米国における日本アニメの展開

1960年代の展開

【1960年代 (1)】アニメ映画輸出の挑戦

 日本製アニメの米国への進出は、劇場用アニメ映画の輸出という形で始まりました。


 当時の東映社長、大川博は、「日本語の非国際性」が日本の映画輸出の問題点であると捉え、「絵と動きで理解させ得る漫画映画」による外国市場への進出を考えました。[1]

 東映は日動映画株式会社を買収し、1956年に東映動画株式会社を設立。国内最大といえるスタジオを立ち上げます。旧日動映画のスタッフに加え、大塚康生らが新たにアニメーターとして採用され、日本初の長編カラーアニメ『白蛇伝』が制作されました。

 ちなみに、スタジオジブリの高畑勲や宮崎駿もこの東映動画の出身です。


 1958年公開の『白蛇伝』に続いて、1959年に『少年猿飛佐助』、1960年『西遊記』、1961年『安寿と厨子王丸』、1962年『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』が次々と公開されます。

 アニメ映画『西遊記』の原案は手塚治虫の漫画『ぼくの孫悟空』で、まだ虫プロ設立前だった手塚が東映の嘱託として制作に加わりました。また『シンドバッドの冒険』の構成も、手塚治虫が(北杜夫とともに)受け持っています。[2]


 米国では1961年に、『少年猿飛佐助』が Magic Boy 、『白蛇伝』が Panda and Magic Serpent 、『西遊記』が Alakazan the Great の英題で公開され、翌62年には、『シンドバッドの冒険』が Sindbad, The Sailor 、『安寿と厨子王丸』が The Littlest Warrior のタイトルで公開されました。


 しかし、海外進出を目指すはずなのに外国人には馴染みのない話ばかりなのはチグハグな印象を受けますね。その点は手塚治虫も気になったようで、東映のスタッフに尋ねていますが、「それが東映上層部の、動画に対する観念だよ」と返されています。[2]

 英語タイトルも、原題とはずいぶん離れたものになっています。


 高畑勲は1958年から69年までの東映動画の長編について、「多くの作品が当時『国際的』に通用しそうな方向性を目指していたとは言いがたく、海外への輸出を前提にした企画だったかどうかも疑わしい」、「たとえ西洋物を題材にした場合でも、海外へのロケハンは一度もなく、スタッフ側も世界全体に向けて制作しているという意識や、海外での受け取られ方への配慮などはまったくなかった」と述べています。[3]

 それも当時としては無理からぬことだったのかもしれません。とにかく、日本国内ではどの作品も好調でした。


 『西遊記』を例に取れば、ほとんどの米国人は西遊記も孫悟空も、その背景となる世界観も知りませんから、米国公開版ではまったく別の話と言えるくらいに改変されました。

 手塚治虫によると、三蔵法師は「プリンス・オブ・マジック」で、お釈迦様がその父の「キング・オブ・マジック」、観音様が母の「クイーン・オブ・マジック」ということになって、魔法の国の王子様が両親の王と王妃に見送られて旅に出るという話なのだそうです。[2] 悟空は「恥ずかしがり屋で内気な猿アラカザン」になりました。[1]

 そして当時の権利の買い取り契約は、こうした極端な改変も可能になるようなものだったようです。[2]


 のちに『鉄腕アトム』の吹き替えと再編集の仕事をすることになるフレッド・ラッドは、古い記録映像の権利を買ってきて吹き替えと再編集を施して、動物番組に仕立て直すという仕事を1950年代の始めには行なっていました。[4] つまり、すでにある映像をいわば「素材」として扱い、加工して新しい意味を与えるという「技術」が存在していたというということです。

 まるでネット上に溢れる現在のMAD動画みたいですが、このような「技術」が前提となって日本アニメの改変は行われました。


 それでも、これらの作品は米国での興行では芳しい成果をあげることはできませんでした。米国の映画産業自体が、テレビという新メディアに押されて低調だった時期だということもありますが、そもそも外国作品が、米国文化のド真ん中である映画というメディアで成功するのは、非常にハードルが高いのです。


 日本のアニメ映画が米国で評価されるのは、1989年米国公開の『AKIRA』を待たなければなりません。その『AKIRA』にしても、批評家や、マイナーな外国映画をわざわざ見るような映画愛好家、SFファンなどの間でこそ高い評価を得たものの、興行的に大成功したわけではありません。メジャーなレベルで成功したアニメ映画となると、さらに後の1998年『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』になってしまいます。

 米国文化とはかけ離れた内容の当時の東映作品では、たとえ大規模なローカライズを加えても受け入れられなかったのでしょう。


 海外での成績は芳しくありませんでしたが、東映は次に米国企業との合作を企画します。「アーサー王と円卓の騎士」を題材にした作品が企画されました(ただし実現せず)。これを映画批評家の今村大平が当時、次のように批判しています。[1]


>>外国との合作も結構だが、脚本、原画、デザイン、音楽をアメリカでつくり、東映は「実際の製作面」だけを受けもつというのでは、何のことはないアメリカの下請けに甘んじることになる<<

>>長尺漫画には市場開拓の使命があるというなら、せめて中短編で日本の民話をとりあげてもらいたい<<


 アニメ映画で海外に進出するなら「日本らしい」アニメを作るべきだという主張です。そして日本の民話を題材にすることを「日本らしさ」としています。

 当時、アニメに日本的なものが期待されていてもそれが何なのか誰にもわかっておらず、いかに日本的であるべきかという議論もいつのまにか消えてしまった、と高畑勲は述べています。[3]


 思えば、今の日本でも「アーサー王」のアニメ映画が作られていて、国内でも海外でもそれが日本的な作品だと思われているという現状は(良し悪しはともかく)不思議なものです。


 ところで、この時期、米国のアニメ産業は劇場映画からテレビへとシフトしていました。先に述べたように、台頭するテレビに映画産業全体が押されていたせいもありますが、アニメ映画が作りにくくなる特別な事情もあったのです。

 かつて米国の映画業界では、大手製作会社が配給や興行まで一括で支配していましたが、1940年代の末に、反トラスト法違反の独占であるという司法の判断が下されたのです。それまでのように短編アニメやニュース映画などを長編映画と「抱き合わせ」で売ることが許されなくなり、単独での採算を問われるようになります。その結果、アニメーションは儲からないという評価を下され、映画の世界では居場所を失っていきました。[1]

 アニメでいかに利益を出すかという現代に通じる問題が、この件ですでに現れていますね。こうして米国アニメ業界はテレビの世界へ向かいます。


 初期のテレビアニメ番組の大半は劇場用短編アニメの流用でしたが、テレビでのアニメの需要は強く、新作アニメの制作が求められました。

 1960年の『原始家族』(原題:Flintstone)は、全米ネットワークのゴールデンタイムで放映され大当たりしました。アニメ番組の人気は続いていましたが、その後ゴールデンタイムで成功したものはありませんでした。そのためテレビのアニメ番組は、土曜朝の子供向け枠に収まっていきます。[4]


 ところが、子供向けの時間帯に、子供向けの番組として放映されることで、「アニメは子供向けのもの」という認識が強まってしまうことになったのです。草薙聡志は、Michael Barrier の『Hollywood Cartoons: American animation in its golden age』から、次のように引用しています。[1]


>>「三匹の子豚」と「白雪姫」を大変な成功へと引き上げたのは、入場した大人たちだった。数年後、ワーナーブラザースやMGMの漫画アニメーションに熱心に反応したのは、大人の観客、とりわけ軍隊の男たちだった<<

>>テレビは漫画アニメーションをより近づきやすいものにした一方で、それを子どもが見るのに最も適した時間と体裁で提供することによって、以前よりはるかに子ども向けのメディアらしくしてしまった<<


 もともとアニメ映画は“大人も子供も楽しむもの”だったのが、テレビの子供番組枠という「メディアの属性」の持つ作用によって、“子供だけのもの”と受け取られるようになっていったのです。当時はテレビ番組を録画して見ることなど当然できませんから、放映する時間帯によって「誰が見るのか」が今以上に強く拘束されてしまいます。

 『鉄腕アトム』が放映されていた時期に、米国の中産階級の家庭をいくつか訪問した手塚治虫は、子供たちの様子を「テレビにしても子供の時間だけ見ると、自発的にスイッチを切り、おとな番組をほとんど見ない。その徹底さは驚くほどである。」と述べています。[2]

 ひょっとしたら手塚の見た子供たちは普段よりも「良い子」に振舞ってみせたのかもしれませんが、そうだとしても、大人の見る番組と子供の見る番組は厳しく峻別すべきという規範意識があったことは読み取れます。


 アニメ番組の旺盛な需要に応えるため、テレビ用のアニメでは作画枚数が少ないリミテッド・アニメーション方式が採られるようになります。当時、ハンナ・バーベラ社などがそうしたアニメを制作していましたが、米国内のスタジオでは需要に応じきれず、アニメのコンテンツ不足の状態が続いていました。

 そんな時期に、東京にいたNBCの社員が偶然見たことのないアニメに出くわしました。

 それが『鉄腕アトム』です。



[1]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[2]手塚治虫『ぼくはマンガ家』角川文庫(底本は大和書房、1979年)

[3]高畑勲「60年代頃の東映動画が日本のアニメーションにもたらしたもの」、大塚康生『作画汗まみれ 改定最新版』文春文庫、2013年

[4]フレッド・ラッド/ハーヴィー・デネロフ著、久美薫訳『アニメが「ANIME」になるまで 鉄腕アトム、アメリカを行く』NTT出版、2010年(原著2009年)

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