1970年代の展開

【1970年代 (1)】日本アニメの再登場、改変されたガッチャマンとヤマト

 1970年代に入っても、日本のテレビアニメの新作は放映されないという状態は続いていました(60年代の作品の再放送はあったでしょうけど)。


 そんな中で、1978年に『星のオルフェウス』(英題:Metamorphoses、後に Winds of Change と改題)、『親子ねずみの不思議な旅』(英題:The Mouse and His Child)、79年に『くるみ割り人形』(英題:Nutcracker Fantasy)と3本の日本のアニメ映画が米国で公開されています。

 これらを製作したのは、「ハローキティ」などのキャラクターで知られるサンリオ。『星のオルフェウス』は4年の歳月と25億円の巨費をかけた大作です。通常の35ミリより大きな70ミリフィルムを使用し、米国で先行公開する(日本公開79年)というところからも意気込みが伝わってきます。サンリオ社長の辻信太郎は、ディズニーのキャラクター「ミッキーマウス」とアニメ映画の関係を意識していました。[1]

 サンリオの人気キャラクター「ハローキティ」の初登場は1974年ですが、同じ年に米国で映画の製作を開始しました。76年には、カリフォルニア州サンノゼに直営店第一号を開いています。

 映画で成功するのはやはり難しかったようですが、サンリオは70年代にはもう海外への挑戦を始めていました。


 テレビアニメの世界では、1978年に『科学忍者隊ガッチャマン』(英題:Battle of Planets)がシンジケーション番組として放映開始されています。


 『ガッチャマン』を米国でやると聞いたときのフレッド・ラッド(『アトム』の米国版制作者)の感想は、「何と! 暴力やらなんやらでいっぱいの日本製アニメに手を出そうという輩が今でもいるのか?」というものでした。[2]

 当時の米国のテレビでは相変わらず、日本のアニメは避けられていたのがわかりますが、それではなぜ『ガッチャマン』は放映されることになったのでしょうか。


 『ガッチャマン』の権利を買ったのはサンディ・フランクという人物で、米国のテレビ業界で仕事をしていましたが、アニメについては詳しくありませんでした。ひょっとしたら当時の逆風の中、日本製アニメの輸入に踏み切ったのは、彼がアニメ業界の常識を知らないがゆえの蛮勇という面もあったのかもしれません。

 サンディ・フランクは、1977年にカンヌで開かれたテレビ配給業者のマーケットで『ガッチャマン』を知り、タツノコ側と交渉を開始しました。[3]

 ちなみにフランスでは1972年から日本製アニメが放映されています(『UFOロボ グレンダイザー』の爆発的なヒットが1978年)。日本側も、米国では商売にならないがヨーロッパなら、と売り込みに行っていたのでしょう。


 そして『スター・ウォーズ』の第1作(今でいう「エピソード4」)が公開されて、世界的な大ヒットになったのが1977年でした。

 『スター・ウォーズ』の大ヒットにあやかりたい米国のテレビ業界は、宇宙を舞台にしたSFなら何でもいいとばかりに番組を欲しがりました。サンディ・フランクは交渉中だったタツノコから『ガッチャマン』の権利を買い、それを宇宙を舞台にした『バトル・オブ・ザ・プラネッツ』に改変することにします。『バトル・オブ・ザ・プラネッツ』は全米の七十のテレビ局に売れたと言います。[3]

 70年代末の米国に日本製アニメが再登場できたのは、『スター・ウォーズ』の成功と、それによって引き起こされたSFブームに後押しされた面もあったわけです。


 またサンディ・フランクは、『ガッチャマン』をアジアを除く全世界で展開する権利を得ていたらしく、米国だけでなくヨーロッパや中南米にも放映権を売り、マーチャンダイジングで利益を得ていたようです。[3]

 1980年にフランスで放映されたのも、米国編集版の『バトル・オブ・ザ・プラネッツ』をフランス語に吹き替えたものでした。[4]


 この米国編集版の『バトル・オブ・ザ・プラネッツ』は、改変がひどかったということもよく語られる作品です。

 まず、登場人物の名前などの固有名詞を変更するのは当時としては当たり前のことです。暴力表現への規制も相変わらず強いので、問題のある場面はどんどん削られます。60年代でもそうでしたが、例えばアニメの中で人が殺されるなんてことは許されません。


 そしてタイトルが『バトル・オブ・ザ・プラネッツ』とされたように、作品の設定が大きく改変されて宇宙を舞台にした話になっています。敵は惑星スペクトラからの侵略者で、Gフォースと名を変えた科学忍者隊があちこちの惑星に派遣されて、敵の陰謀を打ち砕くという設定がつくられました。

 これは遠い宇宙の話にすることで生々しさを消して、暴力的な印象を和らげるのが目的だったとも言われていますが、それだけではなく、やはり『スター・ウォーズ』ブームに便乗する狙いもあったのでしょう。それがはっきり現れているのが、米国版で追加された7-Zark-7というGフォースをサポートするロボットで、『スター・ウォーズ』のR2-D2みたいなデザインをしています。

 この7-Zark-7は、暴力的場面が削られた分の尺を埋めるためのキャラクターでした。米国で後から追加されたものなので、主人公たちと同じ場に現れることはありません。このロボットが何をするのかというと、コントロール・ルームからこれから向かう惑星について解説したり、カットされた戦闘シーンを台詞で説明したりするのだそうです。[3][4]


 また、改変の「過剰さ」も感じられます。現地化ローカライズとか、暴力表現の緩和とかでは説明しきれないような、「やりすぎ」の感じですね。

 『オタク・イン・USA』の著者パトリック・マシアスは、大鷲の健が「マーク」、コンドルのジョーが「ジェイソン」と変えられたことについて、「ケンもジョーもごくごく普通のアメリカ人の名前なのになんで変える必要があったのか」と疑問を投げています。また、燕の甚平を「キーオップ」という名の人造人間にしたのはともかく(子供が危険な活動をすることになるのを避けた?)、吹き替えでわざわざおかしな喋り方をさせています。[3]


 サンディ・フランクは『ガッチャマン』の吹き替えと編集に、なんと500万ドルもかけたということです。[3]

 『ガッチャマン』の米国版の制作については、『アトム』の米国版を担当したフレッド・ラッドも打診を受けましたが、彼は制作体制の甘さを感じとって辞退しました(ラッドは「たかがテレビまんがカートゥーンだろ」と言われたと書いています)。[2]

『ガッチャマン』の改変が批判的に語られてしまうのは、フレッド・ラッドが危惧したように、アニメの吹き替え・再編集についての米国版制作陣の認識の甘さが根本にあったのかもしれません。


 この後、こうした日本アニメへの大きな改変に気づいた米国のアニメファンの中に、改変を極端に嫌うオリジナル至上主義が生まれることになります。


 さて、翌年の1979年には『宇宙戦艦ヤマト』(英題:Star Blazers)が米国で放映されます。これも宇宙ものですね。


 『ヤマト』も改変が目に付く作品ですが、理由ははっきりしていて、もともと日本的なものを多く含んでいる作品から日本的な要素を消しているためです。ヤマトは、ギリシア神話の「アルゴー船」からとった「アーゴウ」に改名され、戦艦大和との関係は消去されています。登場人物の名前はもちろん変更され、巻き寿司を食べる場面では、「チョコレートケーキ」ということになっています。[3]


 『ヤマト』という作品にとって日本的であることは本質だ、と考えるなら、これはとんでもない改変だということになります。しかし海外の人にはそこはどうでもいいことだと割り切れば、他の設定や物語の筋はほぼそのままであったことを評価することもできます。

 敵のデスラー総統が「退廃的ローマ貴族、手っ取り早く言えばオカマ言葉」で吹きかえられたり[3]、ヤマトとの戦いに敗れて自爆して死ぬはずのドメルが生きて逃げ出したことになったり[1]したのも、善悪を単純化する米国文化に沿って敵を悪として矮小化し、また人間の死は直接描かない、という理由で理解はできます。

(人が死ぬ場面も「人間のように見えるがみんなロボット」なのだそうです。[3])


 しかし日本側のナショナリズム的こだわりは抜きにしても、『ヤマト』の改変には批判があります。

 パトリック・マシアスはこう述べています。[3]


>>グリフィンたちは単に外国のアニメをアメリカ版にしただけだろうが、彼らは無意識のうちに「アメリカはメルティング・ポット(るつぼ)」なのだという考えを押し付けている。つまりどんな国から来た移民も、もしアメリカに住んで働きたいなら、坩堝の中でドロドロに溶かされて民族文化や伝統を放棄し、「普通のアメリカ人」に同化しなければならないという考えだ。『スター・ブレイザーズ』の登場人物の名前は民族性を抹消されている。<<


 ここでマシアスは、アメリカ的でない外国の文化を抹消するという現地化ローカライズのあり方自体を批判しています。

 マシアスは、「メルティング・ポット」という言葉を自分の両親について語るときにも使っています。マシアスの「二代前の祖先はメキシコからアメリカにやって来た」そうですが、マシアスの母は彼にスペイン語もメキシコの文化も教えませんでした。なぜなら「両親の世代のメキシコ系アメリカ人たちは、アメリカで成功したければ、母国の文化を捨て、メンディング・ポット(るつぼ)に身を投げてアメリカ人になりきれと教えられていた」からです。彼の両親は「英語を学び、家族で初めて大学に進み、アメリカ社会というゲームをよく戦って、心地よい中産階級のステイタスを獲得」しました。しかしマシアスは、両親の成功の代償として「祖先の文化や伝統と切り離されてしまった」のです。


 パトリック・マシアス本人は、自分のことを「メキシコ系アメリカ人」ではなく「ただのアメリカ人」と意識していて、祖先の伝統から切り離された結果、日本の特撮やアニメがその代わりになったと語り、自分自身についてはそれほどマイナスには考えていない風にも見えます。しかし模範的なマイノリティーとして振る舞わざるを得なかった両親の世代に対しては、複雑な思いがあるようです。


 さて『ガッチャマン』の米国での反響はどうだったかというと、「視聴率は悪くなかったものの、ファーストラン放映はそこそこにとどまり、いつも古い漫画アニメーションやネットワークの再放送に負かされた」とのこと。続編の『科学忍者隊ガッチャマンII』の輸入も見送られることになり、失敗ではないものの大成功だったとは言えないようです。[1]

 『ヤマト』の方も初めは大都市に限定した放映で、視聴率はそれほど高くなく、80年代に入ってから「アジア系の住民が多い都市に送り出され、ようやく人気が高まった」ということです。[1]


 しかし一方で、今でも米国には両作品を熱くあるいは懐かしんで語る人たちが少なからずいます。

 日本でも『宇宙戦艦ヤマト』の放映時(74年)の視聴率は高くなかったものの、その後だんだんと評判が高まり、77年の劇場版公開時には前日から徹夜組が並ぶほどの人気ぶりとなりました。[5]

 名作・話題作と言われるアニメでも、初期に反応したのは少数のアニメファンだけで、そこから徐々に人気が広がっていったというパターンがしばしばあります(『機動戦士ガンダム』もそうでした)。米国での『ガッチャマン』や『ヤマト』も、再放送などを通じてだんだんとファンを拡大していったのかもしれません。


 『ガッチャマン』の改変に大金を投じたサンディ・フランクですが、パトリック・マシアスによれば「賭けに勝った」「億万長者になった」ということなので、最終的にはちゃんと儲かったようです(逆に版権を渡してしまったタツノコ側は、海外でのマーチャンダイジングによる利益は得られなかった模様)。[3]


 ところで、日本での『宇宙戦艦ヤマト』は単に大ヒットしたというだけではなく、それまで子供だけのものだったアニメに、思春期以上の年齢のファン層を生み出した作品でした。これが、いわゆる「アニメオタク」の形成につながっていきます。

 そして米国でもこの時期、子供しかいなかったアニメのファン層に変化がおきていました。



[1]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[2]フレッド・ラッド/ハーヴィー・デネロフ著、久美薫訳『アニメが「ANIME」になるまで 鉄腕アトム、アメリカを行く』NTT出版、2010年(原著2009年)

[3]パトリック・マシアス著、町山智浩編・訳『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』太田出版、2006年

[4]トリスタン・ブルネ『水曜日のアニメが待ち遠しい フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす』誠文堂新光社、2015年

[5]大塚英志/ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社現代新書、2001年

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