【1980年代 (3)】宮崎駿作品でもヒットしなかった時代
今では日本でも海外でも極めて高い評価を得ている宮崎駿の作品ですが、米国に登場してすぐに幅広い支持を得たわけではありません。長い間、知る人ぞ知る、という存在でした。作品論だけでは理解できない部分があるわけです。
ただ補足しておくと、アニメファンには注目されていたとはいえ、日本でも1980年代にはまだ「宮崎駿」も「スタジオジブリ」も現在のような圧倒的な知名度はありませんでした。アニメファンの間でも『ヤマト』ファンとか『ガンダム』ファンの方が優勢だったようです。
それが1989年公開の『魔女の宅急便』で、興行成績が初めて邦画トップ10に入りました(第3位)。世間に広く認知され始めたのはこの頃からです。90年代に入ると、91年『おもひでぽろぽろ』、92年『紅の豚』、94年『平成狸合戦ぽんぽこ』、95年『耳をすませば』、97年『もののけ姫』の興行成績がすべて邦画の第1位で、完全にジブリブランドが確立しています。
ただし80年代でもすでに『ナウシカ』が環境問題と絡めて語られたり、『トトロ』(興行成績は良くなかった)が「キネマ旬報」でその年の邦画第1位に選ばれるなど、アニメファンだけの人気にとどまらないポテンシャルを持っていたのも事実です。
1978年のNHKのテレビシリーズ『未来少年コナン』の演出の仕事の後、宮崎駿は『ルパン三世 カリオストロの城』(日本公開79年)の監督を務めます。
80年代には米国で『カリオストロの城』は公開されていませんでしたが、大塚康生によると「ディズニーはすぐにプリントを取り寄せて全スタッフが見て、研究もしていました」ということです。当時、米国でもプロのクリエーターの間では宮崎駿は注目されはじめていました。[1]
『カリオストロの城』の後、宮崎駿は米国との合作『リトル・ニモ』と、イタリアとの合作『名探偵ホームズ』という二つの海外合作アニメに関与しています。
『リトル・ニモ(Little Nemo)』は、東京ムービー新社の社長だった藤岡豊の、米国で大ヒットするアニメ映画を日本主導で作りたいという希望をもとに製作されました。東映の大川博、サンリオの辻信太郎、手塚治虫と同じ夢を見ていたわけです。製作発表時には約36億円という巨額の製作費が投じられることが公表されています。[2]
『リトル・ニモ』の原作は、米国の新聞連載漫画(コミック・ストリップ)の古典的名作で、原作者のウィンザー・マッケイはアニメーション映画創成期の立役者でもあります。脚本の第一稿は、SF作家のレイ・ブラッドベリに依頼されました(結局、採用されなかったようですが)。当時、サンタモニカに仕事場を置いていたフランスの漫画(バンド・デシネ)家のメビウス(ジャン・ジロー)もスタッフに加えています。[1]
そこに日本側から宮崎駿や高畑勲を演出として送り込むというのだから、なんとも凄い話なんですが、いろいろと噛み合わずに制作は難航して、宮崎駿も高畑勲も途中で降りてしまいました。
映画の完成は遅れに遅れ、製作費は50億円以上に膨れ上がりました。日本公開は1989年、米国公開は1992年。米国では2300の劇場で公開されてビデオは400万本売れて元は取れたと言いますが、劇場への観客動員という点では失敗で、米国で大ヒットするアニメ映画を作るという夢は叶いませんでした。[1][2]
80年代のディズニーは低迷期で、大塚康生に言わせれば「史上最低の作品ばかり」でした。そんな中、若手のジョン・ラセター(『トイ・ストーリー』『カーズ』)や、ブラッド・バード(『アイアン・ジャイアント』『Mr. インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』)たちは、進むべき道を模索しているところでした。
(高畑勲によれば、1989年米国公開の『リトルマーメイド』以後が新生ディズニーで、再び優れた作品を生み出すようになります。[1])
『リトル・ニモ』制作中の東京ムービー、ロスオフィスには、日本アニメに関心のあるアニメ関係者の訪問が頻繁にあり、ジョン・ラセターやブラッド・バードと宮崎駿との接触もあったそうです。[1]
イタリアの放送局RAIとの合作『名探偵ホームズ』に関しては、宮崎駿は6話分の演出を担当しています。ちなみに『ホームズ」の制作には当時まだ学生だった片渕須直(『この世界の片隅に』)が参加しています。
『ホームズ』の仕事の後、宮崎駿は『風の谷のナウシカ』の制作に取り掛かり、日本では1984年にアニメが公開されました。
『風の谷のナウシカ』は米国では1985年に公開されます。
しかし、このときニュー・ワールド・ピクチャーズ社によって配給された米国版『ナウシカ』はまるで評判がよくありません。タイトルは『Warriors of the Wind(風の戦士たち)』とされ、主人公ナウシカの名前はザンドラ(Zadra)に変えられました。トルメキアのクシャナはセリーナ(Selena)という名になって、悪人という面が強調されています。全体の尺は116分から95分に短縮され、物語は単純化された善と悪の戦いになってしまいました。興行的にも振るわなかったようです。[2]
映画『ナウシカ』はニューヨークで短期間公開されただけでしたが、これは同年に発売したビデオカセット版を売るための広告としての狙いがありました。米国で日本製アニメのビデオ販売が一般的になるのは90年代になってからなので、先駆的な取り組みと言えます。[2]
日本で最初に発売されたOVAは1983年の『ダロス』です。つまり映画やテレビに加えて、ビデオパッケージでアニメを売るという新しい流通ルートができたのが80年代でした。ビデオパッケージは高額でしたが、それでも買うというマニア層が日米で生まれつつあったのです。
原作の漫画版『風の谷のナウシカ』の英訳版(Nausicaä of the Valley of the Wind)も、1988年からビズ・コミュニケーションズ(現ビズメディア)から刊行されました。ビズは西海岸に拠点を置く小学館系の出版社で、80年代から米国で英訳した日本の漫画を刊行し始めています。
漫画版『ナウシカ』の翻訳は、ダナ・ルイスとトーレン・スミスの手によって始められ、レイチェル・マット・ソーンらが引き続きました。これは原作を尊重した翻訳で、外国の作品には厳しい傾向がある米国の漫画批評家にも好評でした。[3]
1989年には『天空の城ラピュタ』(日本公開86年)が、『ロボテック』のカール・メイセックが設立した日本アニメ専門のストリームライン社の配給で公開されています。上映時間は日本と同じ124分、大きな改変は行わなかったようです。
しかし、わずかな数のフィルムを使い回して各地の独立系劇場を回って上映するという興行でしたから、多くの人の目に触れることはありませんでした。同じ年の12月にストリームラインが手掛けた『AKIRA』のときは、8本もフィルムをプリントした、という話から考えると、『ラピュタ』はそれより少ない数だったことになります。[2]
そのためか、これといった反響も得られなかったのですが、少し後に公開された『AKIRA』が注目を浴びて大きな波紋を広げていったことと比べると、難しいものだと思わされます。
少し先取りして、90年代の状況にも触れておきます。
『カリオストロの城』(英題:The Castle of Cagliostro)が米国で一般に公開されるのは1991年のことです。
これもストリームライン社が手掛けたのですが、やはり公開規模が小さく、残念ながら大きな成功は得られていません。権利関係で揉めるのを避けたかったようで、「ルパン」の名は使わず、主人公の名前は Wolf に変更されています。[2]
1994年には『となりのトトロ』(日本公開1988年)が、『My Neighbor Totoro』のタイトルで公開されました。配給は、ストリームラインではなく独立系の配給会社トロマが、ジブリの親会社の徳間書店と映画の合作を進めていた縁で行なっています。大規模な公開とは言えませんが、零細のストリームラインと比べれば大きな規模の興行となりました。批評家たちの目にも止まり、好意的な評価を受けています。
ビデオ化されてからも根強い人気があり、だんだんとファンを獲得していったようです。[2]
宮崎駿作品が米国でなかなか認知されなかった理由は、『ナウシカ』の改変に見られるようなアニメに対する日米の認識のギャップもあったと思いますが、公開規模が小さかったために、ごく一部の特殊な層にしか届かなかったという面も大きいと考えられます。
1999年に宮崎駿にインタビューをした映画評論家のロジャー・イーバートは、米国の観客はディズニーのアニメなら観に行くが、そうでないと、いいアニメ映画があってもなかなか劇場に足を運ばないとボヤいています。[4]
日本でも、ジブリやディズニーなどのブランドの力によって大きく観客が動員されるところは変わりませんから、どこの国でも一般層はそうしたものなのでしょう。
日本でジブリの作品が一般層に浸透していったのは、作品がそれだけの魅力を備えていたのはもちろんですが、80年代後半から日本テレビ系列で新作の宣伝と併せてジブリ作品を放映し続けてきたためでもあります。
それに対して一般層に広く露出する機会を持てなかった米国では、ビデオというメディアを通じてじわじわとファンを増やしていくしかありませんでした。
その後、1996年にジブリとディズニーが提携を結び、1999年には『もののけ姫』がディズニー系の配給会社ミラマックスによってかなり大規模で公開されました。米国でのジブリの認知度もすっかり高くなっています。
[1]大塚康生『作画汗まみれ 改定最新版』文春文庫、2013年
[2]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年
[3]フレデリック・L・ショット[著]、樋口あやこ[訳]『ニッポンマンガ論 日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』マール社、1998年(原著1996年)
[4]宮崎駿『折り返し点 1977〜2008』岩波書店、2008年
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