研究報告「ストーリーマンガという言葉の意味するもの」の聴講メモ

【括弧内は個人的な補足です。】


 2019年7月7日、専修大学で行われた日本マンガ学会海外交流部会第12回公開研究会での、椎名ゆかり氏(東京藝術大学非常勤講師/海外マンガ翻訳家)の研究報告「ストーリーマンガという言葉の意味するもの」を聴講したメモです。

 当日は時間が押していて、残念ながら駆け足での発表になってしまいましたが、わりと詳しいハンドアウトが配布されたので、それで補いながらメモを書いておきます。


(まず前提として、マンガ研究の世界ではしばらく前から、手塚治虫がマンガの起源として神格化されてしまって、必ずしも事実とは言えないイメージが広まっているのではないかいう認識があります。またそのせいで、手塚以後のマンガばかりが取り上げられる一方で、戦前のマンガや海外マンガは等閑視されてきたのではないかとも反省されています。この研究報告もその問題意識の上にあるものです。)


 〈ストーリーマンガ〉という言葉は、1950年代に使われはじめました。この頃の〈ストーリーマンガ〉は、子供向け漫画の新興ジャンルのひとつとして扱われていますが、それを具体的に定義することは難しいとのこと。


 それが60年代以降になると、〈ストーリーマンガ〉と手塚治虫が関連付けられて語られるようになります。つまり〈ストーリーマンガ〉とは、複雑な物語性を持ち、映画的手法を用いて表現された漫画だとされ、手塚治虫がその創始者だとされるようになったのです。

 これについて、椎名氏は「〈ストーリーマンガ〉の祖として手塚を設定した上で、〈ストーリーマンガ〉観を構築していく知的操作が行われていた」と述べています。つまり〈ストーリーマンガ〉を規定するのに「物語性」や「映画的」など手塚作品に特徴的な要素を条件として与えておいて、そこから〈ストーリーマンガ〉の起源は手塚だという結論を導くという、論点先取めいたことが行われたのではないかという指摘です。


 さらに70年代になると〈ストーリーマンガ〉という言葉が〈マンガ〉全体とほぼ同義語として使われるようになります。そして〈ストーリーマンガ〉≒〈マンガ〉となったことで、〈ストーリーマンガ〉の創始者手塚治虫が、〈マンガ〉の創始者手塚治虫になったのです。

 そして、〈ストーリーマンガ〉イコール〈マンガ〉を成り立たせるために、〈ストーリーマンガ〉ではない〈マンガ〉は排除されます。ここで排除されたのは戦前のマンガや海外マンガです。戦前の漫画はストーリーがあるものでも〈ストーリーマンガ〉とは見なされなくなり、海外には手塚が生んだ〈ストーリーマンガ〉のようなものはないという印象が植え付けられました。


 1989年に手塚治虫が亡くなると、多くのメディアがその死を取り上げ、生前の功績を讃えました。しかしそれが、戦後マンガがすべて手塚治虫から生まれたという神話をさらに強固なものにしてしまいます。実は手塚治虫自身は、生前最後のインタビューで、戦前の漫画や海外の漫画からいかに影響を受けたかを積極的に語っているのですが。


 そして椎名氏は、手塚治虫を起源とする〈ストーリーマンガ〉という図式が生み出されたのは、背後にそれを望む願望があったのではないかと指摘しています。つまり戦前と戦後のマンガを切り離したいという思いがそうさせたのだと。その理由は、「軍事体制を持っていた戦前の日本への忌避感」、「手塚の代表する戦後民主主義の擁護」、「手塚への思い入れゆえの特別化」など、様々だっだろうとしています。


 その中でも70年代から80年代に活躍した論者の場合は、戦前から活躍している漫画家たちの「漫画」と、自分たちの世代の「マンガ」を区別したいという願望があったと推測しています。


 1932年に設立された漫画家グループ「漫画集団」の中心人物に、大人向けの漫画を描いていた近藤日出造という人がいます。近藤は、戦時中は戦争支持の姿勢を見せていましたが、戦後はすぐに共産主義的ふるまいをはじめ、1969年には「安保」支持の仕事を引き受けています。また、読売新聞で長く政治漫画を描き、文化人としてマスコミに登場することも多かった近藤は、体制側にいるとして反発を受けることも多かったといいます。


 また近藤を含めた「漫画集団」は、1940年代後半から起こった「俗悪漫画」追放運動に積極的に協力していて、「俗悪漫画」として非難される側だった手塚治虫を近藤は激しく罵倒したことがあったそうです。


 さらに近藤日出造は、以下のような手塚を馬鹿にした調子の文章も書いています。


>>(略)その手塚治虫が、この頃しきりに大人漫畫への進出を志し、今のところ「繪の點」での力不足のため、進出思うにまかせず、との噂をきく。一應「大人漫畫家」で通っている繪の下手くそな僕が、こうした噂を傳えることにより、一般の子供漫畫家というものが、いかにも箸にも棒にもかからない粗末な「繪描き」であるかをいいたかったのだ。<<


 常に「体制側」に身を置いて立ち回り(そのように見えた)、手塚治虫に代表される自分たちの世代のマンガを叩くような近藤や「漫画集団」への反発が若い世代の論者たちにあり、それが戦前からの大人漫画への反発にもつながって、自分たちの世代のマンガとは別のものとして区別しようとした。その願望が、戦後のマンガは手塚治虫からまったく新しく生まれたという言説につながったのではないかということです。

 そして、手塚治虫こそが〈ストーリーマンガ〉の祖であるという言説によって、戦後の「日本の国民文化」としての〈マンガ〉観が構築されたのだと結論付けています。



【感想】

 質疑応答のときに、手塚起源説を語っていた論者たちの背後にはそれを求める読者がいたのではないかというような話が出たように記憶しています。


 それと関係するかもしれないですが、マンガ研究の世界でファンダム研究というのはどうなっているのかなという疑問が浮かびました。

 SFファンダムだったら、日本SFを海外SFと完全に切り離して捉えるとか、日本SFは日本固有のものとかいう考え方は出てこないと思うし、SFでなくても大学に入ってオタク系の趣味のサークルに入ると洋書を読んでる先輩がいたりするものだけど、そもそも漫画の場合はファン文化が違うのかなぁ、と。

 それから、海外の漫画を読んでる人たちも少しはいたと思うんですが、実態はどうだったんでしょう。



【小学校教科書に見られる漫画論】


 東京書籍の小学五年生の国語の教科書に、国松俊英の「手塚治虫」という文章が載っているのを見つけました。手塚治虫こそが〈マンガ〉の起源であるという言説が社会に定着していることを示すいい例だと思うので、引用してみます。


>>治虫は、それまで日本になかった、ストーリーまんがの世界を切り開いた。そして、まんががすばらしい芸術であることを証明したのである。<<


>>しばらくして手塚治虫は、ベテランのまんが家、酒井七馬と二人でまんが本を作った。一九四七年(昭和二十三年)一月に刊行したまんが「新宝島」は、大ヒット作となった。この本がヒットしたのは、治虫が全く新しい手法でまんがをかいたからである。

>>それまでのまんがは、演劇の舞台のように固定された画面でかかれていた。同じ画面に、同じ大きさの人物が出てきて、せりふをしゃべるだけである。けれど治虫は、まんがにもっと動きをあたえ変化をつけようと、映画の手法であるクローズアップやロングショットを使った。

>>大切な場面になると、何コマも使って同じ人物をかいていき、顔の表情や動きをいきいきとえがき出した。画面を上から下からなど、いろんな角度から見てかく手法もとった。どれも、それまでになかったまんがのかき方だ。スピード感が出て、はく力があり、人物の心の動きまでが読む人に伝わってくる。治虫は小学生のころから、たくさんの映画を見てきた。そのことが役立った。<<


>>今、まんがやアニメーションは、日本のすぐれた文化として、世界でみとめられている。日本のまんがが世界に広がっていったのは、治虫のまんがへの情熱と大きな努力があったからである。<<


 〈ストーリーマンガ〉の起源、映画的手法、日本の国民文化としての〈マンガ〉というキーワードが綺麗に出揃ってます。これを小学生が学校で習っているわけですね。なお、国松俊英という人は児童向けのノンフィクションをたくさん書いている人で、特に漫画の専門家というわけではないようです。


 さらに他社の国語の教科書をいくつか見てみたら、どれも漫画関係の文章が採用されていました。


 学校図書の五年国語には、梯久美子「勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語」。光村図書の五年国語に、梯久美子「やなせたかし アンパンマンの勇気」。

 著者は同じで内容もかぶってますが、別の文章です。漫画表現がどうこうという記述はなくて、やなせたかしの人生と作品に流れるヒューマニズムが中心。まあ、漫画についての文章と言ったらこういうのが世間一般では普通ですよね。

(そういえば、やなせたかしも「漫画集団」の人だという話題が質疑応答のときに出ました。)


 教育出版の五年国語には、石田佐恵子「まんがの方法」。これはコマやふきだし、擬音、ナレーションなどの働きを説明した、いわば表現論ですね。手塚治虫『ジャングル大帝』、末次由紀『ちはやふる』、岡本螢[作]、刀根夕子[画]『おもいでぽろぽろ』、坂田靖子『チューくんとハイちゃん』、さくらももこ『ちびまる子ちゃん』、そして高橋陽一『キャプテン翼』のインドネシア版がそれぞれ1ページ引用されて、解説されています。

 石田佐恵子という人は社会学者で、ポピュラーカルチャー研究をしているようです。


 光村図書の六年国語には、高畑勲の「『鳥獣戯画』を読む」が載っています。『鳥獣戯画』の説明の中に、漫画やアニメへの言及が入ってきます。ちょっと引用してみましょう。


>>『鳥獣戯画』は「漫画の祖」とも言われている国宝の絵巻物だ。<<


>>『鳥獣戯画』は、漫画だけでなく、アニメの祖でもあるのだ。<<


>>そして、これらの絵巻物に始まり、江戸時代には、絵本(絵入り読み物)や写し絵(幻灯芝居)、昭和時代には、紙芝居、漫画やアニメーションが登場し、子どもだけでなく、大人もおおいに楽しませてきた。十二世紀から今日まで、言葉だけでなく絵の力を使って物語を語るものが、とぎれることなく続いているのは、日本文化の大きな特色なのだ。<<


 これはもう、日本の漫画・アニメの『鳥獣戯画』起源論ですね。高畑勲は『鳥獣戯画』などの絵巻物をそのまま現代の漫画やアニメにつなげるほど単純には考えていなかったようですが、小学生がこの文章を読んだらかなり単純に『鳥獣戯画』と現代の漫画・アニメを結びつけて理解しそうです。(他にも高畑勲の文章では『十二世紀のアニメーション』の最初の部分が中学生の教科書に載っていたはず。)


 思いもよらず、小学校の教科書に色んなタイプの漫画論(として読めるもの)が揃い踏みで、かなり楽しんでしまいました。でも、小学生は教科書を自分で選べないのがちょっと残念ですね。

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