第六章「真美」

「ねえ、彩菜。あの話し聞いた?」


 有機化学の授業終わり、頭を使い切って項垂れていると、隣に座っている真美が突然言ってきた。


「あの話しって、何?」


 意味深長な表情を浮かべる真美に、まったく見当がつかない彩菜は、きょとんと首をかしげる。すると真美は、「まだ聞いてないのか……」とさらに深みを持たせるようにため息をついた。


「なになに、どしたの?」


 まるで甘い蜜にでも誘われるかのように、彩菜は友人に顔を近づける。それを合図に、「実は……」と真美は小声で話し始めた。


「昨日、先輩から聞いた話なんだけど、実習先の病院で変なことがあったんだって」

「え?」


まったく予想もしていなかった友人の言葉に、彩菜はぎょっと目を大きくすると、すぐさま身体を後ろに引いた。


「待って待って待って。もしかして病院って……あの総合病院のこと?」


 できれば違っていてほしいと願ったが、残念ながら真美はこくんと頷いた。


 絶対にあの話しだ……。彩菜は彼女の顔を凝視したままゆっくりと唾を飲み込む。


「ちょ、ちょっと待って真美。総合病院の話しって、変な患者の話しじゃないの?」


 話しの続きを拒絶するかのように目を細める彩菜に、今度は真美が不思議そうな顔をする。


「変な患者の話しって……何?」

「……え?」


 あれ? っと彩菜は目を大きくさせると、「違うの?」と真美に質問した。


「違うけど……変な患者の話しって、何なの?」


 逆に墓穴を掘ってしまい、真美は興味津々の表情を浮かべながら顔を近づけてくる。


「あー、いや……違うならいいの、気にしないで」と、彩菜は両手を顔の前で振ると苦笑いを浮かべた。ただでさえ怖い話しは苦手なのに、それをわざわざ自分からするなんて自殺行為に等しい。


「んん?」と真美は怪しむような目で迫ってくるも、彩菜はぎこちなく笑ってごまかす。


「それより、真美がさっき言ってた話しってなんなの?」

「あ、それそれ! それなんだけど……」


 彼女は咳払いをすると、再び真剣な表情に戻った。どうやら話題を逸らすことには成功したようだ。彩菜はほっと胸をなでおろす。


「実習から戻ってきた先輩たちが噂してたんだけど、ある先輩が見ちゃったんだって……」

「見ちゃったって……何を?」


 背中がぞわりとする真美の言い方に、やっぱり聞くんじゃなかったと彩菜は心の中で後悔した。そんな彼女をよそに、真美は真剣な表情のまま話しを続ける。


「それがね。その先輩がたまたま休憩中に窓の外を見たら、病院の裏山のところに……」

「……」


 あえて一呼吸置く友人に、彩菜はごくりと喉を動かす。そして視線の先では、怖い顔をした真美が、吸い込んだ空気の分だけ勢いよく言った。


「こーんな、おっきな熊がいたんだって!」

「…………へ?」


 目の前で大きく両手を広げる真美に、彩菜は目をぱちくりとさせる。そして今度は口元を抑えると、思わず吹き出してしまった。


「もう真美ってば笑かさないでよ。てっきりお化けかと思ってビックリしたじゃん」


 あははとお腹を抑える彩菜は、目に溜まった涙を指先で拭った。怖い話しなのかと構え過ぎたせいもあるのか、込み上げてくる笑いをなかなか抑えることができない。そんな彼女を、真美が不服そうに睨みつける。


「ちょっと彩菜! 私は真剣なんだよ? 熊だよ、ク・マ! そんな大っきな熊なんか出てきたら食べられちゃうかもしれないんだからね!」


 顔を真っ赤にして怒る真美は、がおっと両手を広げた。


「ごめんごめん真美。でもたぶんイノシシか何かの見間違いだって。それに、もし病院の裏山に熊なんていたら、もっと前から問題になってるよ」


 彩菜は何とか説得を試みるも、それでもまだ納得できない真美は不満をほっぺに溜めて膨れている。


「だって私の家はあの病院に近いんだよ? そりゃいつもイケメンのボディガードを二人も連れてる彩菜だったら大丈夫かもしれないけど、私なんてイノシシにだって出会ったら危ないんだから」

「別にボディガードなんて連れてないって……」


 半ば呆れ口調の彩菜は、右手を顔の前で小さく振った。


「はあ……幼なじみか何だか知らないけど、いつも男といるあんたが羨ましいよ」


 真美はわざとらしく頭を抱えると、大きなため息をつく。


「だーかーらー、いつも言ってるけどそんなのじゃないって」

「ほんとに? ほんとに彩菜にとってはただの幼なじみなの?」


 熊の話しはどこに行ってしまったのか、今度は違う意味で真剣な表情で迫ってくる彼女に、彩菜はブンブンと首を横に振る。


「だからほんとにそんなのじゃないから……」


「ふーん。そうですかそうですか」と疑いの眼差しを向けてくる真美の姿に、一瞬頭の中で優介の姿がチラつく。


 自分が優介を好きなことは、友達の真美を含めて誰も知らない。何度か彼女には相談しようかと悩んだことはあったけど、結局打ち明けてはいなかった。誰かに話すことで、自分が今まで通り優介と接することができなくなりそうに思ったからだ。


 あれだけ怖がっていた熊の件は、どうやら恋愛の話しに食べられてしまったようで、その後も真美は「怪しいな」と何度も迫ってきた。


「もう、そんな話しをしてたわけじゃないでしょ。それに真美の方こそこの前バイト先の先輩に告白されたって言ってたじゃん」


 彩菜は仕返しと言わんばかりに、違う話題を切り出した。


 そう、真美はモテるのだ。


 地味な私と違って素肌が眩しい服装をしている彼女は、内面もそれに見合うだけの明るさと人懐っこさを持っている。


本人は知らないだろうけど、同じ授業を受けている男の子たちが、真美の話しをしている場面を何度か聞いたことがあった。


実際、真美は入学当初から一目置かれていたし、彼女の方から声を掛けてくれなければ、仲良くなることはなかったと今も思う。


 そんな美しさを持つ罪な友人は、はあと小さくため息をつくと「バイト先の件は断りました」と呟いた。


「え! 何でよ? けっこう男前だって言ってたのに」

「まあカッコいいけど、性格はちょっと合わないし、それに……」


 それに、と続きの言葉を慎重に選ぶ彼女は、少し気まずそうな目で彩菜の方をちらりと見た。「ん?」と首をコトンと傾ける彩菜に、「だから、その……」と彼女は見えない言葉を宙から探すように、視線をきょろきょろと動かす。そして、決心をつけるように大きく深呼吸をすると、きりっとした目で彩菜の顔を見た。


「だって私は……」

「おう、彩菜!」


 いきなり背後から名前を呼ばれた彩菜は、「ひゃ!」と慌てて振り返る。そこには真っ白なTシャツにジーンズと、いかにも夏らしい格好をした康平が立っていた。


彩菜の隣にいる人物にも気づいた康平は、「真美も一緒か」とにこっと笑った。その言葉に、真美はぎこちなく「ど、ども……」と小さく右手をあげて返事をした。


「康平ってばほんとタイミング悪いんだから……」


 今まさに友人の重要な話しを聞こうとしていた彩菜は、不満をたっぷりと詰め込んだ視線を康平に送る。まったく状況が理解できない彼は、「な、何がだよ……」と彩菜の気迫に少し言葉を詰まらせた。


「今とっても大切な話しをしてたの。ね、真美」


 同意を求めて真美の方を向くと、彼女は少し俯きながら「いや、もう大丈夫だから」と言った。心なしか、その口調はいつもの真美よりも少し緊張しているように感じる。


「ほら、真美は大丈夫だって言ってんじゃんか」

「もう、康平に気を使ってくれてるんだよ。で、こっちの教室まで来てどうしたの?」


 違う授業を受けているはずの康平が、わざわざ自分のところにやってきたので、彩菜は何が用があるのだろうと察した。


「そうそう。柚葉がまた彩菜たちと話しがしたいんだって。ほらアイツ、この前誕生日プレゼントもらってやたらと喜んでたし、もっと色々と喋りたいんだろ」


 そう言ってにかっと笑う康平に、彩菜も「そうなんだ」と笑みをこぼす。柚葉ちゃんが喜んでくれればと選んだプレゼントなので、そんな風に言ってもらえると嬉しい。やっぱり、優介が選んでくれたプレゼントに間違いはなかったようだ。


「うん、私も柚葉ちゃんとまた色々と話したいし大丈夫だよ。康平たちは次いつお見舞いに行くの?」

「俺は毎日行ってるけど、今日は優介も一緒だ。彩菜も来るか?」


 優介も一緒、という言葉に彩菜の心がぴくりと反応する。


「わかった。じゃあ授業が終わったらいつものバス停のところに向かうね」

「おう! そしたら優介にも伝えとく」


 康平はそう言ってさっと右手を上げると、「じゃあまた」と教室を出て行った。


「ごめんね真美、話しの途中だったのに」

「……」

「真美……どしたの?」


 教室の出口の方を見たままぼおっとしている真美の姿に、彩菜は小さく小首を傾げた。


「あ、ううん。何もない。大丈夫!」


 慌てた様子で我に返る彼女に、彩菜は不思議そうな表情を浮かべるも、「そっか」とだけ返事をした。そして教室の時計をちらりと見ると、昼休みが始まってすでに一五分ぐらい経っていることに気づく。


校内には二つ食堂があるが、早めに行かないとすぐに席が埋まってしまうので、「そろそろ食堂に行こっか」と真美に告げると、二人は机の上に広げていたノートや教科書を片付け始めた。


 室内が少し暑いせいなのか、「早く行かないとね」と呟く友人の頬は、ほんの少しだけ赤く染まっていた。

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