【1960年代 (4)】米国のテレビから消えた日本アニメ

 1960年代の『鉄腕アトム』から始まった日本製テレビアニメは、かなりの人気作もあったものの、『マッハGo Go Go』を最後に米国への輸出は途絶えてしまいます。その理由をいったい何だったのでしょうか。


 もともと米国のネットワークは、番組製作に出資する見返りにある程度の番組所有権と、それがシンジケーション市場で売られたときの利益の一部を得るということをしていましたが、連邦通信委員会(FCC)が公正な競争のためにこれを禁止することになりました。

 1970年からの規制をにらんで、ネットワーク側は加盟地方局の結束を固めてネットワーク番組の放映を強化していく方向で動きました。すると、その分だけシンジケーション番組を放映する枠は減ってしまうわけです。[1]

 こうして、日本アニメがビジネスの場としていたシンジケーション市場自体が縮小していったのです。


 そこにもう一つ、テレビの暴力表現への批判が高まっていたという事情が加わります。その背景には、ベトナム戦争、公民権運動の激化、キング牧師・ケネディ大統領の暗殺などによる米国社会の不安がありました。[1]

 暴力表現への批判は、特に日本製アニメを標的にしていたのではありませんでしたが、そうした米国の世情とは関係なく、むしろ暴力表現をエスカレートさせつつあった日本のアニメを米国で放映するのは難しくなっていきます。


 『ジャングル大帝』の後、虫プロは新作の『悟空の大冒険』のパイロット・フィルムをNBCエンタープライズに送っていますが、NBC側は悟空が粗野で乱暴だという理由で買いませんでした。

 フレッド・ラッドは「日本では悟空の口から発せられる下品なことばにPTAから物言いがついていた。子供番組に甘い国にしては厳しい批判の声だった」と書いていますが、実は日本では「パイロット版悟空が優等生的で試写会で子ども達に不評だったのを受けてあえてドタバタ度を強めた」という事情がありました。[2]


 手塚治虫が米国で『アトム』が暴力的だと批判されたとき、「ポパイはどうです? あのヒーローは暴力そのものだし、それが子供に喝采されているのでは--?」とNBCの者に問いかけると、「あなたは、あれが、いい番組だと思っているのですか? 私どもは、三流漫画だとして相手にしていません」と返されています。[3]

 しかし、ポパイが子供に人気であること自体は否定されていません。


 当時の日本でも、もちろん漫画やアニメへの批判はありましたが、『悟空の大冒険』の例に見られるように、結局はかなりの程度、子供たちの人気を優先して作品を作っていました。一方で、米国は自由競争や市場原理の中心のような国ですが、子供向けコンテンツはいわば“聖域”として自由競争に委ねることはしませんでした。そこに子供の人気優先という“市場原理”で鍛えられた日本のアニメが入ってきたわけです。

 善し悪しはともかく、世界最大最強のコンテンツ生産国であり輸出国である米国に、日本のアニメが食い込むことができた理由の一つはそこにあったのではないでしょうか。


 また日本では、60年代の終わりから70年代の初めにかけて、『巨人の星』『ひみつのアッコちゃん』『サザエさん』『あしたのジョー』『天才バカボン』といった漫画を原作にした人気アニメが製作されています。

 これらの作品は、SF作品とは違って日本を舞台にしているのが隠しようもないですから、米国側は買ってくれません。『アストロボーイ 』がいくら人気になっても、手塚治虫本人の原作漫画は「ゲタをはいた人物や、タタミの家なども出てくるので」米国では出版されなかったのと同じことです。これらのアニメには、日本の生活文化が「物語に本来備わっているため、編集不可能」だったわけです。

 また、この時期に日本では『アタックNo.1』のような女子スポーツを題材にした作品も現れているのに対して、米国ではスポーツもののアニメはまったく人気が出ません。


 そして舞台が日本的すぎるとか、題材がスポーツだとかで除外していくと、残るのは米国基準では暴力的すぎる作品ばかりとなってしまいます。1970年代に入ると「日本製は暴力的という理由でパイロット・フィルムすら見てもらえない」という状態になってしまいました。


 この時期は韓国アニメ業界の創生期でもあります。

 テレビのカラー化のせいで、米国では過去の白黒アニメ作品を持てあましていました。そこで、『アトム』の吹き替え・再編集を担当したフレッド・ラッドは白黒アニメのカラー化の事業を思いつきますが、日本では予算が合わず、より物価の安い韓国のスタジオに持っていきます。彼は会社を立ち上げ、1968年から76年にかけて白黒アニメのカラー化を韓国で盛んに行なっています。

 日本でも『黄金バット』(日本放映1967年)、『妖怪人間ベム』(日本放映68年)を韓国下請けで制作していますが、これは日韓政府間の合意に基づく技術指導のためでもありました(日韓基本条約は1965年)。1973年には東映動画が韓国の制作会社を子会社化し、韓国での制作下請けが本格的になっていきます。日本を下請けに使っていた米国ですが、やがて韓国のスタジオも下請けに利用するようになりました。[2]

 また1970年ごろには台湾での下請けも行われるようになり、大塚康生らも台湾に技術指導に行っています。[4]


 当時の米国のテレビ界から見れば、日本のアニメの品質だとかスタイルだとかを求めていたわけではなく、子供向け番組の不足を補うのに便利だったので日本から番組を輸入していただけでした。したがって、日本や韓国などのスタジオを下請けに使って米国のアニメを作れるなら、何も暴力表現などで問題を起こしやすい日本製アニメを買い続ける理由はないということにもなります。


 『アストロボーイ 』や『スピードレーサー』が好きな子供たちはいても、60年代の米国にアニメをまともに観ている大人はほぼ存在していなかったと思われます。したがって日本アニメを擁護する声などあるはずもなく、日本からのアニメの輸入は途絶えたのでした。


 手塚治虫は漫画の海外進出について悲観的な考えを、以下のようにその自伝に書いています。[3]


>>日本人が、日本人の感覚で、日本人の生活を描いた漫画だと、たいていの場合、あちらさんはお手上げになる。面白くないというより、意味が汲み取れないらしい。そして、それは、いわゆる東洋思想うんぬんの点ではないらしい。<<

>>一言にしていえば糠味噌くささとでもいおうか。「糠味噌くさい」--こいつは難しい形容である。「所帯くさい」という表現ともちがう。いかにも臭そうな、四畳半的な、デリケートな感覚である。幸か不幸か、日本人は、どんな洗練された紳士淑女でも、ひょんなときにこいつがプンと匂う。<<

>>国民性というものは、相手の国によい印象をもたらす場合と、逆の場合とがあるが、漫画は、その性質上、あとの場合が多いらしい。つまり、漫画としてのアイデアのおもしろさの前に、奇妙さが目立ってしまうのだ。<<


 なおアニメ映画では、その後も東映動画の作品や、米国ではX指定になったと言う虫プロの成人向け作品『クレオパトラ』(英題:Cleopatra, Queen of Sex)などが米国で公開されていますが、目立った成功は収められなかったようです。


 こうして米国では60年代末から70年代末まで、日本製テレビアニメの約10年の空白期間が生まれました。

 とはいえ、フランスでは72年の『新ジャングル大帝 進めレオ!』(Le roi Léo)を皮切りに日本製アニメの放映が始まっています(国営局による全国放送です!)。[5] また英語圏でもオーストラリアはこの期間も日本のアニメ番組を買っていますので[1]、日本のテレビアニメはまったく海外に出て行かなくなったというわけではありません。


 いずれにしろ、米国の業者は日本のアニメを買い入れる気をすっかりなくしてしまったわけですが、どういうわけか、70年代の末になると米国のテレビに日本のアニメが再登場します。それが『科学忍者隊ガッチャマン』、『宇宙戦艦ヤマト』でした。



[1]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[2]フレッド・ラッド/ハーヴィー・デネロフ著、久美薫訳『アニメが「ANIME」になるまで 鉄腕アトム、アメリカを行く』NTT出版、2010年(原著2009年)

[3]手塚治虫『ぼくはマンガ家』角川文庫、2000年(底本は大和書房、1979年。オリジナル版は毎日新聞社、1969年)

[4]大塚康生『作画汗まみれ 改定最新版』文春文庫、2013年

[5]トリスタン・ブルネ『水曜日のアニメが待ち遠しい フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす』誠文堂新光社、2015年

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