【1980年代 (2)】「メカと美少女」アニメ、ロボテック(マクロス)

 アニメ『超時空要塞マクロス』は1982年に放映され(日本)、大ヒットとなりました。

 「メカ、美少女、ラブコメ的三角関係、アイドル文化、SFといった要素が、ひとつの作品の中にごった煮的に圧縮され、同居している」アニメであり、この作品によって「『メカと美少女』を核とし、男性たちが喜ぶ要素を取り入れた作品のフォーマット」、「おたくジャンル」の基礎が確立した、とも評されています。[1]


 そもそも「オタク」という名称は、当時のアニメファンらが相手を「お宅」と呼んでいたことに由来します。そして、この「お宅」という二人称が流行ったのは、『マクロス』の登場人物が作中で使っていたこと、また『マクロス』を企画したスタジオぬえのメンバーがイベントで使っているのをファンが真似したことの影響が大きいという説もあります。[2]


 この『超時空要塞マクロス』は、米国では、1985年に『ロボテック(Robotech)』のタイトルでシンジケーション番組として放映されました。


 『マクロス』が『ロボテック』になってしまった経緯ですが、米国でのアニメ放映の前年(1984年)に、米国のレベル社が日本サンライズの『太陽の牙ダグラム』(日本放映81年〜)と『マクロス』の玩具を日本から輸入し、合わせて「ロボテック」と銘打って売り出したのが始まりでした。[3]

 原作を無視して複数のシリーズの玩具を統一タイトルで販売するのは、「ショーグン・ウォーリアーズ」のときと同じですね。この玩具シリーズに付けられた「ロボテック」という名称が、その後に放映されるアニメに引き継がれたのです。


 アニメの『マクロス』は、ハーモニー・ゴールド社がライセンスを取って配給することになりました。ハーモニー・ゴールドはそれまで日本のアニメをヨーロッパや中南米向けに配給していた会社で、米国にも進出してきたのです。[3]

 ところが、当時のシンジケーション市場で売買される番組のフォーマットとして、全36話の『マクロス』では話数が足りないという問題がありました。そこで、同じタツノコプロの作品『超時空騎団サザンクロス』と『機甲創世記モスピーダ』の権利も取得して、三つ合わせて全85話の『ロボテック』に仕立て上げたのです。[3][4]


 なかでも一番人気があったのはやはり『マクロス』で、『ロボテック』と言ったら主に『マクロス』を意味するそうです。[3]

 玩具の「ロボテック」もアニメの『ロボテック』も、「マクロス+他の作品」なのですが、組み合わせが違っているのは、玩具とアニメで別々に権利が売買されているためですね。


 『ボルトロン』でもそうでしたが、80年代の米国で日本のアニメを複数合わせて一本の作品にしてしまうということは普通に行われていました。その理由の一つにはシンジケーション市場という“流通”の都合があったわけです。

 『ロボテック』は、「Macross Saga(マクロス)」「The Robotech Masters(サザンクロス)」「The New Generation(モスピーダ)」の三部作という構成になりました。


 ちなみに、複数のアニメを一本にまとめる方法として、こんなやり方も試みられました。

 同じくハーモニー・ゴールド社が手掛けて1985年に放映された『Captain Harlock and the Queen of 1000 Years』ですが、『宇宙海賊キャプテンハーロック』(日本放映78年)と『新竹取物語 1000年女王』(日本放映81年)を一本にまとめたものです。

 『ハーロック』と『1000年女王』の物語は、直接は交わらないがひとつの大戦争の二つの戦線ということにして並行して描いていく、という凝った再構成がなされました。しかし、さすがに話がわかりにくかったのか、視聴率は取れなかったそうです。[4]


 米国版の『ロボテック』の制作を担当したのはカール・メイセックという人物。もともとアニメのセル画などを売るショップを経営していたオタクタイプの人だといいます。フレッド・パッテンらが1977年に立ち上げた日本製アニメのファン組織、Cartoon Fantasy Organizationとも接触があり、『マクロス』のことも知っていました。[3][4]


 『ロボテック』は多くの熱心なファンを生みましたが、のちにメイセックが行った改変のことを知って、厳しく批判する人たちも現れました。[4]


 個人的には、シンジケーション市場の都合に合わせて話数を増やさなければいけなかった事情は理解できますし、一部の暴力シーンや、シャワーシーンのような“きわどい場面”を削らなければいけなかったのもわかります。でも、もともと地球が舞台ではない『サザンクロス』で、空に月が二つある場面はすべて修正したなんていうエピソードを読むと[]、そこまでして“ひとつの話”にしなければいけないのかと、どうも腑に落ちないんですね。


 メイセックは、まず『マクロス』『サザンクロス』『モスピーダ』をわざわざ音声を絞って観て、想像を膨らませ、ひとつの話を作ろうとしました。[3]

 要するに元の作品は“素材”として、オリジナルの作品を作っているようなものです。これはひょっとしたら、必要だからしている現地化ローカライズというだけでなく、メイセック個人の表現欲求みたいなものも入っているんじゃないかと思えてきます。


 『オタク・イン・USA』の著者パトリック・マシアスによると、テレビ局は『ロボテック』対象年齢を小さな子供に設定していたのですが、小さい子には難しいSF設定などもあり、観ていたのはティーン以上だったということです。[3]

 マシアスは「もちろん、男子生徒たちは密かにミンメイに恋をした」と言ってますので、日本と同じく「メカと美少女」というところにも反応していたわけです。


 またマシアスは『ロボテック』を「80年代にアメリカで最も人気を集めた日本製アニメ」と評していますが、米国で成功したのはテレビ放映時よりも、後にレンタルビデオやセルビデオになってからでした。[4]

 フレッド・ラッドの著書にも、「『Robotech』のテレビへの配給はそこそこの売上にとどまったといわれているが、ビデオカセットやコミックスで大きい数字をあげてみせた」とあります。[5]

 90年代にはケーブルテレビでの再放送もあったので、そこでファンになった人もいたでしょう。


 マシアスの著書には、「善悪のはっきりしない戦争は、冷戦終結後には実にリアルだった」とか、「『マクロス』では戦争が終わった後も何万もの屍の上でより現実的な戦いが始まる。地球人とゼントラーディ人は、たとえば冷戦後のアメリカとロシアのように互いに助け合って生き続けなければならない」と『マクロス』と冷戦後の世界情勢を重ね合わせる記述が出てきます。

 しかしマルタ会談は89年、ソ連の崩壊は91年です。85年のゴルバチョフの書記長就任から冷戦は終わりはじめたとも言えますが、冷戦後の困難を実感するようになるのは、やはり90年代以降でしょう。

 とすると、マシアスの実感からも米国で『ロボテック』の人気が高まったのは80年代末か90年代以降と言えそうです。


 さらにパトリック・マシアスは、『ロボテック』を「アメリカで女性の視聴者を獲得した最初のアニメ」と呼んでいますが[]、これもちょっと文字通りには受け取れません。60年代の『鉄腕アトムアストロ・ボーイ』や『鉄人28号ジャイガンター』だって、観ていた女の子はいたのですから。


 80年代になると米国でも、女児向けにターゲットを絞ったアニメ番組が増えています。

 例えば、84年の『マイ・リトル・ポニー(My Little Pony)』は、ハズブロ社の女児向けの玩具シリーズをもとにしたアニメです。当時タカラがライセンスを取って、日本向けにデザインを変えたものを販売していました。また、日本で人気のあったセキグチのサルの(ような?)人形「モンチッチ」のアニメが、ハンナ・バーベラの製作で83年に米国で放映されています。

 どうやら、テレビアニメが玩具の宣伝の役割を果たすようになったため、男児向けのロボットものだけでなく、女児向け玩具を売るための女児向けアニメもこの時期の米国に成立したように思えます。


 ただし、先に述べたように『ロボテック』を視聴する年齢層は比較的高く、マシアスによれば、「『マクロス』の三角関係はメロドラマ好きの女の子たちの心をつかんだ」「うちの中学の女子も『リック・ハンター(一条ヒカル)はミサとミンメイのどっちと結ばれると思う?』と盛り上がっていたものだ」ということなので、新しい層を捉えたとは言えるのかもしれません。


 なお、1986年に『ロボテック:ザ・ムービー(Robotech: The Movie)』という映画が米国で公開されますが、これは劇場版『マクロス』ではなく、OVA『メガゾーン23』の米国版で、元々は『マクロス』とはまったく関係のないストーリーなのですが、これも「ロボテック」にされてしまいました。[4]


 1988年にカール・メイセックはハーモニー・ゴールド社を離れ、ジェリー・ベックとともにストリームライン・ピクチャーズ社を設立しました。ストリームラインは、日本製アニメを専門として、ビデオ販売、映画興行を行う会社です。[4]

 日本では1983年に、初のOVA『ダロス』が発売されています。そして米国でも少数のマニアックな層にアニメビデオを販売するビジネスが成り立ちはじめたわけです。90年代以降、テレビでは放映されないような作品もビデオカセットとして商業ルートで出回ることになり、日本アニメのファンを増やしていきます。また、1989年に米国で『AKIRA』を公開したのも、このストリームラインです。

 なおメイセックは、ハーモニー・ゴールドで仕事をしていた頃のような大きな改変は行わなくなったようです。


 『マクロス』の制作には、まだアマチュアだった庵野秀明や山賀博之が参加していました。1983年(日本での『マクロス』放映の翌年)の日本SF大会「DAICON Ⅳ」で、『マクロス』で腕を磨いた庵野秀明らによる自主制作のオープニング・アニメーションが上映されました。

 そして、劇場版『マクロス』が日本で公開された1984年には、押井守監督作品『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、そして宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』も公開されています。この時期、まさに伝説的なアニメ作品が目白押しだったわけです。


 その『ナウシカ』を含めて、宮崎駿作品は80年代にすでに米国へ輸出されています。今では多くの米国人が宮崎駿作品を高く評価していますが、この時期には(一部の批評家やマニアには支持されたとはいえ)米国で大きな成功を収めることはできませんでした。

 作品の質さえ高ければ必ず成功するというわけではなかったのです。



[1]吉本たいまつ『おたくの起源』NTT出版、2009年

[2]岡田斗司夫『オタク学入門』太田出版、1996年

[3]パトリック・マシアス著、町山智浩編・訳『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』太田出版、2006年

[4]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[5]フレッド・ラッド/ハーヴィー・デネロフ著、久美薫訳『アニメが「ANIME」になるまで 鉄腕アトム、アメリカを行く』NTT出版、2010年(原著2009年)

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