【1970年代 (2)】ホームビデオとファンダムの誕生

 日本では1970年代に思春期以降にもアニメを見続ける層が現れ、いわゆるアニメオタクが生まれてきます。(ただし「おたく」という言葉の初出は1983年の中森明夫のコラムだとされますが。)

 第一回のコミックマーケットが開かれたのは1975年ですが、回を重ねるごとにアニメ系の参加者が増加し、1979年のコミケ11では会場スペースをマンガとアニメのサークルとで分離する措置をとっています。

 1977年に創刊したみのり書房の「OUT」誌は、SFやミステリなどのサブカルチャーを扱う方針だったようですが、第2号の「宇宙戦艦ヤマト」特集が大当たりしてアニメ誌化していきました。「OUT」誌では読書投稿に多くのページを割いており、ここにも日本におけるアニメの“ファンダム”(=ファン文化、ファン社会)の形成がうかがえます。

 また1978年には、徳間書店から「アニメージュ」誌が創刊されています。こちらは当初からアニメ専門誌として企画されたものでした。ちなみにスタジオ・ジブリのプロデューサー鈴木敏夫はこの「アニメージュ」の元編集者です。[1]


 そして米国でも、70年代後半には日本製アニメのファンダムが生まれています。1977年、後にアニメ評論家として活躍するフレッド・パットンらが、ロサンジェルスで日本製アニメのファン団体「カートゥーン・ファンタジー・オーガナイゼーション(Cartoon Fantasy Organization)」を立ち上げました。


 フレッド・パッテンはもともとSFやアメコミの熱心なファンで、SFやアメコミのファンクラブに所属したり、ファンジン(ファンが作る同人誌的なもの)を作ったりというファン活動を行なっていました。米国で日本アニメのファンダムが生まれる前提として、すでにSFやアメコミのファンダムが成立していて、活発に活動していたということがあるわけです。[2][3]


 パッテンが日本のマンガに最初に接したのは1970年。カリフォルニア州南部のサンタバーバラで開かれたSF大会(コンベンション)で、テレビドラマ『0011 ナポレオン・ソロ』(日本でも放映された)の展示があり、そこに各国の関連書籍に混じってさいとうたかをによるコミカライズ版もあったのです。当時、パッテンは日本語は読めませんでしたが、これを見て「一瞬で魅了されて」しまい、ロサンジェルスのリトル・トーキョーの書店に日本の漫画を漁りに行くようになりました。[3]


 70年代初めのロスのリトル・トーキョーで日本の漫画を入手したというのも興味深いですが、ここではSF大会の国際性にも注目しておきたいところです。

 早くから日本のSFファンは海外ファンとの交流がありました。パッテンの見た劇画版『ナポレオン・ソロ』の情報を(あるいは現物も)提供したのは日本のSF関係者の誰かだったのかもしれません。ちなみに米国のSFファンダムの影響を受けて、第一回の日本SF大会が開催されたのは1962年。このとき、漫画家としては手塚治虫と石森章太郎が参加しています。その後、日本SF大会の影響を受けて1972年に第一回日本漫画大会が開催され、日本漫画大会から分離するようにコミックマーケットが発生したという流れになります。[1]


 パッテンが日本のアニメのファンになったのは、漫画よりも遅れて1976年です。彼は、「日系米国人の地域チャンネルで『巨大ロボット』アニメが英語の字幕を付けて放映された」のを偶然目にしました。1976年といえば『ガッチャマン』の米国放映の2年前で、日本製アニメの輸入が途絶えていた時期です。[2]

 フレデリック・ショットによると、「日本製アニメ数本が、米国在住の日本人や日本語を話す視聴者向けに、テレビのUHFチャンネルで放映され始めた」ということで[4]、パッテンが見たのもそうしたUHF放送で、一般の局では放映されない日本のアニメ番組だったのでしょう。


 ところで、米国でホームビデオ機器が市販されたのが1975年のことでした。この新メディアが、米国で“アニメオタク”を生み出すのに大きな役割を果たします。ビデオ機器によって、ただテレビ局で流される番組を見せられるだけでなく、主体的に観たいアニメを観ることが可能になります。また、録画したアニメをコレクションするというファン行動もできるようになります。


 当時はまだ相当高価だったビデオ機器ですが、パッテンたちは日本製の「巨大ロボット」アニメを録画して、SFクラブやアメコミクラブの会合で鑑賞していました。そこから日本製アニメ専門のクラブを作ろうという話になり、「カートゥーン・ファンタジー・オーガナイゼーション」の設立に至ったのです。[2]

 その経緯から、初期のメンバーはSFファン・アメコミファンを兼ねていたと考えられます。


 また、「カートゥーン・ファンタジー・オーガナイゼーション」が生まれた1977年に、SF翻訳家の伊藤典夫が米国で日本製アニメのファンと接触した経験を次のように報告しています。[2]


>>ロサンジェルスにいたとき、ぼくの本職のSFの方面で会ってみたい男がいて、電話をかけたところ、日本のアニメを見る会があるから、そこで会おうと言うんです。おちあう場所はノース・ハリウッドのモーション・ピクチャー・カートゥニスト・ユニオン・ホール、日本語にすればアニメ画家組合ホールとでもいうんですか、そこの一室を借りて定期的にアニメ映画を見る会が開かれているらしい<<


>>ロサンジェルスには日系人が多いでしょう。だから、UHFの局なんかでは週何日か日本製のテレビ番組をまとめて放送したりしている。その中にはアニメもあるわけで、それを偶然に見て、日本のアニメ映画のファンになった人たちがいるんです。熱狂的なのは、ビデオにとって何百本も持っているらしい。その日の会の主催者というのが、そういう男で、自慢のコレクションの中から選りぬきのやつを七、八本持ってきて、みんなに見せるんですね。<<


>>十五、六人は集まったかな。こう言うと大した数ではないんだけれど、土曜日の午後を半日つぶして、みんな集まってくるわけですよ。何人かはプロの動画家たち。残りは、ただ、もう日本製のアニメが好きな連中。多いときには三十人ぐらい来るということでした<<


>>『鉄腕アトム』、むこうでいう『アストロ・ボーイ』の初期のモノクロ版を二本やって、『ジャングル大帝』を二本、それから、『海のトリトン』『キャンディ・キャンディ』、あとは『ライディーン』だったかな……。『ライディーン』なんか日本のテレビで見ているとそんなでもないんだけど、ああした暗い劇場風の中で、白人たちの中にひとり置かれて見ていると、感じが違ってきますね。日本人ののみこみの早さ、小手先の器用さというのが、ものすごいことがわかる<<


 『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』の初放映時には、家庭用ビデオ機器はまだありませんでしたから、どこかの地域で再放送されたものを録画したのでしょう。『海のトリトン』、『キャンディ・キャンディ』、『ライディーン』は米国の一般の局ではまだ放映されていませんから、日系人向けUHFチャンネルで放映されたもので、おそらくは吹き替えではなく字幕だったと思われます。


 「白人たちの中にひとり置かれて見ていると」とあることから、ほとんどのメンバーは白人だったと考えていいでしょう。

 また「プロの動画家」が参加していますし、中核となるメンバーは当時まだ珍しく高価なホームビデオ機器を持っていたということからも、参加者のほとんどは社会人だったと思われます。伊藤典夫のいう「本職のSFの方面で会ってみたい男」というのも、SF作家か編集者か熱心なファンかわかりませんが、たぶん社会人でしょう。要するに、“いい大人”が半日つぶしてアニメを観る集まりなわけです。

 フレッド・パッテンは1940年生まれなので、「カートゥーン・ファンタジー・オーガナイゼーション」を設立したときには彼ももう30台後半です。つまり米国の初期の“アニメクラブ”というのは、クラブといっても中高生のクラブ活動のようなものではなく、“いい大人”の道楽の会だったわけです。


 高価なビデオ機器が必要だったということはもちろん、各地の同好の士と連絡を取り合ってネットワークを作ったり、吹き替えなしの外国語のアニメを楽しんだりするのは子供には厳しかったかもしれません。それに、何というかすごくマニアックな匂いがするんですよね。そういうところに、ちょっと子供は入っていきにくそうです。


 この点、アニメ好きの子供がそのまま思春期以降もアニメを見続けて、いわば“高年齢化”によってファン層を拡大していった日本とは事情が違っています。米国では、大学にアニメクラブが作られるようになり、それから高校にもアニメクラブができるという風に、“低年齢化”の方向にファン層が拡大しました。[5]

 『オタク・イン・USA』のパトリック・マシアスも、下の世代のアニメファンについて、「彼らはより低年齢化し、より活動的で組織的に変わって来ていた」と書いています。[3]


 さて、日本の新作アニメを観ることができなかった時期の米国の子供たちですが、実はマジンガーZやライディーンといった日本のアニメに登場する巨大ロボットには接していました。

 アニメが米国に入れなかった時代にも、ロボット玩具は米国に輸出されていたのです。



[1]長山靖夫『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』河出書房新社、2012年

[2]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[3]パトリック・マシアス著、町山智浩編・訳『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』太田出版、2006年

[4]フレデリック・L・ショット[著]、樋口あやこ[訳]『ニッポンマンガ論 日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』マール社、1998年(原著1996年)

[5]ローレンス・エング「ネットワーク文化としてのファンダム・イン・アメリカ」、宮台真司[監修]、辻泉/岡部大介/伊藤瑞子[編]『オタク的想像力のリミット <歴史・空間・交流>から問う』筑摩書房、2014年

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