第九章「想」
「どうした彩菜、もう食べないのか?」
晩御飯のおかずが半分ほど残ったお皿を見て、目の前に座っている父が言ってきた。それを聞いた彩菜が、「うん」と小さく頷く。優介のこと、そして空き地で聞こえた声のことが気になって、それ以外のものが喉に通らなかった。
「彩菜や、具合でも悪いのかい?」
隣で心配そうに自分のことを見つめる祖母を見て、「ううん、大丈夫。ちょっと食欲がないだけだから」と彼女は力なく笑って答える。そして、今日は早めに休むからと言って立ち上がると、部屋を出て真っ直ぐに自室へと向かった。
「なんか最近変なことばっかりだ……」
自分の部屋の窓から外を眺めていた彩菜がぼそりと呟いた。薄いガラスの遥か向こうでは、月がぼんやりと浮かんでいる。少し欠けたその月を見ながら、彩菜は小さく息を吐いた。
蔵では変な体験をするし、空き地でも変な声を聞いちゃうし……今度、お祓いでもいこうかな。
はあと再び大きなため息をついた彼女は、少し気持ちを切り替えようと窓を開けた。草の匂いを含んだ夜風が鼻先をかすめ、そっと部屋の中へと流れ込む。彩菜は窓から顔を出すと、あの歌を口ずさんだ。
「ひとつかぞえて月の唄、ふたつかぞえて……」
こんな時、もしお母さんがいたら何て言ってくれたんだろう。
母との思い出はそう多くはない。それでも、自分にとってお母さんという存在が特別だったことは、今でもはっきりと覚えている。たぶん母がいたら、優介のことも、奇妙な体験のことも、きっと全部話していたのだろう。
月の光を運ぶようにゆっくりと流れる雲を見ながら、彩菜はそんなことを考えていた。そして、そろそろ窓を閉めようかと思って庭の方を見た時、ふと蔵へと近づく黒い影が目に入る。
反射的にカーテンに隠れた彼女は、恐る恐るその隙間からもう一度庭の方を覗いた。そしてその影の正体に気づき、「げっ」と声をあげる。
「春月だ」
彩菜の視線の先には、蔵へと歩いていく春月の姿があった。
「もう! どこにも行くなって言ったばかりなのに……」
猫は気まぐれとは言うが、うちの春月は特にそうだ。彩菜は大きく息を吐き出すと、ガクンと頭を下げた。そんな彼女の様子など一切知らない黒猫は、歩みを止めることなく蔵へと向かう。
「どうしよう……」
先日の一件もあるので、彩菜は春月を連れ戻そうかどうか悩んだ。それに何故だか、今日は春月だけであの蔵へと行かせるのは危険なような気もした。彼女は、「ああもう!」と頭をかきむしると、スマホを持って部屋を出る。
最悪だ……。本当に、最悪だ……。
まるで呪文を唱えるように心の中でそんなことを呟きながら、彩菜は一階に降りるとスリッパを履いて庭へと出た。
御守りのように強く握りしめたスマホのライトで足元を照らすと、顔を上げて蔵の方を見る。昼間でも不気味な雰囲気を漂わす蔵は、今は最高潮に恐ろしい姿をしていた。
小刻みに震えるライトで地面を照らしながら、彩菜はゴクリと唾を飲み込むとゆっくりと歩き出す。もう一度チラッと蔵の方を見ると、どうやら春月は中に入りたいのか、扉の前で立ち止まってる。
今のうちに春月を連れ戻そう……。
彩菜は一歩ずつ慎重に歩きながら蔵へと近づいていく。その間も春月は、蔵の前から動こうとはせずじっとしていた。
「お願いだからどこへも行かないでよ」
小声でそう呟く彩菜の前に、不気味さを増した蔵の姿が近づいてくる。それと同時に、必死で抑えている恐怖心が爆発しそうなぐらい心臓が激しく脈を打つ。
早く……早く自分の部屋に戻りたい。そんなことを切に願いながら、彩菜は何とか蔵の入り口までたどり着ついた。
「こら春月! 勝手にどこか行ったらダメだって言ったばかりでしょ」
気まぐれな飼い猫は、ご主人の言葉は気にせず、前足で蔵の扉を掻いている。もう、と彩菜はため息をつくと、春月を後ろからそっと抱きかかえようとしゃがみ込んだ。
ごとり。
「…………え?」
突然蔵の中から音が聞こえて、伸ばした腕が思わず止まった。固まる彩菜に、昼間の暑さとは異なる汗が背中にじわりと滲み出る。
「何……今の音?」
爆発寸前の恐怖心をごまかす為、彩菜は春月に向かって話しかけた。もちろん彼女は「なーん」と鳴くだけで、彩菜の疑問には答えてくれない。
もしかして、泥棒……とか?
正体不明の相手に、彩菜はどうすることもできずその場に立ち尽くす。
これは中には入って確かめるべきか、それともお父さんたちを呼びに戻ったほうが良いのか……。
頭の中ではあれやこれやと考えるが、身体の方はまったく動かない。静かになった蔵が、そんな彼女の恐怖を余計に大きくする。
もし本当に泥棒なら、今のうちに何とかしないと間に合わなくなってしまうのでは……。
「こんなところで何しとるんじゃ」
「うひゃ!」
背後から突然声が聞こえて、彩菜は驚いて飛び跳ねた。それに驚いた春月が彼女の足元からさっと逃げる。全身から冷や汗が吹き出る彩菜は、振り返って祖母の姿を見ると、安堵するかのようにため息をついた。
「もうおばあちゃん、驚かさないでよ……」
「驚いたのはこっちじゃ。蔵に誰か忍び込もうとしとるのかと思ったよ」
そう言って笑う祖母を見て、「だって春月が……」と話しかけた彩菜は先ほど聞いた音のことを思い出す。
「そうだおばあちゃん! さっき蔵の中から変な音が聞こえたんだけど……」
「変な音?」
うんうんと恐怖を顔にへばりつかせて彩菜は何度も頷く。祖母はそんな孫を見て、不思議そうに首を傾げた。
「おかしいの。鍵はしっかりとかかっとるんじゃが」
ガシャン、と祖母が扉を開けようとすると音が鳴った。確かに鍵は掛かっているようだ。
「で、でもほんとに変な音がしたの! なんかこう、物が落ちるような……」
怯えっぱなしの孫の姿に、祖母は「ふむ……」と眉間に皺を寄せる。
「中に入って調べるかの」
「え?」
肩を震える彩菜をよそに、祖母は扉の鍵を手際よく外した。そして蔵の扉を開こうとしたので、彩菜も仕方なく手伝う。
こんな夜更けに蔵の中に入るなんて、非常事態だ……。
ぎぎぎと軋むその音は、昼間とは比べものにならないほどの恐ろしさを持っていた。ゆっくりと口を開いた蔵の中は、正真正銘の暗闇と化していた。
わずかに流れてくる冷たい空気に、彩菜は「ひ!」と声を発する。そんな彼女とは対照的に、祖母はいつも通りの態度で中へと足を踏み入れる。物怖じしないその姿に、本当に自分にも同じ血が流れているのかと疑問に思ってしまう。
祖母が電気をつけると、暗闇はやっと影を潜めて、本来の明るさを取り戻した。彩菜は小さく息を吸い込むと、ゆっくりと足を踏み入れる。その隙を見計らって、春月がそんな彼女の足元から蔵の中へと入り込んだ。「こら!」という彩菜の声など気にせず、春月はすっと奥へと姿を消してしまった。
「ほんとにあの子は……」
ため息を漏らす彩菜の隣で、祖母が愉快そうに笑っている。
「誰もいてないようだし、春月も大丈夫じゃろ」
もし泥棒が潜んでいたらどうしよう、という彩菜の不安を察したかのように祖母が言った。彩菜は「うーん……」と眉をひそめる。
確かに音が聞こえたんだけどな……。
彼女はそのまま自分より一回りほど小さい祖母の後ろにぴったりと張り付いて、蔵の奥へと進んで行く。積み上げられた木箱や骨董品たちは、先日見た時と何も変わりはなかった。
「私の気のせいだったのかな……」
祖母の肩を両手で掴みながら歩いていく彩菜がぼそっと呟く。
「ネズミかもしれんの」
「えっ、この蔵ってネズミもいるの?」
明らかに嫌そうな顔をする孫に、祖母は「そりゃいるじゃろう」と笑って答える。はっきり言って、お化けも嫌だけどネズミも嫌だ……。
そんなことを思った彩菜は、今度は注意深く足元も見ながら進んでいく。
結局、蔵の奥にある薬箪笥に辿り着く間、泥棒もいなければネズミにも出くわさなかった。それに対して彩菜は安心するものの、余計にあの時聞こえた音のことが気になっていた。先に蔵の奥へと辿り着いていた春月は、薬箪笥の下で引き出しを引っ掻いている。
「こら春月! そんなことしたらダメだって」
そう言って彩菜は春月を抱きかかえる。いくら不気味だとはいえ、我が家に伝わる家宝を傷つけるわけにはいかない。春月を胸に抱いた彩菜は、薬箪笥を見上げた。相変わらず、それは薄気味悪い表情をしたまま、静かに自分のことを見下ろしている。彩菜はゴクリと喉を動かすと、祖母の方を見た。
「ねえおばあちゃん、その……」
彼女は慎重に言葉を選びながら、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「これって……あやかしを守るためにあるって本当なの?」
彩菜の唐突な質問に祖母は少し目を丸くすると、すぐに微笑んだ。
「そうじゃよ」
「え?」
あまりにも平然と答える祖母に、今度は彩菜が目を丸くした。あやかしを守るって……ほんとだったの?
驚きを隠せない彩菜を見て祖母はくつくつと笑う。
「そうわたしも祖母からずっと聞いてきた。これはあやかしを守るためにあるのじゃと」
「ってことは……おばあちゃんの、おばあちゃんから聞いたってこと?」
随分と遠いご先祖様に、彩菜はうーんと難しそうな表情を浮かべる。
「そういうことになるの。わたしも小さな頃に、よくこの薬箪笥のことについて聞かされたよ」
遥か昔のことを思い出しているのか、隣にいる祖母は柔らかく目を細めて話しを続ける。
「まだ薬も医者も今のように無かった頃、病の原因はあやかしやもののけが悪さをするせいじゃと言われとった。目に見えないあやかしたちが人の心に入り込んで、病気を起こすとな。だから人々はそんな存在を悪として、誰かが病気になるとお祓いやお供え物をしたそうじゃ」
祖母はそう言って目を瞑ると、小さく息を吸った。
「じゃが、この薬箪笥を作ったご先祖様はそうとは考えなかった」
「え?」
「人間も動物も、そして植物も。生きとし生けるものがみな病に冒されると言うのなら、きっとあやかし達も病に冒されることがあるに違いないと。恐るのではなく、そんなあやかし達も救うことで、自分たち人間の病も治るのではないかと考えたのじゃ」
祖母は一呼吸置くと、再び薬箪笥を見上げた。それにつられて彩菜も上を向く。
「まだ争いや戦も多かった時代じゃ。病や怪我で苦しむ人はたくさんおった。ご先祖様はそんな中で、多くの人々を救おうと薬屋を始めた。たゆまぬ努力と、その才能が故に瞬く間に有名となり、その名は時の将軍や宮中にまで届いていたという。そしてまたご先祖様は、人間のみならず、あやかし達も救っていたと伝えられておる」
「あやかしって……妖怪も?」
彩菜は驚いた様子で祖母を見た。
「そうじゃな。わたしも祖母からそう聞いておる。ご先祖様たちは代々不思議な力が使えたらしい。その力で、人々や妖怪たちを救い、そして今日までその歴史を紡いできた……」
孫の顔を見た祖母はいつもの優しい顔で微笑む。
「彩菜や、この薬箪笥の引き出しがいくつあるのか知っておるか?」
「え?」
彩菜は慌てて薬箪笥の方を見た。今まで引き出しの数なんて気にしたことがないし、そんなことを考えるほど直視する余裕などなかった。
「道端家に伝わる薬箪笥の引き出しの数は一〇八個……」
彩菜が計算する間も無く祖母が答える。そんなにあるのかと、彼女は改めて目の前の薬箪笥の大きさを実感した。
「その一つひとつにご先祖様たちが治めてきた大切な薬が眠っていると言われている。ほれ、あの一番上の真ん中のところを見てごらん」
祖母の指差す場所を見ると、他のものより一際大きい引き出しがある。それはちょうど引き出し三つ分の長さがあった。そして、その引き出しにもいくつかの御札が貼られている。
「あの引き出しには、この薬箪笥を作った薬宝寺様が最も大切にされていた薬が入っておる」
「薬宝寺……様」
祖母の言葉を聞いて、やっと彩菜はその名前が、遥か昔に活躍していたご先祖様の名前だったことを思い出した。
「恐るのではなく、救うため。病で苦しむ者たちすべてを救おうとして、薬宝寺様はこの薬箪笥を作ったのじゃ」
祖母の話しは、まるで古から伝わる伝説を聞いているような気分だった。そんな彼女の心境を察したように、「それに……」と祖母は再び口を開く。
「この薬箪笥は、大切な人を守るために作られたとも伝えられておる」
「大切な人?」
「そうじゃ。自分にとって大事な人、助けたい人、守りたい人。そして……愛した人を」
愛した人。今まで恐怖の対象でしかなかった薬箪笥からは想像もできない話しに、彩菜はうーんと唸った。
今となっては蔵の中でひっそりと眠る家宝は、かつてこの国で多くの人々や妖怪たちを助けていた。そんなはるか昔のご先祖様たちに想いを馳せると、その時の情景が浮かんできそうだ。
彩菜は目の前の薬箪笥をじっくりと見た。積み上げられてきた歴史が、傷や汚れとなって今も残っている。彼女はふと顔を上げると、気になっていたことを祖母に聞いた。
「そういえば、この薬箪笥にはどうしてこんなに御札が貼ってるの?」
彩菜の言葉を聞いた祖母は、「ん?」ときょとんとした顔をしたかと思うと、今度はイタズラに不気味な笑みを浮かべる。
「聞きたいか?」
その表情に彩菜は「うっ」と喉を詰まらせると、「……やめときます」と苦笑いで答える。
それでも、今まで恐怖でしなかった薬箪笥が、自分の中で少し変わったのは確かだった。大勢の人たちを救い、大切な人を守るために受け継がれてきたこの家宝に、彼女はわずかに誇らしい気持ちを感じる。
「何もないようだし、そろそろ出ようかの」という祖母の言葉に、彩菜は「うん」とうなづくと、腕に抱いている春月を見た。まだ遊び足りないのか、少し反抗的な態度で「なーん」と鳴く春月に、彼女は目を細める。
「ほんとにあんたは気まぐれなんだから……」
彩菜が出口へと歩き出そうとした時、隣にいた祖母が「はて……」と不思議そうに呟いて、そのまま薬箪笥の足元にしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
「変じゃな、引き出しが開いておる……」
「え?」と祖母の言葉に彩菜は一瞬眉をひそめる。恐る恐る祖母の手元を見てみると、たしかに少しだけ手前に飛び出した引き出しの姿が目に入った。
「誰かが開けたんかの……」
首を傾げる祖母の横で、彩菜は一瞬中を覗こうかと考えるも、今晩眠れなくなりそうでやめた。
祖母はゆっくりと引き出しを押して元に戻すと、剥がれ落ちていた御札も拾って丁寧に貼る。彩菜はその様子をただ黙って見ていた。
なんで引き出しが開いてたんだろう……。この前康平たちと蔵に入った時は、はっきりとは見ていないけどたぶん閉じていたはずだ。もしかして、春月の仕業? そう思った彼女は、腕の中で小さく丸まっている春月を見た。何も知らない黒猫は、眠そうに欠伸をしている。
「これでよしと。彩菜や、そろそろ戻るとするかの」
祖母がそう言って立ち上がるのに合わせて彩菜もこくんと頷くと、出口の方へと再び歩き始める。結局泥棒の姿もなく、引き出しの件以外は異変もなかったので、彼女はほっと息を吐き出した。
電気を消して蔵の扉から出ようとした時、彩菜はちらりと蔵の中を振り返った。そこには小窓から差し込む月の光に照らされる薬箪笥の姿。
うっすらと光を宿すその輪郭に、ほんの一瞬だけ心を惹かれる。それは初めて彼女が、代々伝わる家宝のことを神秘的だと思えた瞬間だった。
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