第五章「数え歌」

「ただいまー」


 彩菜は玄関の引き戸を開けると、今日一日の疲れを吐き出すかのように、はあと大きなため息をついた。


「おかえり。もう晩御飯はできとるよ」


 彼女の声に気づいた祖母が、廊下からひょこりと顔を出した。その足元には、もう元気になったのか、後ろ足に包帯を巻いた春月が「なーん」と現れる。


「春月、もう歩けるんだね! 良かったー。ほんとに心配したんだから……」

「傷は思ったよりも深くなかったみたいじゃの。それに、この子もジッとしてるのは嫌じゃろうし。なあ、春月や」


 そう言って祖母は、春月の頭を優しく撫でる。


「もうこれからは勝手にどこへも行かないでよ。わかった?」


 ちゃんとわかっているのかいないのか、春月は「なーん」と鳴くと、くるりと身体の向きを変えて、先に部屋へと戻って行った。「言ってるそばから……」と小さくため息をつく自分の姿に、おばあちゃんが愉快そうに笑っている。


「そうじゃ、柚葉ちゃんの具合はどうじゃったんじゃ?」

「うん、思ったよりもずっと元気そうだったよ。康平が言うには、早いうちに一時退院もできるかもだって」


 嬉しそうに話す孫の顔を見て、「そりゃ良かった」と刹子も微笑む。


「はよう元気になって、柚葉ちゃんにも遊びに来てもらわんといけんの」

「うん! 私も早く柚葉ちゃんには元気になってほしい。そのために今は一生懸命に病気と闘ってるんだから」


「そうじゃの」と祖母は目を瞑ると小さくうなづいた。


「そしたら先に向こうで待っておるから、彩菜も手を洗ってはよう来なさいよ」


「わかった」と彩菜は靴を脱いで上がり框に足を置くと、そのまま洗面所へと向かった。電気を付けると洗面台の鏡に、少し疲れた表情をしている自分の姿が映った。やはりあの病院へと続く坂道がこたえたのだろうか。


 そんなことを考えながら蛇口をひねって手を洗おうとした時、ふと自分の両手を見た彩菜に、蔵で見た映像が一瞬頭をよぎる。


 あれは結局何だったのだろう……。


 思い出そうとしても今はほとんど薄れてしまっているが、それでもあの時聞こえた幼い頃の自分の声は、まだ耳の奥で響いているような気がした。


「何か……大切なことでも忘れてるのかな」


 目の前で不思議そうな表情を浮かべている自分に呟いてみる。しかし、答えが見つからないその質問は、蛇口から流れ続ける水と一緒に、排水溝の暗闇へと飲み込まれていった。



「今日、康平と優介がうちに来たんだってな」


 晩御飯の席、目の前で新聞を読んでいた父が、思い出したように言ってきた。


「うん、一緒に行方不明になった春月を探してくれたの。優介って凄いんだよ。春月の鳴き声が聞こえたって言って、蔵にいるのがわかっちゃったんだから」


 好きな幼なじみの活躍に、彩菜は少し興奮した口調で話す。その言葉に、隣に座っている祖母がちらりと孫の顔を見た。


「あの子は小さな頃から耳が良いからの」

「え、そうなの?」

「そうじゃよ。よく迷子になってた彩菜を、何度もあの子が見つけてくれたんじゃから」


 そう言って若々しくウインクする祖母に、彩菜は「昔の話でしょ」と耳を赤くした。ちなみに、今でこそこの辺りで迷子になることはなくなったが、知らない土地に訪れると地図アプリを使っても迷子になってしまう。もちろんそんなことをこの場では言わないけれど……。


「怖がりの彩菜があの蔵に入ったなんて珍しいな」と言って、半分になった一升瓶を手に持とうとする父に、「今日はもうおしまいです」と彩菜は先に酒瓶を取り上げた。


「だって優介が蔵の中にいるって言うだもん。それに三人だったらそこまで怖くないし……」


 そう言いながらも、彩菜は康平たちと蔵に入った時のことを思い出してぶるっと身震いした。たとえ頭の中の映像とわかっていても、あの薬箪笥の姿はどこにいても自分の恐怖心をくすぐる力がある。


そんなことを考えていた時、ふとあの言葉を思い出した彼女は、「あっ」と言って隣に座る祖母の横顔を見た。


「そうそう、おばあちゃん。あの薬箪笥のことなんだけど……」


 その言葉に、祖母はピクリと眉を動かして孫の顔を見た。温和な目をしながらもその瞳の奥には、祖母が元来持っている力強さが宿っているような気がした。


「薬箪笥が、どうしたんじゃ?」


「うん、その……」と彩菜は言葉を濁すと、かつて祖母から聞いたあの言葉を頭に思い浮かべていた。


あれは一体どういう意味だったのかと問おうとするも、わざわざ自分から不気味な薬箪笥について聞くのもどうかと悩んだ彩菜は、「ううん、何もない」と言ってお椀に口をつけた。


 ずずずと啜る味噌汁と共に、疑問と恐怖心も一緒に喉の奥へと無理やり押し込む。


 その後は普段通りの会話と、こっそり日本酒の入った瓶に手を伸ばそうとした父を二度ほど注意して、晩御飯の時間は終わった。


「ご馳走さま」と言って席を立つ彩菜は、一升瓶を戸棚になおすと父に睨みを利かせて無言の警告を送る。


そして、そのまま台所を出て縁側を歩いていると、気の早いコオロギの音色と一緒に夜の風が頬を優しく撫でる。


昼間とは違い気持ちの良い空気に、彩菜は庭の方を向いて伸びをしようとした。が、月の光に照らされる蔵の姿がちらりと目に映り、中途半端に伸ばした腕を戻すと、そそくさと階段の方へと向かった。


「はあ……。なんで私って、こんなに怖がりなんだろ」


 部屋の襖を開けてベッドに倒れこんだ彩菜は、自分の情けなさも織り交ぜて、深いため息をついた。そんな彼女を慰めるように、窓の隙間からは虫たちの合唱が聞こえてくる。


 仰向けになると、同じようにベッドで横になっているスマホに手を伸ばした。一足先に眠っていた画面を起こすと、そこには康平からのメッセージ。ぴんと指をスライドしてメッセージを開けると、「柚葉より」という文面が目に入った。


「大切な歌をプレゼントしてくれてみんなありがとう、か……」


 その言葉に、病室で会った柚葉の嬉しそうな表情が浮かぶ。屈託のないその笑顔には、思い出すだけでも心を温かくしてくれるものがあった。


「どういたしまして……」と呟きながら彩菜は文章を打ち始めると、昔三人であの曲を歌った頃の映像が頭の中に浮かんできた。そういえば、あの時も幼い柚葉ちゃんは笑ってくれていた。


「はあ」と再びため息をついた彩菜は、静かにその瞼を閉じる。浮かんでくる昔の光景に、かつて自分にも大切な歌を歌ってくれる人がいたことを思い出す。


「お母さん……」


 記憶の中で眩しい光に包まれる世界には、今はもう二度と会えない母の姿。どんな時も優しい笑顔で見守ってくれていた母は、子守唄のようにいつも歌ってくれる歌があった。


 今ではもう遥か遠い思い出となったその声を頼りに、彩菜はゆっくりと唇を動かす。


「ひとつかぞえて月の唄、ふたつかぞえて華の色、みっつかぞえてあなたを想へば……」


 まだはっきりと思い出せるその歌は、母である恭子がよく口ずさんでいた不思議な数え歌だった。自分が泣いたり怖がっていたりすると、母はよく歌ってくれていた。この歌を口ずさめば、いつだってご先祖様が守ってくれると言って。


 母が亡くなってから十年以上も経つが、彩菜は不安なことや眠れない夜があると、よくこの歌を口ずさんでいた。そうすることで、今でも母親が自分のことを見守ってくれているような気がするからだ。


 静かな夜にそんなことを考えながら、今日一日に終わりを告げるかのように、母からもらった歌を口ずさむ彩菜は、いつの間にか深い眠りについていった。

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