第十話
―――
恭介はすっかり乾ききった唇を舐めた。目の前の医師は厳しい顔で一心にカルテを書いている。居たたまれなくなった恭介はそっと椅子から尻を上げようとしたが、キイッと高い音が鳴って冷や汗をかいた。
恭介は今までの事、子供の頃に芽生えた弟への嫉妬、両親への不満、仕事での失敗、会社へ行くのが恐くなった事、車の運転が出来なくなった事まで、今の自分の全てを吐き出した。後はこの高林医師がどんな風に診断してくれるかだが……
「恭介君。」
医師がおもむろに恭介の方を向き、名前を呼んだ。
「は、はい!」
気を抜いていた恭介は慌てて飛び上がった。
「はは、そんなに驚く事ないじゃないか。まさか取って食うなんて事はしないよ。」
医師は慣れない冗談を言っているように恭介には思えた。笑っているのに目が笑っていない。
どんな結果が出たのだろう?恭介はにわかに不安になってきた。
「では結論を言う。」
「ちょっ、ちょっと待って下さい!両親は呼ばないんですか?」
恭介は慌ててそう言った。いくら何でもここは両親と一緒に聞くべきだと思ったのだ。しかし医師は淡々とこう言った。
「まず、君は君自身の今の状態を知るべきだ。そして受け入れなければいけない。お父さん、お母さんの問題じゃない。君の問題なんだよ。」
「はい……」
穏やかだが心に刺さる声音でそう言った医師は、カルテを右手に持って椅子ごと恭介の方に近づいた。
「黒木恭介君。」
ごくりと唾を飲む音が、思ったより大きく恭介には聞こえた。
「君の病名は、社会不安障害。このまま放っとけばうつ病に発展する恐れのある病です。」
足元が突然なくなったようにぐらりと傾いた……気がした。
―――
はっと気づいた時には、恭介は病院の廊下にあるソファーに座っていた。
「ここは……そうか、僕はまた……」
頭を軽く振りながらそう呟く。また意識を失ったらしい。恭介は、意識を失う前に聞いた医師の言葉を思い出した。
「社会不安障害……うつ病……」
繰り返し言葉にすると現実感が増し、恭介の心をますます重くしていった。
「気づいたのか。」
父が先程の診察室から出てきて、恭介の方に近づいてきた。恭介は小さくこくりと頷いた。
「先生が待ってる。大丈夫か?」
「うん、大丈夫。」
ふらつく体を何とか起こして立ち上る。父がさりげなく支えてくれた。二人はゆっくりとした足取りで目の前の部屋に向かって歩いていった。
「失礼します。」
恭介はそう言って部屋へと入った。高林医師は先程と変わらず椅子に座っていた。にこやかに笑って椅子に座るように手で示してくるので、恭介は黙って腰かけた。
「大丈夫ですか?」
医師がにこやかな顔のまま声をかけてくる。恭介は頷いた。
「母さんは?」
座りながら母がいない事に気がついた。そう問うと、医師は眉をちょっとひそめる。
「お母さんは別室にいるよ。」
「え……」
恭介は思わず父を見た。
「疲れていたみたいだったから休んでいる。心配しなくてもいい。すぐに良くなるだろう。」
恭介は少し不安になりながらも頷いた。
大丈夫だろうか。きっと病名を聞いて真っ青になったに違いない。
また一つ、重い何かが心に落ちた気がした。
「では社会不安障害について説明します。」
高林医師は真っ直ぐ恭介を見つめて言った。恭介は背筋を伸ばす。すぐ後ろで父の緊張した気配を感じた。
「社会不安障害とは、人前で何かをする事によって悪い評価をされるのではないか、周囲から注目を集めるような事をして恥ずかしい思いをしてしまうのではないか、等といった事への不安により強い苦痛を感じたり、身体症状が現れたりして日常生活に支障をきたす事をいいます。恭介君の場合、上司に叱られて皆の前で恥ずかしい思いをした、自分としては考えられないミスだった、という思いから、今までの経験から培ってきた自信だとかプライドといった物が崩れてしまったのではないかと思います。その事で、また叱られる、皆が見ている前で恥をかく、仕事をするのが恐い、会社へ行くのが恐い、家を出るのが恐い……と進んでいったのではないか、と私は診断しました。」
ここで医師は一つ深呼吸した。しかしすぐにカルテへと視線をやって続けた。
「さっきも言った通り、会社へ行くのが恐い、家を出るのが恐い、といった不安の他に、食欲がなくなる、身体がだるい、突然意識を失う、といった身体症状が現れています。これは性格の問題ではなくて、れっきとした病気です。心の病などと言われていましたが、最近は脳の障害であるとちゃんと認識されています。だから恭介君も自分のせいだとか思わず、まずは元気になる為に頑張ろう。本人はもちろん、家族や周りの人の理解があって初めて克服できるものだからね。対処法は精神療法と薬物療法があります。今後は月に二回程度は通院してもらう事になりますが、どうでしょうか。」
最後の言葉は父に向かって言ったようだった。父はしばらく空を睨んでいたが、おもむろに立ち上がると深々と頭を下げた。
「恭介を、よろしくお願いします。」
「わかりました。恭介君、改めまして僕が主治医です。よろしく。」
高林医師が立ち上がって握手を求めてくる。恭介ものろのろと立ち上がると、握手に応じた。
この瞬間から恭介と高林医師、そして両親の戦いが始まったのだった……
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