第八章「空き地」
「いけない、もうこんな時間だ」
病室の壁に掛けられた時計を見て彩菜が言った。
「今日おばあちゃんに買い物頼まれてたんだけど……間に合うかな」
はあ、と小さくため息をつく彩菜に、柚葉が心配そうに眉毛をハの字にする。
「彩菜ちゃんごめんね。私が引き止めちゃったせいで……」
「ううん、柚葉ちゃんのせいじゃないよ。楽しくて、私がつい時間忘れちゃっただけだし」
彩菜はそう言ってぴっと舌を出した。
「バス停までダッシュしたらまだ間に合うんじゃねえか?」
「う……それは、結構です」
康平のアイデアにげんなりした声で答える彼女に、柚葉がクスッと笑う。
「彩菜ちゃん、また来てくれる?」
「もちろん! またすぐに来るから待っててね」
「うん!」と嬉しそうに微笑む柚葉の顔を、窓から差し込む西日が照らした。彼女の艶やかな黒髪が、わずかに赤みを帯びる。
「そしたら柚葉、明日も来るからな。あんまり食べ過ぎるなよ」
妹が手に持っているお菓子を見ながら康平が目を細める。すると彼女は、「心配しなくても大丈夫です!」とわざとらしくべーっと舌を出した。それを見て彩菜と優介が笑う。
「優介兄ちゃんもいつもありがとう」
「また来るよ」
微笑む優介の横顔を、彩菜はチラリと見た。いつも通りの彼の表情に、彼女は安心してほっと息を吐き出す。
「じゃあね、柚葉ちゃん」と言って彩菜は柚葉の手を握ると、康平たちの後に続いて病室を出た。
一階に降りると、受付のロビーにはまだ大勢の人たちの姿があった。その様子を見ながら出口へと向かっていると、彩菜の耳に突然慌ただしい声が聞こえてきた。
「すいません! 通して下さい!」
突如正面口の方から大声が聞こえたかと思うと、看護師たちが急いだ様子でバタバタと入ってきた。事故でもあったのか、担架で運ばれる患者の姿もある。緊迫した空気に、広いロビーが一瞬騒然とした雰囲気に包まれた。
「何か事故でもあったのかな……」
不安そうに呟く彩菜は、隣にいる康平に少し身体を寄せる。立ち止まって見ていた彼は「さあな」と言って、再び出口の方へと向かって歩き始めた。彩菜も同じように歩き出そうとするも、優介だけが立ち止まったままでいることに気づく。
「優介……どうしたの?」
彩菜が不思議そうな顔で聞くと、優介は目を細めた。
「ごめん、ちょっと用事思い出したから先に帰ってて」
「え?」
優介の突然の言葉に、二人は少し驚いたように目を丸くした。そのまま優介は、「ごめん」とだけ言って、足早に元来た道を戻って行く。人混みの中に消えていく彼の後ろ姿を、二人はただ呆然とした様子で眺めていた。
「急にどうしたんだ、アイツ……」
眉間に皺を寄せる康平の隣で、彩菜も首を傾げると、ざわりと心の中で胸騒ぎがした。何となく、さっきの優介の顔がただ事ではないような気がしたからだ。
「どうしたんだろ、優介……」
彩菜は小さく呟くと、仕方なく出口へと向かって再び歩き始めた。
二人になった帰り道は、いつもより口数が少なかった。もちろん、バス停までの長い下り坂のせいもあるが、途中で別れた優介のことが気になっていたからだ。
「病院に用事って優介のやつ、どっか身体でも悪いのか?」
少し前を歩く康平が、振り向き様に言ってきた。その視線を受けた彩菜は、「うーん、そんなこと聞いてないんだけどな……」と眉間に皺を寄せる。
「でもちょっと様子おかしかったね、優介」
「……もしかして、あの救急で運ばれた患者が知り合いだったとか」
「やめてよ康平。縁起でもない」
こちらを振り向いたままの康平を、彩菜はキリっとした目で睨む。それを見て、「冗談だって」と彼はバツの悪そうな顔をして前を向いた。
「明日会った時に聞いてみるか」
「うん……」
彩菜はそう返事をすると、足下に落ちていた小石を何となく蹴ってみた。それはいとも簡単に飛んでいき、不安定なまま坂道を転げ落ちていく。行き場のないわだかまりをため息に混ぜて吐き出すと、柚葉が話していたことが一瞬頭によぎった。康平は、あの話しのことを知っているのだろうか。
「ねえ、康平……」
「ん? どした」
振り返った彼の顔を見ながら、彩菜は喉元まで出かかった言葉を口にしようとしたが、寸前のところでやめた。おそらくあの柚葉ちゃんの様子だと、康平にも話していないのだろう。「ううん、何でもない」と彩菜は代わりの言葉を口にする。
「なんだよ、気になるだろ」
「だから何でもないって」
そう、何もないはずだ。なのに、この胸騒ぎは何だろう? 彩菜は短く息を吐き出すと、町の景色を見下ろした。
私は本当のところ、優介のことをどれだけ知ってるのだろうか。幼なじみとしての付き合いはもちろん長い。でも、時間の長さと相手のことを理解しているかどうかは、必ずしもイコールにはならない。それを彼女は今までの人間関係の中で学んできた。もしかしたら私は、自分が思っているよりも、優介の近くにはいないんじゃないだろうか。そんな不安が心の隙間に入り込み、それは孤独となって顔を出す。
「ねえ康平……」
「ん?」
夕陽に照らされる彼の顔を見ながら彩菜が言った。
「これからも……みんな仲良しだよね?」
その言葉を聞いて、「ああ」といつもの調子で返事をする康平の姿に、彩菜の孤独は少し影を潜めた。
バス停に着いたものの、次のバスが来るまでには二十分程待たなければいけなかった。二人は疲れた足を休めようとベンチに腰掛ける。
「優介、まだ病院なのかな?」
「さあ、どうだろうな」
彩菜はスマホを手に持つと画面をタップする。さっき優介にはバス停にいることをメッセージで伝えたが、既読にはなっていない。おそらくまだ病院にいるのだろう。
彩菜は小さくため息をつくと、気持ちを切り替えるようにスマホの画面をスリープ状態に戻した。真っ暗になったディスプレイに、情けない自分の顔が浮かび上がり、彼女はそっと目を逸らす。
バスを待つ間、二人は授業やテストのことについて話しをしていた。彩菜にとって苦手な成績の話題になりかけた時、ちょうど運良く向こうの方からバスが来るのが見えて、彼女は誤魔化すようにベンチから慌てて立ち上がった。
バスに乗り込むと、今日は珍しくほとんど乗客の姿はなく、彩菜たちは入り口近くの席に座った。「発車します」と運転手の少しくぐもった声を合図に、バスはゆっくりと動き始める。窓から見えるバス停の景色に、無意識に優介の姿を探す。もう一度スマホの画面を見てみるも、真美からメッセージが入っているだけだった。
「今日もありがとな」
静かなバスの車内で、康平が言った。その言葉に、「私の方こそ、誘ってくれてありがと」と彩菜はそっと微笑んだ。彼も疲れているのか、二人はほとんど会話することもなく、バスは帰りの道を進んで行った。途中、大きな交差点で信号待ちになった時、ふいに康平が口を開いた。
「今度のお前の誕生日なんだけど、その……柚葉のお礼も兼ねてどっか遊びに行かないか?」
「うん、いいよ。だったら優介も誘って、久しぶりに三人で遊びに行こうよ」
康平の誘いに、彩菜はにこっと笑った。ここ最近は三人で遠出をしていなかったので、自分も遊びに行きたいと思っていたところだった。
彩菜は長い睫毛を上下させると、康平の顔を見る。彼は少し照れたように頬を掻くと、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「いや、その……今回は、お前と二人が良いんだけど……」
「ほえ?」
康平からの予想外の言葉に、思わず変な声が出てしまった。目をまん丸くした彩菜は、隣に座る幼なじみの顔を凝視する。康平とは遊びに行ったことは何度もあるが、二人が良いなんて言われたのは初めてだった。しかも、自分の誕生日に。
どうしたの急に? いつもなら簡単に言えるはずのそんな言葉が、何故か喉の奥に引っかかって出てこない。沈黙の時間が伸びていくほど、頬が熱くなっていくのがわかる。そんな沈黙に康平の方も堪え兼ねたのか、先に口を開いた。
「いや、ダメならいいんだ。気にするな」
康平はそう言って顔の前で右手を振った。普段の彼らしくない態度に、今度は両耳が熱くなる。
「別に……ダメとかじゃないんだけど……その、何というか……」
歯切れの悪い自分の言葉に、彩菜は心の中で「あぁ、もう!」と叫んだ。別に今まで通り康平に遊びに行こうと誘われただけなのに、なんでこんなにも動揺しなくてはいけないのか。
彼女は膝の上でぎゅっと手を握ると、心を落ち着かせようと大きく息を吸った。肺に貯まっていく空気を感じながら、康平への言葉を探すも、なかなか見つからない。
どうしようと頭を悩ませていた時、バスはゆっくりとスピードを落としてバス停に到着した。
「ご、ごめん。着いたから、先に降りるね」
急いで立ち上がった彩菜は、そう言って出口へと向かった。背後から「お、おう」という康平の間の抜けた声が聞こえるも、彼女は振り向かずにバスを降りた。そして発車するバスのエンジン音を背中で聞きながら、目の前の景色を見て小さくため息をついた。
「あちゃー……やっちゃった」
動揺してしまったせいか、てっきり家の最寄りのバス停に着いたと思いきや、二つ手前のバス停で降りてしまったようだ。
外の新鮮な空気を吸って少しは冷静に慣れたものの、それでもまだ心臓はいつもより強く脈を打っている。
「まさか康平からあんな誘われ方するなんて……」
幼なじみからの急な誘いに、彩菜の頭の中では色んな考えがぐるぐると回っていた。もちろん、単純に私の誕生日をお祝いしようとしてくれて言ってくれただけ。そうだとわかっていながらも、あの変な空気感に耐えきれず、思わず話しの途中で逃げ出してしまったことに後悔する。
「あとで康平にちゃんと謝っとこ……」
彩菜はそう小さく呟くと、家の方へと向かって歩き始めた。次のバスが来るまでかなり時間はあるので、おそらく歩いて帰っても同じだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと彼女の歩みが止まる。左手側に広がる住宅街に目を向けた時、あの場所があることに気づいた。
「空き地だ……」
彩菜の視線の先には、昨日見たばかりの例の空き地の姿があった。その向こうに見える山からは、寝床に戻っていくカラスたちの鳴き声が聞こえてきた。
誰もいない空き地に薄気味悪さを感じながらも、何故か彩菜はそこから動くことができなかった。まるで見えない糸が自分の心に絡まってくるような、そんな奇妙な感覚が込み上げてくる。
彼女は導かれるように、空き地の方へと歩き始めた。閑静な住宅街を抜け、空き地の入り口にたどり着くと、そこには昔と変わらない風景が広がっていた。
ここで柚葉ちゃんと優介は……。
誰かに頬を撫でられるような風を感じて、彩菜はゴクリと唾を飲み込む。ゆっくりと右足を上げて空き地に踏み入れると、じわじわと虚しさが込み上げてきた。
自分も昔ここで遊んでいたからだろうか、懐かしい風景の中で、そんな感情に飲み込まれる。彩菜はそのまま空き地の奥へと一歩ずつ進んでいく。
錆びれたパイプ、捨てられたタイヤ。この場所だけ過去に置き捨てられたみたいに、時間が止まっていた。
空き地の奥まで来ると、彩菜はそこで立ち止まった。目の前には山へと続く茂みが広がっていて、その手前には最近作られたのかフェンスが張られていた。そのフェンスを目で追っていくと、途中で破られた穴があることに気づいた。
誰かがイタズラでもしたのかな。
彩菜はそんなことを考えると、何となくその穴の方へと近づいてみる。自分の背丈より少し小さい穴は、まるで茂みの中から何かが飛び出したみたいに破られていた。
彩菜は少ししゃがみ込むと、フェンスの向こうを覗いてみた。すると、生い茂った草木の中に、自然に出来た獣道があることに気づく。視線でその道を辿っていくと、それはすぐに暗闇に溶けて見えなくなっていた。
パシリ、と枝を踏んでしまった音が、その闇の中へと吸い込まれていく。ぐっと目を凝らして先を見ようとした時、暗闇の方から生ぬるい風が吹いて彼女の頬を撫でた。
その誘いに応えるかのように、彼女は無意識に足を伸ばす。と、その時。横から吹いてきた突風に彩菜は思わず目を瞑る。激しい風の音が鼓膜を震わす中で、その隙間から突然誰かの声が聞こえてきた。
――スグニタチサレ――
え? その声に慌てて目を開けると、足元の茂みがガサリと動き、彩菜は「ひゃ!」と叫んで後ろに飛び跳ねた。わずかに揺れる茂みの向こうからは、音の正体であろう猫の鳴き声が聞こえてきた。
「何だ、野良猫か……」
彼女は大きく息を吐き出すと、辺りを見回した。自分以外に人の姿はない。
あれは確かに人の声だった。でも……
蔵の時と同じように頭の中で響くような声だったが、それはまったく聞き覚えのない声だった。彩菜は身を守るように胸の前でぎゅっと手を握ると、もう一度目の前を見た。破られたフェンスの穴は、自分を飲み込もうとするかのようにこちらをじっと見つめている。
彼女はぶるっと肩を震わせると、後ろを振り返って出口まで走り出した。空き地を出て、住宅街を抜けて大通りに出ると、やっとそこで足を止める。両手を膝につけて呼吸を整えようとするも、込み上げてくる恐怖心のせいで、うまく息をすることができない。背中にぐっしょりとかいた汗が冷たく皮膚に伝わり、そんな感情をさらに大きくする。
彩菜は立ち上がると、恐る恐る後ろを見た。先程と変わらない住宅街の景色の向こうに、小さく見える空き地の姿。それはまだ自分のことを待っているようにも見えた。彼女は目を瞑って首を大きく横に振ると、再び前を向いて歩き始める。
あれはたぶん、私の聞き間違いだ。
怖がりのくせにあんな所に行ってしまったので、恐怖心がそう思わせたのだ。そう自分に言い聞かせながら、彼女は家までの道のりを早足で歩く。少し気持ちが落ち着いてから大通りを走る車や、家路に向かう人たちの姿を見ていると、何となくさっきの出来事が夢のようにも思えてきた。
ただ、耳の奥にこべりついたあの声だけは、どれだけ空き地から遠ざかっても、いつまでも消えることはなかった。
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