにやっていこう。」


 真っ黒い壁に医師の言葉が吸い込まれていく。恭介は木霊のように鳴り響くその声に耳を塞いだ。


 口では何とでも言える。いくら精神科の医者だからって、今日初めて会った人にすぐ心を開く事は今の恭介には無理があった。

 この不安感、恐怖感は恭介でないとわからない。両親だってわかってはくれないだろう。だからといって自分一人では何も出来ない。誰かに頼らないとやっていけないのだ。


 恭介はふと顔を上げた。何かが聞こえた気がしたのだ。耳を澄ましてみる。……やはり何か聞こえる。

 どうやら外の喧騒が黒い壁を通して聞こえているようだ。


 楽しげな笑い声、犬の鳴き声、飛行機の重低音、車のエンジンの音……


 恭介は再び耳を塞いだ。体育座りになり、膝の間に顔を埋める。


『こわい……』

 そう一言溢した後、恭介はまた底のない闇へと落ちていった。



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