第七章「疑惑」

「お、今日は珍しく一番乗りじゃん!」


 彩菜がバス停のベンチに座ってスマホをいじっていると、康平の声が聞こえてきた。ぱっと顔を上げると、その隣には優介の姿もある。


「べつに珍しくありませんけど」少し口を尖らせる彼女に、二人はクスッと笑う。


「そういえば真美のやつ、ちょっと様子おかしかったけど大丈夫だったのか?」

「康平が空気も読まずに話しかけてきたからでしょ」

「げ、また俺のせいかよ……」


 眉をひそめる康平を見て、優介が目を細める。

 

「何だ康平、坂下さんにも迷惑かけたのか?」

「おい優介。坂下にも、ってどういうことだよ。俺は別に誰にも迷惑かけてねーって」


「はいはい」とすました感じで返事をする優介に、今度は彩菜がクスリと笑った。


 そんないつものやり取りをしている間にバスが到着して、三人は列に並ぶと中へと乗り込んだ。今日はイレギュラーな忘れ物はないので途中で降りることなく、真っ直ぐと病院前のバス停まで向かった。


 先日と同じくバスを降りると、病院へと続く魔の坂道が彩菜たちを出迎えた。「頑張れ」と言わんばかりに、道の両端からはしゃわしゃわと蝉の鳴き声が聞こえてくる。早くも額から流れてくる汗を、彩菜は右手の甲で拭った。


「それにしても、何で病院のところまでバスが通ってないんだよ」


 同じことを考えていたのか、通い慣れた康平でさえも、暑さのせいで愚痴をこぼしている。その隣では相変わらず涼しそうな表情で優介が歩いていた。


「なあ優介。今度一緒に来る時は、じゃん負け奢りのタクシーはどうよ?」

「良いけど、負けても文句言うなよ」


 強気な態度で答える優介に、言い出しっぺの康平は「いや……お前にはなんか負けそうだからやっぱいい」と早くも勝負を辞退した。そんなやり取りを横目で見ながら、「やっぱり男の子は元気だな」と彩菜は心の中で呟くと、黙って坂を登り続けた。




 七〇六号室の扉を軽くノックすると、中から「はい」と元気な声が聞こえてきた。ドアを開けると、あのオルゴールの音色が流れていることに彩菜は気づく。


「こんにちは、柚葉ちゃん」

「あ! 今日も彩菜ちゃんきてくれたんだ」


 柚葉が嬉しそうな表情を浮かべて、彩菜の声が聞こえた方を見る。


「オルゴール、聞いてくれてるんだ」


 彩菜はにこっと笑うと、ベッドへと近づく。お風呂に入ったばかりなのだろうか、「うん!」と頷く柚葉の揺れた髪から、ほんのりと石鹸の香りがした。


「身体の方は、大丈夫?」

「ぜんっぜん平気! むしろ、ずっと寝てばっかりだから、どこか散歩に行きたいぐらい」


 そう言ってわざとらしく頬を膨らませる彼女の姿に、彩菜がクスリと笑う。その隣で康平が部屋に置いているパイプ椅子を広げた。


「あと少し数値が下がったら外出しても大丈夫だって先生言ってたし、もうちょっとの辛抱だな」


 彼の言葉に、柚葉が大きくため息をついた。


「もう身体は全然大丈夫なんだけどなー」


「あんまり無理はしない方がいいよ」と椅子に座った優介が優しい声で言った。口数は少ない彼だが、柚葉のことはいつも心配しているのだ。


「優介兄ちゃんがそう言うなら、仕方ないっか」

「おい、それどういうことだよ」


 康平が呆れたように二人の顔を見る。その様子に柚葉と優介が小さく笑った。


「あっ、そうだ。せっかくみんな来てくれたのに、冷蔵庫の中に今何も入ってないの」

「そしたら何か買ってくるよ」


 そう言って優介は椅子から立ち上がった。「何かいる?」と聞く彼の言葉に、柚葉が真っ先に答えた。


「あ! じゃあお兄ちゃんも一緒に行って、私の好きなお菓子買ってきてよ」

「お前なあ、また兄貴をパシらすつもりか?」


「お願い!」と柚葉は小さな手を合わせると、ぎゅっと目を瞑ってお願いのポーズを取る。それを見た康平は、大きくため息をつきながらも立ち上がってドアの方へと向かった。基本的に康平は、妹のお願いに弱い。そのことを知っている彩菜はクスッと笑うと、「私が行こうか?」と立ち上がるも、康平が右手を伸ばして制してきた。


「たまには女子トークも必要だろ」


 その言葉に、「何それ」と彩菜がまた笑う。


 二人が出て行くと、広くなった部屋を静けさが満たした。彩菜がちらりと柚葉を見ると、彼女が少し浮かない顔をしていることに気づく。


「どうしたの?」と聞く彩菜に、柚葉は小さくため息をついた。


「ねえ彩菜ちゃん……」

「ん?」


 あまり元気のない声に、彩菜が心配そうに彼女の顔を覗き込む。光を通さないその瞳は、僅かに潤んでいるような気もした。


「私って、優介兄ちゃんに嫌われてるのかな?」

「え?」


 まったく予期しなかった柚葉の言葉に、彩菜は目を丸くした。


「何となく最近、優介兄ちゃんが私のこと嫌いなのかなって思うことがあるの」

「……どうして、そう思うの?」


 彩菜は椅子を少しベッドに寄せる。柚葉はぐっと唇を噛むと、ゆっくりと話し始めた。


「優介兄ちゃん、ここ最近はほとんど毎日お見舞いに来てくれるの。たぶん、私の体調があんまり良くないってお兄ちゃんに聞いたからだと思う。前から優介兄ちゃんはよくお見舞いに来てくれてたし、来てくれるとわたしも嬉しい。ただ……、たまに優介兄ちゃんのことを怖く感じることがあって……」


 そう言って柚葉はシーツをぎゅっと握った。衣ずれの音が、静かな空間に響く。


「言葉じゃ絶対にそんなことは言わないけれど、何だか最近の優介兄ちゃん、すごく怒っているように感じることがあるの。もしかしたら、私の勘違いなのかもしれないけど、時々そんな風に感じちゃって。ほら、優介兄ちゃんがこんなにお見舞いに来てくれるのも、昔のことがあってのことだろうし……」


 柚葉の話す言葉一つひとつに、彩菜は黙って耳を傾けていた。


「私がこんな風になったのは自分の責任だし、優介兄ちゃんは何も悪くない。それに私はみんなのこと、好きだよ。だからもし、私の存在が優介兄ちゃんにとって重荷になってるなら、そんなことは望みたくない……」


 おそらくずっと一人で悩んでいたのだろう。彼女の声は途中からわずかに震えていた。俯く柚葉の顔を隠すように、肩に掛かった髪がはらりと落ちた。押さえ込んだ気持ちが、嗚咽にも似た言葉になって彼女は話しを続ける。


「私ね、こうやってみんなと話せるのが嬉しいし、これからもずっと続いてほしいなって思ってる。でも、優介兄ちゃんから時々そんなことを感じる度に、それは自分のわがままで、ほんとはみんなに迷惑をかけてるだけじゃないかってすごく怖くなるの。だから……」


 柚葉はそこで口を噤んだ。沈黙が彼女の言葉の代わりに、その苦しみを空気に混ぜて伝えてくる。彩菜は、それを肌で感じていた。


 視力を失ったことが影響するのか、柚葉は人の気持ちを察する感受性に長けている。話し方や声のトーンなど、些細な変化で相手の気持ちを理解して、言葉を交わすことができるのだ。


そんな彼女が最近の優介の様子がおかしいと話しているので、彩菜は少なからず、心のどこかでざわめきを感じていた。彼女は柚葉からそっと視線を外すと、小さく息を吐いた。


 優介が普段どんな事を考えているのかなんて、正直自分もよくわからない。それはずっと昔からそうだった。康平とは違い、あまり感情を表に出さない彼は、滅多なことがない限り自分のことを話さない。


 優介、何かあったのかな……。


 目の前では、袖を目元に当てて俯いたままの柚葉の姿。彩菜はうーんと唸って頭を掻きむしった。そして大きく息を吸い込むと、素直に自分が感じていることを伝えた。


「私は、優介が柚葉ちゃんのことを嫌ってるなんて絶対にないと思う。優介ってあんまり自分のこと話さないし、感情も見せないから分かりにくいところも確かにあるけど、でも根は凄く優しくて、いつもみんなの事を想ってくれてる。それに、柚葉ちゃんの誕生日プレゼントを探しに行った時も、あのオルゴールを見つけてくれたのは優介なんだよ。これなら柚葉ちゃんに喜んでもらえるって。だから、柚葉ちゃんがそんなことで悩む必要なんてないよ。それは私が断言する!」


 自然と込み上げてくる気持ちに心が熱くなり、彩菜は強く言い切った。そうだ。一緒にプレゼントを買いに行った時だって、優介は柚葉ちゃんに喜んでもらおうと、一生懸命に探してくれていたじゃないか。昔のことがあるとはいえ、優介が柚葉ちゃんのことを嫌いになるなんてありえない。


 そう自分に強く言い聞かせて柚葉の方を見ると、彼女は顔を上げて、少し赤くなった両目を擦っていた。その口元が僅かに弧を描いているのを見て、彩菜はほっと胸を撫で下ろす。どうやら、自分の気持ちはちゃんと伝わったようだ。


「ありがとう、彩菜ちゃん……」


 グスンと鼻をすすった彼女は、いつもの笑顔を見せる。それを見て、彩菜も同じように微笑んだ。すると、今度は柚葉が口元に手を当ててクスクスと笑い始めて、彩菜は小首を傾げた。その様子に気づいたかのように、柚葉が再び話し始める。


「彩菜ちゃんって、優介お兄ちゃんのこと好きなんだね」


 無邪気に笑う彼女の言葉に、「ええっ!」と彩菜は顔を真っ赤にして驚いた。


「そ……そんなこと、ないよ。あ、いや、もちろん友達としては好きだよ。そう、友達として、ね」


 不意打ちを食らってしまい、思わず声が裏返る。ダメだ。なんてバレバレな言い訳なんだ……。目の前では、柚葉が口元に手を当てたまま肩を震わせていた。それを見て、ますます全身の熱が顔に集まってくる。


「あーいや、だからその……」と必死になって言葉を探すも、気持ちだけが空回りしてまったく出てこない。これじゃあ、「好きです」と言ってるのと同じじゃないか。


彩菜は諦めたように、大きなため息をついた。その時、かちゃりと音が聞こえて、病室の扉が勢いよく開いた。


「おーい、柚葉。買ってきたぞ」

「うわっ!」


 突然聞こえた康平の声に驚いた彩菜は、思わず椅子から立ち上がった。


「そんなに驚くことないだろ」と笑いながら部屋に入ってくる康平に続いて、小さなコンビニ袋を下げた優介も現れた。そして優介は袋の中に左手を入れると、手に持ったペッドボトルを彩菜に渡す。


「これ、彩菜のレモンティー」

「あ、ありがとう……」


 彼女はそれを両手で受け取ると、ちらりと優介の顔を見た。こっちを向いた澄んだ青い瞳に、彩菜は慌てて目を逸らす。手に持ったペッドボトルに火照った身体の熱を取ってもらおうと、彼女はそれをぎゅっと握り締めた。手のひらの隙間に、ひんやりと水滴が伝わる。


 三人は自分たちの飲み物を持つと、再びパイプ椅子に座った。プシュっと、康平が買ってきたサイダーの爽やかな音が響いた。


柚葉の方を見ると、彼女は嬉しそうに康平が買ってきたチョコバーを食べている。その様子に彩菜は安心するも、さっきの話の事が心のどこかで気になっていた。


「どしたの?」


 不意に隣に座っている優介から声をかけられて、彩菜は「え?」と驚いた様子で彼を見た。優介は、「なんか、ぼーっとしてたから」と言って、手に持っていた紙パックのストローに口をつける。すると彩菜が返事をする前に、先に康平が口を開いた。


「彩菜がぼおっとしてるのはいつものことだろ」

「ちょっとお兄ちゃん!」


 優しい柚葉が、兄の声が聞こえた方を睨む。


「冗談だって」

「もう、彩菜ちゃんイジメたら私が許さないんだから」


 ぷくっと膨れる柚葉を見て、思わず彩菜の方が吹き出してしまった。


「なら今度から康平に何か言われた時は、柚葉ちゃんに相談しよーっと」


「ね!」と声を揃える二人に、康平は「お前らなー」と呆れたようにため息をついた。そんな様子を見ていた優介もクスッと笑っている。いつもと変わらない優介の姿に、彩菜は内心ほっとしていた。


 きっとあの話しは柚葉ちゃんの思い込みだったのだろう。


 同じように笑っている彼女の姿を見て、彩菜は頭の中で呟いた。でもこの時、本当は心のどこかで感じていた。思い込もうとしているのは、実は自分の方だということを。そして、柚葉が感じた違和感は、おそらく正しいのではないかということも。


 彩菜は開けたばかりのペットボトルに口をつけると、そんな疑問をレモンティーに溶かして、喉の奥へと追いやった。

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