誰が日本の漫画・アニメを見ているのか

日本のアニメはアジア系アメリカ人の文化なのか? (1)

 三原龍太郎の『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか』を読んでいたら、ちょっと気になる記述がありました。米国では日本のアニメはアジア系アメリカ人の文化だというのです。

 どういうことかというと、三原は2007年からアニメ研究のために米国のコーネル大学(東海岸の名門アイビーリーグのひとつ)の大学院で学んでいます。そのときの、同じ文化人類学科の大学院生の女性とのやり取りについて以下のように書いてありました。[1]


>>キャッチボールをしながら、なんとなくお互いの研究の話になった。そこで私が「アメリカにおける日本のアニメについて研究するつもりなんだ」と言うと、彼女は特に深く考える様子もなく、「ああ、アメリカではアジア系アメリカ人の文化だよね。自分も『もののけ姫』は観たよ」と答えたのだった。<<


>>彼女は日本のアニメやポップカルチャーに関してはほとんど素人だ。一般のアメリカ人と同じくらいか、文化に関心のある大学院生ではあるので、それよりも少し詳しい程度だっただろう。<<


>>その彼女が「アニメと聞いたときの第一声が「アジア系アメリカ人の文化」だったというのは、アメリカにおける日本アニメの立ち位置を、ある意味身もフタもない形で言い表しているように思えた。<<


 どうでしょうか。米国でそういう見方があることはわかりましたが、それだけではちょっと何とも言えないように思います。実際に日本製アニメのファンや関係者にアジア系アメリカ人が多いのでしょうか。それとも、実態はともかくそう認識されているという話なのでしょうか。

 この本にはそれ以上具体的な話はほとんど出てこないので判断が難しいのですが、地理と結びつけてアニメとアジア系アメリカ人との関係を説明する以下のような記述があります。[1]


>>アメリカでの日本アニメが日系あるいはアジア系のエスニック文化としての側面が強いことは、アメリカにおけるアニメファンの分布からもうかがい知ることができる。<<


>>アメリカにおけるアニメファンは、主に西海岸と東海岸という国の両側(及び例外的にテキサスのオースティン周辺)に集中していると言われる。これは、西海岸にアジア系アメリカ人が多いことに関係が深いのだろう。<<


>>そして東海岸は、非常に身もふたもない言い方をすれば、エスニック文化を理解し、それを楽しむことのできる知的・金銭的キャパシティの高いエリートが多いためだとも言われている。逆に、保守的傾向の強い中西部や南部ではエスニック文化としての日本アニメを受け入れる余地は少なく、従ってアニメファンも少ないと言われている。<<


 これはこれで興味深いですが、これだけではちょっと説明としては弱く感じます。例えば、西海岸でアニメファンが多いのはアジア系アメリカ人が多いことに「関係が深い」というのはどういう意味なのでしょう。アジア系アメリカ人がアニメファンの中核となっているのか、それとももっと間接的な関係なのか、西海岸でアニメファンが多いのも東海岸と同じように土地の持つ“気風”で説明できるのではないか、などという疑問も湧いてきます。(なんでテキサス?というのも気にはなりますが、とりあえずそれは置いておきます。)


 では、日本のアニメとアジア系アメリカ人とに特に関係はないのかと言うと、そんなことはなく、実はいろいろと思い当たることがあります。今まで調べた範囲で、アジア系アメリカ人との関わりについてちょっとまとめて書いておこうと思います。


 1960年代では、日本のアニメとアジア系のアメリカ人との関係を示すものを見つけることができませんでした。この時期には、テレビで放映されている日本製アニメが日本製であることをほとんどの人が知らず、米国製アニメと区別せずに観ていたので、人種的な関係付けもされなかったのではないかと思います。


 1960年代末からいったん日本アニメの輸入が途絶えますが、アニメ研究家のフレッド・パッテンはこの空白の時期に関する興味深い証言をしています。[2]


>>私は一九七六年以来、アニメファンだったはずだ。その年がテレビで「巨大ロボット」アニメを見始めた時期だった。実は、自分では大してテレビを見ていなかった。最初のビデオ機器がお目見えしたのと同時期に、日系米国人の地域チャンネルで「巨大ロボット」アニメが英語の字幕を付けて放映されたのは、まったくの偶然だった。<<


 1976年というと、日本アニメの輸入が再開した『ガッチャマン』の米国放映(1978年)よりも前のことです。暴力的過ぎるという理由で米国の業者にはパイロット版も見てもらえない状態だった日本製アニメが、なんと「日系米国人の地域チャンネル」では放映されていたのです。ここには暴力的テレビ番組を批判する市民団体の抗議も及んでいなかった、というかそもそも視野に入っていなかったのかもしれません。

 アニメは吹き替えるのが当然という当時の米国にあって、字幕付きで放映されていたというのも注目に値します。吹き替える予算がなかったということもあるでしょうが、日本語で日本の番組を観たいという日系人の需要もあったのでしょう。


 そして、70年代末から80年代にかけて日本製アニメが再び輸入されるようになってからも、テレビで放映される一部のアニメ以外の作品を観たり、アニメ関連のグッズや情報を手に入れるのは容易ではない状況が続きました。

 そこで、この時期に米国に現れてきた熱心な日本製アニメのファンたちは、アニメ関連のものを手に入れるために“アジア系”という経路を利用しています。


 『オタク・イン・USA』の著者のパトリック・マシアス(1972年、サンフランシスコ州サクラメント生まれ)は6歳のとき、仕事で出張に出た父親にサンフランシスコのジャパンタウンとロサンジェルスのリトル・トーキョーで、「ブルマァクのダイキャスト製ガイガン」と「ウルトラマンレオのソフトビニール人形」を買ってきてもらっています。これは特撮もののグッズですが、アニメグッズもおそらく似たようなものだったと推測されます。

 またマシアスは、1985年に米国で放映された『ロボテック』(『超時空要塞マクロス』)の米国版の玩具の出来が悪かったため、「マニアはチャイナタウンで香港製のパチモンを探し求めた」とも書いています。[3]


 西海岸にある日系(アジア系)のレンタルビデオショップも、日本のアニメなどを観るためのメディアとして機能していました。

 三原龍太郎は、別の著書で以下のように書いています。[4]


>>一九八〇年代後半にロサンゼルスから日本に帰国した後、およそ二十年ぶりに米国に戻った自分を驚かせたのは、北米で日本の文化商品が二十年前からは考えられないほどに偏在していることだった。多くのDVDショップには必ずと言っていいほど「anime」のコーナーがあった。<<


>>このような状況は、私がロサンゼルスに住んでいた一九八〇年代には想像もつかないことであった。当時日本のアニメを見るほとんど唯一の方法は、ショピングモールの片隅にある怪しげな日系(アジア系)ビデオレンタルショップから、おそらくほぼ確実に違法なベータマックスのビデオカセット(明らかに日本のテレビ放映をそのまま録画したものであり、飛ばし忘れたCMが一緒に入っていたりした。個々のカセットの背中には手書きで収録タイトルが書いてあった)を借りることだった。私はこのビデオを通じて宮崎駿(「風の谷のナウシカ」および「天空の城ラピュタ」)を初めて知り、夜も眠れないほどに感動したのだが、その感動を現地校のクラスメートと共有することはできなかった。当時は誰も宮崎駿の名前など知らず、そのかわり同級生はGIジョーに夢中だった。<<

(引用文中にある『GIジョー』のテレビ放映は1985年から。)


 パトリック・マシアスも19歳のとき、「サンフランシスコの日系人向けビデオ店」で見つけた深作欣二のやくざ映画が、初めて観た英語に吹き替えられていない日本の映画だと言っています。これも字幕は無しです。[3]


 研究者であり、一九八〇年頃からのアニメオタクでもあるローレンス・エングは、初期の大学のアニメクラブでは、「非公式な形で入手した日本アニメの上映会」が行われており、その出どころは「日本人のペンフレンドから送られてきたものや、日本に駐留していた軍人が持ち帰ってきたもの、カリフォルニアにある日本関係のレンタルビデオショップから入手したもの、さらにはハワイにおける日本人向けテレビ放送を録画したもの」だったと述べています。[5]

 ここでもカリフォルニアの日系のレンタルビデオショップが出てきていますが、地理的にはハワイの存在にも注目しておきたいところです。


 米国で日本の漫画やアニメのスタイルを取り入れ、そのパロディやオマージュを盛り込んだ最初期のコミック作品のひとつに『ニンジャ・ハイスクール』(1987年開始)というインディーズ・コミックがありますが、作者のベン・ダンは1963年テキサス生まれの台湾系アメリカ人です。

 彼は1977年に台湾に渡り、そこで台湾語訳された日本製マンガ(海賊版)を山ほど買って、それらを元にしたコミックを自分で描くことを思いついたということです。[3]


 このように、70年代から80年代にかけての日本のアニメが米国に正面からなかなか入っていけない時期に、アジア人やアジア系アメリカ人の手でアニメ関連の品が日本やアジア諸国から米国内へと細々と持ち込まれていたわけです。それらの活動は個人レベルなど小規模で、海賊版など違法なものも少なからずあったようです。

 そして、それらの品はアジア系住民の多い地域のアジア系ショップの棚に並んでいたというわけです。


 それではアジア系の人たちの日本製アニメへの反応はどうだったのかというと、これがよくわかりません。

 マニアックなファンになったかどうかはともかく、アジア系アメリカ人の方が日本のアニメに接する機会が多い分、視聴していた割合も高かったかもしれません。しかし、同じ地域に住むアジア系以外の人たちと比べたらそれほど変わらないという可能性もあります。

 『宇宙戦艦ヤマト』が1979年に米国で最初に放映されたときはあまり視聴率が稼げず、「八〇年代、アジア系の住民が多い都市に送り出され、ようやく人気が高まった」という情報がありますが[2]、アジア系の人たちが熱心に見ていたのか、アジア系住民の多い地域では(日本製アニメの放送が多い等の理由で)日本アニメのファン層の形成が早かったせいなのか、どちらとも言えません。


 米国では70年代後半から現れる、日本製アニメのオタク的なファンについての記述で、特にアジア系アメリカ人に言及するものは見当たりません。

 ローレンス・エングは、「中流階級という特権的なクラスでありながら、意図的選択的に自己周縁化することこそオタクの特徴である」と述べています。[6]

 つまり、オタクというのはあえて自分をマイナーな存在にしているということです。しかし、もし中流階級だったとしてもアジア系アメリカ人は米国でマイノリティーであることには変わりませんから、「意図的選択的に自己周縁化する」という説明とは噛み合いません。エングの見た範囲で、米国のアニメオタクの中でアジア系アメリカ人が目について多いならこういう書き方にはならないのではないかと思います。

 とはいえ、ローレンス・エングやパトリック・マシアスのような、いわば主流派(?)のアニメオタクの視野に入らないところにアジア系のアニメファンたちがいた可能性は否定できません。


 その後、1989年に『AKIRA』が米国で公開されて評判を呼んだのを嚆矢に、1996年に『攻殻機動隊』が「ビルボード」誌のヒットチャート1位、1999年には『劇場版ポケットモンスター』第一作が大ヒット、『千と千尋の神隠し』が2002年にベルリン国際映画祭の金熊賞、2003年にアカデミー長編アニメ映画賞を受賞するなど、90年代以降は日本製アニメが米国社会の中で日の当たる場所に進出していきます。

 正規の手段でアニメを視聴することもそれほど難しくはなくなり、かつてのように怪しげなアジア系ショップに頼る必要はなくなりました。

 それでは、アジア系アメリカ人と日本製アニメとの関係は薄れていったのかというと、そうではなくまた別の種類のつながりが生まれてきたようなのです。



[1]三原龍太郎『クール・ジャパンはなぜ嫌われるのか』中公新書ラクレ、2014年

[2]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[3]パトリック・マシアス著、町山智浩編・訳『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』太田出版、2006年

[4]三原龍太郎『ハルヒ in USA 日本アニメ国際化の研究』NTT出版、2010年

[5]ローレンス・エング「ネットワーク文化としてのファンダム・イン・アメリカ」、宮台真司[監修]、辻泉/岡部大介/伊藤瑞子[編]『オタク的想像力のリミット <歴史・空間・交流>から問う』筑摩書房、2014年

[6]ローレンス・エング「参加型文化としてのアメリカオタク史」、宮台真司[監修]、辻泉/岡部大介/伊藤瑞子[編]『オタク的想像力のリミット <歴史・空間・交流>から問う』筑摩書房、2014年

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