恋する乙女は妖怪薬剤師!

もちお

第一章「始」

 私の家には不思議な箪笥たんすがある。

 それを薬箪笥だと知ったのは、たしか小学生ぐらいの時だ。


 いつからあったのか、誰が使っていたのかもわからないけど、それは代々家宝として伝わってきたらしい。


 私がまだ幼い頃、おばあちゃんに聞いたことがある。これは何のためにあるの? って。


 首をかしげる私に、おばあちゃんは優しい笑顔でこう答えた。

 これは、あやかしを守る為の大切な『薬箱』だと……。



「……と、ちょっと彩菜!」


 揺れる身体に、まどろむ意識。重い瞼をゆっくりと開けると、目の前には白衣を着た真美の姿。


「あれ……、真美、どしたの?」

「どしたの? じゃないって。こんな所で寝てたら風邪ひくよ」

 

 え? と彩菜は机からのっそり顔を上げて周りを見た。たくさんの薬剤が均一に並べられた棚。その棚と同じ色をした真っ白のリノリウムの床。見慣れたこの場所は、そうだ大学の研究室だ。


「もうすぐテストだからってこん詰めすぎなんじゃない?」



 心配そうに目を細めて覗き込んでくる真美に、彩菜は眠気も払いながら首を横に振った。


「いや、そうじゃないんだけど……。単純に休みの日は早起きが苦手というか……」

 

 あははと困ったように力なく笑う彩菜に、真美は「はあ」と小さくため息をついた。


「餌やり当番の仕事が終わったなら、早く帰って家で寝なさい」


 まるでお母さんのような口調で、真美が呆れた様子で言った。その後ろでは朝ごはんを食べて元気になったのか、ちゅっちゅとマウスたちが鳴いている。


「あれ? そういえば康平と優介は……」

「二人ならさっきバス停に向かって歩いてたよ」

「え! 私、置いていかれたの?」


 かばっと彩菜は勢いよく立ち上がると、机の上に置いてあった鞄に手を伸ばした。持ち主と同じように寝転がっていた茶色のショルダーバッグが、持ち上げられて元の形を取り戻す。


「ほれほれ、彼氏たちが待ってるぞ」という真美の冷やかしに、「だから違うって」といつもの突っ込みを返すと、彩菜は研究室のドアに向かった。

 

 部屋を出ると休日ということもあり、普段は生徒たちで賑わっている廊下は静かだった。窓の形に切り取られた四角い夏の日差しが、規則的に足元を照らしている。


その光に導かれるように廊下を走っていくと、今度は左手に現れた階段に身体の向きを変えた。彩菜の研究室は四階にあるので、階段で降りるのはわりと重労働だ。夏の暑さも合わさって、一階に着いた頃には早くも額に汗が滲んでいた。

 

 校舎を出て赤レンガの映える広場に出ると、気持ちが良いほどの青空が広がっていた。山の中腹に位置するこの大学では、広場から自分たちが暮らす町並みが一望できる。そしてその向こうには、最近パワースポットとして人気が出始めた下鴨山の姿も。


 四季折々で変化する景色の中で、この季節の風景が彩菜は一番好きだった。どこまでも吹き抜ける風を感じながら、遠くに浮かぶ入道雲を見ていると、普段自分が抱えている悩みなんてちっぽけなものに思えてくる。


「いけない! 急がなきゃ」

 

 思わず見とれてしまった風景を背に、今度はバス停に一番近い南出口まで再び走った。入れ違いに登校してきた生徒たちの間をすり抜けて校門を出ると、右手に伸びる塀づたいに目的地まで急ぐ。

 

 バス停が見えてくると、列を成して並ぶ人たちの中に、康平と優介の姿があった。向こうもこちらに気づいたみたいで、「来た来た」と言いながら康平が手を振っている。彩菜は小走りで駆け寄ると、列の間を「すいませんすいません」と頭を下げながら二人の後ろに並んだ。


「ちょっと、なんで私のこと置いていくのよ……起こしてよ」


 頬を膨らませながら彩菜は小声で康平に怒った。


「何度も起こしたって。『もう起きるからー』とか言いながらずっと寝てたのは彩菜の方だろ」


 康平は短い黒髪を右手で掻きながら呆れたように言った。


「はあ……私がなかなか起きないの知ってるでしょ。もう、優介も置いていくなんてひどいよ」


 大きくため息をつく彩菜に、優介はさらっと「ごめん」とだけ口を動かす。その言葉の軽さを伝えるかのように、彼の真っ白な髪がふわりと風になびいた。その隣では康平が面白そうに笑っている。


「それにあんなに気持ち良さそうに寝てたら、起こす方も気が引けるって」

「そんなに気持ち良さそうに寝てた?」 


「寝てた寝てた」といたずらな笑みを浮かべる康平に、彩菜が眉間に皺を寄せる。


「しかもよだれ垂らしながら」

「噓!」

「噓」

 

 顔を真っ赤にした彩菜は、「もう!」と言って康平の背中を叩いた。わざと痛がる康平を見て、今度は優介がくすっと笑う。


 私たち三人のやりとりは、ずっと昔からこんな感じだ。


 二人は幼なじみで、同じ薬科大学に通っている。

 

 康平の実家は町の診療所をやっていて、薬屋を営んでいる私の家とは昔から付き合いがある。そのつながりで、同い年に生まれた康平とは幼なじみというより、もう家族のような関係に近い。


 康平は私や優介と違って、いつも活発で元気が良い。たぶん家が診療所というのもあるのか、知らない人ともすぐに打ち解けられる性格は羨ましく思う。兄妹がいない私にとってはお兄ちゃんと言った感じで、昔は何かあるとすぐに頼っていた。まあ、今でもテストとか補習の時は頼っちゃうんだけど……。

 

 そんなわけで康平には、「世話のかかる妹がもう一人いる」っていつもからかわれる。


 彼の家は三人兄妹で、医者である六つ年上のお兄さんと、四つ年下の妹がいる。お兄さんが診療所を継ぐそうで、自分も何か家族の力になりたいと思った康平は薬剤師になることを決めたのだ。

 

 そしてもう一人の幼なじみが優介。

 

 優介は口数が少なくて常にクール。だけど、決して冷たいってわけじゃない。むしろ人の気持ちにはすごく敏感で、いつも私や康平のことをさりげなくフォローしてくれる優しい人だ。


 彼は見た目が少し変わっていて、生まれつき髪が白く、瞳がわずかに青い。きりっとした切れ目と、すっと通った鼻筋も含めて、パッと見れば日本人っぽくはない。


 髪が白いのは特に病気というわけではなく、遺伝か何かの影響らしいのだけど、詳しいことはわからないという。

 

 ちなみに……本人には伝えたことはないけれど、実は優介は私の初恋の人だ。そして今でも好きなのは好きなんだけど……。

 

 康平とのやり取りでムキになる彩菜を見て、優介がその瞳を和らげて静かに口を開く。


「やっぱり彩菜は俺たちの妹みたいな存在だな」

 

 その言葉を聞いた彩菜は、今度は頭を項垂れため息をついた。

 そう。私の恋は前途多難なのだ。



「彩菜は今日帰ってからずっと勉強するのか?」

 

 見慣れた景色が窓の外に流れるバスの車内で、康平の声が耳に届いた。


「うん。そのつもりだよ。康平は?」

 

 勉強、試験といった言葉に怯える自分とは違って、康平と優介はかなり頭が良い。優介に関しては、たまに試験でトップを取ることもあるぐらいだ。


「俺は妹の見舞いに行って……まあ、勉強の方はぼちぼちだな」

「ってことは優介も柚葉ちゃんのお見舞いに行くの?」


「ああ」と返事をする優介に,康平が大きくため息をついて肩を落とす。


「テスト前だからいいって言ってるのに、聞かないんだよコイツ」

 

 まるで康平の言葉が聞こえないかのように、優介は黙ったまま窓の外を眺めている。その様子を見て彩菜がふふっと笑う。


「優介ってけっこう頑固なところあるもんね。さすがの康平でもダメなんだ」

「はあ……別に優介が責任を感じることないって昔から言ってるのに。むしろ妹も感謝してるぐらいだって」

 

 康平の言葉に、日差しに照らされている優介の表情が一瞬曇った。それはすぐに光の中に溶けて消えたが、「別にそんなのじゃない」という彼の言葉に影が潜んでいることに彩菜は気付いてちくりと胸が痛くなった。

 

 その後はいつものようにたわいない会話を続けている間に、バスはそれぞれの目的地へと向かって走った。病院は終点手前の駅なので、彩菜は途中で二人と別れた。バスを降りると歓迎してくれるかのように、しゃわしゃわの蝉の鳴き声が出迎えてくれた。

 

 山手のほうに向かってなだらかな坂を上がっていくと、我が家の目印である薬局が見えてくる。最近リフォームしたばかりの建物は青空の下で見ると、さらにその白さが目立っていた。


 私の家は代々薬屋をやっている。


 今は町の小さな薬局と言った感じだけれども、ご先祖様の頃はかなり栄えていたそうだ。その名残なのか家には色んな骨董品が残っているし、近代的な小さな薬局の後ろには、ミスマッチなほど大きな昔ながらの日本家屋が広がっている。


初めて訪れる友達には必ず、「え? 地主さんなの?」と驚かれるが、その辺りのことはよく知らない。でもここ以外にも土地を持っているという話は、昔おじいちゃんから聞いたことがある。


「昔の薬剤師さんはそんなに活躍してたのかな……」


 新しく生まれ変わった小さな薬局を見て、彩菜はぼそりと呟いた。

 

 店で働いている父に顔を見せると、彩菜はそのまま玄関まで向かった。


「ただいまー」

「お! 彩菜ちゃん。今日も綺麗だね!」

 

 玄関の扉を開けると、陽気な和久おじさんの声が飛んできた。黒いTシャツ姿に、いつもの紺色の前掛け。誰が見ても酒屋さんとわかるトレードマークだ。


「あれ、おじさん来てたんだ。今日は空ビンの回収?」


「そうそう」と言いながらにまーっと笑うおじさんの片手には、まだ封の空いていない一升瓶。どうやらお父さんがまたこっそりと頼んでいたようだ。「もう」と彩菜が頬を膨らませると、わははとおじさんが豪快に笑った。

 

 和久おじさんはお父さんの弟で酒屋さんをやっている。大きな声で笑う陽気なところは似ていないけど、笑った時の目尻の皺なんかは兄弟だなって実の娘の私も思う。


「おかえり。今日は早いんやね」


 青藍色の着物姿のおあばちゃんが、おじさんの背中越しからひょこっと顔を出した。


 うちのおばあちゃんは今年で八十歳。少ししわがれた声には人生の貫禄が帯びているけど、ぴんとまっすぐに伸びた背中に、時折見せる力強い眼差しにはまだまだ若さを感じさせられる。もしも選ぶことができるなら、自分もおばあちゃんのように年老いたいと思う。


「うん。今日は餌やり当番だけだったから」

 

 そう言って彩菜はスニーカーの靴ひもを解くと玄関へと上がった。


「彩菜や、帰ってきたところですまんが、蔵から空になった酒瓶を持ってきてくれんか」

 

 祖母の頼みに、彩菜は「え」と一瞬困ったような表情を浮かべた。


「あー…………うん。わかった」

 

 ため息を隠すように、彩菜は鞄を置くと同時に肩を落とした。

 

 蔵か……。

 

 同じ家の中にあるとは言え、そこは彩菜にとってあまり近づきたくない場所だった。

 

 昔ながらの我が家には、庭の隅に大きな蔵がある。近所の子供達から見ると「宝探しがしたい!」と目を輝かせる風貌をしているようなのだが、私からすればまったくそんな場所には見えない。

 

 幽霊、妖怪、未確認生物……。怖いものが大の苦手な自分にとって、あの蔵も一種のホラースポットだ。それに、うちの蔵は中にあるのもがちょっと変わっているので余計に怖い。


「ありがとねえ」と目尻に皺を寄せて微笑むおばあちゃんの顔を見てしまうと、そんな恐怖心を言葉にすることはできず、彩菜もぎこちなく微笑み返した。


 これはもう……行くしかない。



「あー……やだな」

 

 歳月を感じさせる扉を前にして、彩菜はその扉を飲み込むぐらいの大きなため息をついた。おばあちゃんのあの笑顔には弱くてついついここまで来てしまったけれど、出来る事なら入りたくはない。


 そんな思いで蔵を見上げると、自分の気持ちとは反対に穏やかな青空が広がっている。

 

 この蔵の歴史はかなり古く、ほんとかどうかわからないけど、江戸時代末期に建てられたらしい。まあそう言われても、納得するぐらいの佇まいはしているけど。

 

 彩菜はスライド式の鍵を外すと、ゆっくりと扉を押し開けた。ぎぎぎときしむその音に、早くも心臓の鼓動が飛び跳ねだす。


 蔵の中にわずかに差し込んだ光が、暗闇で息を潜めていた木箱たちの姿をちらりと見せる。


彩菜は手のひらにぐっと力を入れて扉を全開に開けると、蔵の中が明るさに満たされている隙に、入り口近くにあるスイッチを押した。太陽光とは違う白熱球のオレンジ色の光が、等間隔に天井から降り注ぐ。


今でこそ電気が通っているが、この蔵を建てた当時はどうやって物を取り出していたんだろう。天井から頼りなくぶら下がっている裸電球を見ながら、彩菜はそんなことを思った。


「違う違う。早く空ビン持って行かないと」


 込み上げてくる恐怖心を誤魔化すように独り言を呟くと、彩菜はきょろきょろと辺りを見渡した。


 大小並ぶ様々な木箱。壷やお皿に掛け軸。いかにも蔵に置いてそうなものもあれば、地球儀や招き猫といった頭に「?」が浮かぶようなものまでたくさん置いてある。この蔵に置いてあるものは、ほとんどすべてが代々伝わってきたものだ。鑑定に出したことはないけれど、おそらく良い値が付く物もたくさんあるのだろう。


 そんな貴重かもしれない物たちの間をすり抜けながら進んでいくと、ぴたっと彩菜の足が止まった。それは足元にある白い布がかけられた大きな木箱が原因ではなく、目の前にある異様な光景のせいだった。


 そこには、彩菜が蔵に来たくない最大の理由が広がっていた。

 

 三メートルはゆうに越える高さと、大きな蔵の壁の端から端までを覆い隠す横幅。方眼紙のように並ぶマス目には目玉のような取っ手。我が家に伝わる一番の秘宝は、まさに怪物と言っても過言ではないだろう。


――薬箪笥くすりたんす――


 又の名を「百味箪笥」や「百目箪笥」とも呼ばれているこの箪笥は、昔の医者や薬屋が薬剤を入れるために使っていたものだ。


どこにどんな薬が入っているのかわかるように、本来引き出し一つひとつには薬の名前が付いている。今ではあまり見なくなった薬箪笥だが、アンティークとして販売されていたり、ネットで画像を見ることもできる。


が……。我が家にある薬箪笥はおかしい。


薬を入れるにしては大き過ぎるし、引き出しに書かれている文字も達筆すぎてまったく読めない。それに、何より一番変なのが……


「なんでお札なんて貼ってんだか……」


 まるで悪いものでも閉じ込めておくかのように、いくつかの引き出しには年季の入った不気味なお札が貼られている。姿形が異様な薬箪笥なのに、お札なんて貼られてしまうともうお手上げだ。しかもこのお札、私が小さかった頃にはほとんど全ての引き出しに貼られていたはずが、今じゃあ半分ほどしか残っていない。


「……またお札が減ってるような気がする」


 気のせいか、最後に蔵に入った時と比べると薄気味悪いお札の数が減っているような気がした。剥がれて落ちたのかと薬箪笥の足元に目を向けるも、そんな痕跡はない。だいたい、こんな恐ろしい姿を見て、誰が好き好んでお札を剥がそうなんて思うのか。


 そんなことを考えるだけでも寒気がして、彩菜はぶるっと肩を震わせた。見れば見るほど引き出しから何かが飛び出してきそうな気がして、無意識に自分の体を守るように腕を回す。そしてその場を立ち去ろうとした時、からんと後ろの方から音が聞こえた。


「ぎゃ!」


  誰もいないこともあり彩菜は思わず変な声で叫ぶと、慌てて後ろを振り返った。


「なんだ春月か……おどかさないでよ」


 彩菜の視線の先、扉の足元には黒猫の姿があった。たぶん私が倉に入る時に、一緒についてきたのだろう。春月の隣には、さっきの音の正体だったお酒の空ビンが転がっている。


「そんなところにあったのか……」


 わざわざ怖い思いをしてまで薬箪笥のところまでやってきたのに、目的のものは扉のすぐ近くでずっと私を待っていたようだ。


 そんな私を見て、「なーん」と春月が得意げに鳴く。


「えらいぞ、春月。私のために見つけてくれたんだよね」


 よしよしと頭を撫でると、手のひらに春月の艶やかな毛並みの感触が伝わってくる。


 春月は今年で六歳になる大切な家族。まだ子猫だった時に、この蔵の前で怪我をして倒れているのをおばあちゃんが見つけたのだ。


よほどおばあちゃんの育て方が良いのか、春月は頭も良くて、毛並みもすごく綺麗。ただやっぱり猫なので、気まぐれでたまに居なくなるのは困ったところなんだけど。


「酒瓶も見つかったし、早くこんなところ出よっか」


 春月にそう呟くと、彩菜は倒れた酒瓶を手に持って扉を開けて外に出た。不思議なもので、むっとした外気に触れてやっと暑さを思い出すほど蔵の中は夏でも涼しい。


ここがもしおどろおどろしい蔵ではなく明るく綺麗な家のリビングなら、どれほど快適に夏を過ごせただろうか。背中にじんわりと汗を感じながら、彩菜はそんなことを思った。



「ははは! 寝過ぎて置いていかれるなんて彩菜ちゃんらしいな」


 豪快すぎる笑い声が、夕飯の食卓に響いた。


「もう……和久おじさん、笑い過ぎたから」


  彩菜は声を低くめて怒っていることをアピールするも、目の前で瓶ビール片手に愉快そうにしている和久おじさんの耳には届かないらしい。


「しっかし、康平も優介もひどい奴らだなー! 彩菜ちゃんを置いていくなんて。今度会った時は、日本酒の一気飲みで懲らしめてやる!」

「いやあの……、二人ともまだ未成年だから」


「男はそんなもん関係ねえ!」とげらげらと声を上げる和久を見て、これはいつものペースだと、彩菜は口を挟むことを諦めた。


「そういえば彩菜や、春月の晩御飯はもうあげてくれたんかね?」


 静かに晩御飯を食べていたおばあちゃんが、テーブルの足元に置いてある空っぽの餌皿を見て言った。


「うん、さっきあげたよ。もう食べ終わって、今は散歩中じゃないかな」


「そうかい。ありがとね」と微笑むおばあちゃんの目の前では、相変わらずのテンションで和久おじさんがお父さんに話しかけている。弟の扱いに慣れた父親は新聞を読みながらただうなづいているだけで、ほとんどおじさんの話しは聞いていない。


「そうだ彩菜ちゃん! じつは今日、面白い話しを聞いたんだよ」

「面白い話し?」

「そ、面白いお話し」


 にやっと白い歯を見せていたずらな笑みを浮かべるおじさんに、彩菜の心に悪い予感が走った。


「俺も最初聞いた時は信じられなかったんだけど、これがまた不思議な話しでさ……」


  いきなり声のトーンを三つぐらい落としたおじさんは、急に真剣な表情を作る。


「それ……ぜったい怖いやつだよね?」


 お箸でご飯を口に運びかけていた彩菜の手が止まり、その目は酔っ払いの顔を凝視している。そんな彩菜の姿を見て、和久は「いやいやいや」と大げさすぎる動きで右手を振った。


「いやー、怖くない怖くない。ただの噂かもしれないし、そう噂だよ」

 

 はははと陽気に笑う和久を見て、彩菜の表情がますます曇った。この人は、意地悪をしてくる前はだいたいこんなリアクションだ。「実はね」と、再び深刻そうな表情に切り替えた和久を見て、彩菜は自分の予感が正しいことを確信した。


「今朝、病院の看護師さんに聞いた話しなんだけど……。最近、奇妙な患者が運ばれてきたって話しててね」

「……奇妙な患者?」


 和久の言葉に彩菜の眉毛がぴくっと動く。この話の切り出し方を考えても、ここから楽しい展開が待っているわけなんてない。そうとわかっていながら、中途半端に興味を持ってしまうのも私の悪い癖だ。


「そうなんだよ。一昨日の雨の日に、急病である女の人が病院に運ばれたらしいんだけど、これがまた奇怪でさ」

「…………」

 

 ダメだダメだダメだ。やっぱり聞いちゃいけないやつだ。

 

 彩菜はほとんど硬直状態のまま、じっと和久の顔を見ていた。ほんとは今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られながらも、口と身体がなかなか言う事を聞いてくれない。


「身体が異常に熱くて本人は苦しんでるのに、医者も看護師も原因がわからなくてさ。そのうち皮膚なんかも爛れ出して、しまいには右腕の一部に……」

 

 がしゃん、と勢いよく彩菜は持っていた茶碗とお箸をテーブルに置くと、わずかに震える唇で言葉を絞り出した。


「あ……あたし、そういえば明日のテスト勉強しないと……。か、和久おじさん、ごめんだけど、その話しはまた今度で……」

 

 逃げる言い訳がばればれだったのか、目の前でおじさんは声を殺して笑っている。


「和久、もうそれ以上彩菜を怖がらすな」

 

 呆れたお父さんがやっと言葉を挟んだ。って、もっと早く言ってよ!

 

 彩菜は心の中でそう叫ぶと、「ご馳走さま!」と捨て台詞のように言い残して急いで部屋を出た。


「もー、和久おじさんのバカ! 何であんな話しするのよ」


 自分の部屋へと向かって二階への階段を上がる途中、やっと言いたかった不満が言えた。もちろんその言葉は本人に届くことはなく、受け手がいないまま階段の下へと転がっていく。どたどたと聞こえる足音だけが、自分に話しかけているみたいに耳の中に響いた。


 部屋の襖を開けると、急いで電気のコードを引っ張る。暗闇を散らし、六畳一間を隅々まで照らす光が、心にわずかな安心感も灯らせてくれた。


 今度はねとっとした熱気を追い出そうと、彩菜は勉強机の横にある窓を勢いよく開ける。外からは夏の夜風と一緒に、気の早い秋の虫たちの鳴き声が流れてくる。


「はあ……」と虫たちの合唱に合わせるかのように、彩菜は窓の外に向かってため息をついた。


 大人になれば怖がりな性格は治ると思っていた。でも、未だにその気配は見せない。


 そんなことを考えながら夜に染まった町の景色を見ていると、山のふもとに例の病院の姿が映った。暗闇の中でぼんやりと浮かぶ病院の姿に、頭の中では勝手に和久おじさんの話しがリピート再生されている。


 それを振り払うかのように彩菜は大きく首を振ると、「さ、勉強しよう!」とわざとらしく呟いて、勉強机へと向かった。

 


 

 時計の音がいつもよりうるさい。窓の外の風が何だか強い気がする。

 

 和久おじさんのせいだ……。あんな話しを聞いたせいで、まったく眠れない。

 

 彩菜は恐怖を断ち切って睡魔を誘い込もうと、ぎゅっと目を瞑った。しかし,出てくるのは眠気ではなく、食卓で話していた和久おじさんの顔ばかり。酔っ払っていたくせに、あんな話しをする時だけは深刻そうな表情をするのがズルい。


 彩菜は身を守るように目元あたりまで布団をかぶった。せめてもの抵抗で、普段は暗くして寝るところを豆電球だけ残した。が、心もとない光が部屋の中に色んな影を作り出して、逆に恐怖を大きくする。


「逆効果だったか……」


 彩菜は「はあ」とため息をついてベッドからそっと立ち上がると、部屋の中に生き残っていた光を消した。辺りが真っ暗になった瞬間、まるで自分が生み出した恐怖心の世界に閉じ込められたような気がして寒気が走る。


 身体が覚えている歩幅で急いでベッドに潜り込もうとすると、ぶーという音ともに机の上に置いていたスマホが光った。


「きゃっ!」


 驚いた彩菜は、暗闇でぼんやりと光るスマホを慌てて覗き込んだ。


画面に表示された優介の名前に、きちきちまで膨れ上がっていた恐怖心が、今度は嬉しさによってぷすっと穴が開く。


 指先をスライドさせて届いたばかりのメッセージを開けると、そこには短文で『明日のサプライズプレゼントよろしく』の一言。

 

 明日は康平の妹の柚葉ちゃんの誕生日で、以前から優介と一緒にサプライズでプレゼントを渡そうと話していたのだ。そしてつい先日決まったばかりのプレゼントは、私の机の中で明日の晴れ舞台を待ち構えている。


 彩菜は「はあ」とため息をつくと「了解! 任せて」というメッセージの後に、可愛いパンダが親指を立てているスタンプも一緒に送った。


 優介からメッセージが来るのは素直に嬉しい。ただ、彼がメッセージを送ってくれるのは、何か用事がある時だけ。もちろん優介らしいと言えばそうなんだけど、自分としてはやっぱりもうちょっと連絡を取りたい。まあ、そんなことを言える立場じゃないのだけれど……。


 彩菜はどさっと再びベッドに横になると、スマホを胸に仰向けになった。


 友達同士の関係から恋愛対象に格上げされるのはけっこう難しいと、今まで散々聞かされてきた。ましてそれが幼なじみともなれば、かなりのグレーゾーンに違いない。


 彩菜は再び大きくため息をついて目を閉じた。そうこうしている間に、優介に彼女が出来てしまったら、私はその時いつも通りでいられるのだろうか。


 今のところ優介に彼女ができた話しは聞いたことがない。が、彼はモテる。


端正な顔立ちと日本人っぽくない容姿で女子ウケが良いのだ。彩菜自身も過去に何度か優介と知らない女の子が一緒にいる場面を目撃して、ひやっとした思いを経験している。


 それと優介には独特な雰囲気があり、そんなミステリアスな部分もきっと女子には人気があるのだろう。幼なじみの自分でさえ、たまに優介が何を考えているのかわからない時がある。


「そう言えば……」


 優介のことを考えていると、久しぶりに蔵に入ったせいもあるのか、この前彼がふと口にしたことを彩菜は思い出した。それは薬学の歴史についての授業終わり、隣で一緒に講義を受けていた優介が言った言葉。


――あの蔵には、まだ薬箪笥があるの?――



 その言葉を聞いた私は、少し驚いた口調で思わず「え?」と聞き返してしまった。まさか優介の口から、あの薬箪笥の事を聞くとは思わなかったからだ。


 あの蔵は、基本的に家族の人間しか入ることができない。


 それに気になったのが、優介が蔵に入った時、その場に私も一緒にいたと言うのだ。でも自分にはそんな記憶が一切なかった。


 幼なじみの優介や康平なら一緒に入ったことがあるのかもしれないけれど、自分は小学生のしばらくの間、あの蔵に入る事をおばあちゃんから固く禁じられていた時期がある。


再び蔵に入れるようになったのは中学生になってからなので、いくら物忘れが激しい自分でも、さすがにその頃の思い出ならちゃんと覚えているはずだ。それにあの時の優介の話し方はどことなく様子がおかしかった。


「そんな事あったっけ?」と聞き返した私に、「覚えていないなら別にいい」と言葉を濁してすぐに会話を終わらせたのだ。


「んー……どういうことなんだろう」


 様々な疑問が糸のように絡まり合い、団子になって頭の中を転がっていく。その糸の先っぽを掴み、記憶のかたまりを本来の形に戻そうとすると、胸の奥で何かが疼いた。それは一瞬輪郭を現したものの、すぐさまバラバラになって心の海の底へと消えていく。


 私は何か大切なことを忘れている。


 不意に訪れた静寂に、そんな奇妙な感覚だけが残った。


 彩菜はもう一度その正体を確かめようと、暗闇の中でじっと目を凝らそうとした。が、徐々に重たくなっていく瞼に逆らうことができずに目を閉じてしまう。


 まるで夜が明ける前に飛び立ってしまった蝶のように、彼女の意識は深い夢の世界へと消えていった。


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