第四章「柚葉」

 無事に春月を見つけることができた三人は、バスに再び乗り直すと、今度こそ目的地である病院前のバス停まで向かった。車内で揺られている間も、彩菜の意識の片隅では、蔵で聞こえたあの声のことが気になっていた。


 うーんと眉間に皺を寄せて考えていると、隣に座っている優介が「どうしたの?」と声をかけてきて、慌てて我に戻る。


「あ、う、ううん。何でもないよ。なんか春月のことでちょっと疲れただけ……」


 そう言ってぎこちなく笑う彩菜の姿に、康平と優介は顔を見合わせて小首を傾げる。


「そ、それよりも、このプレゼント、柚葉ちゃんに喜んでもらえるといいよね」


 ね、っと彩菜は同意を求めるように、その瞳を優介に向ける。「そうだな」と彼が微笑むと、その横からぬっと腕が伸びてきた。


「柚葉にどんなプレゼント選んでくれたんだ?」


 興味津々な顔で聞いてくる康平に、「まだダメだよ」と彩菜は持っている紙袋を胸元でぎゅっと握りしめた。


「おい、もう俺に隠す必要ないだろ」

「だって、ほんとは康平にもビックリしてもらう予定だったもん」

「もうバレたじゃん」

「だーかーら、せめて中身だけはサプライズにしたいの!」


 むっと頬を膨らませる彩菜に、「何だよそれ」と半ば呆れ口調で康平は言うと、そのまま背もたれに身体を預けた。その勢いで年季の入った座席がミシッと音を立てる。


「相変わらず、お似合いだな」とぼそりと呟いた優介の言葉に、「誰がだ」「誰がよ」と二人は声を揃えて顔を赤くした。


 そんなやりとりをしている間にバスは目的地についたようで、いがみ合う二人をよそに優介は「降りるぞ」と言って席を立つ。「ちょっと待ってよ」と慌てる彩菜と康平も順番にバスを降りた。


 時刻はすでに十七時を回ろうとしていたが、それでも太陽の光は昼間とまったく変わらず元気で、歩いているとじわりと額に汗が滲んでくる。バス停の名前は「病院前」なのだが、降りてから少し坂道を登らないといけない。


 病院前という名前なのであれば、もっと手前で降ろしてくれたらいい……。


蝉の鳴き声が降り注ぐ中、そんなことを考えても仕方ないとわかっていながら、彩菜は小さくため息をつく。


 しばらく歩いていると、昨夜見た病院の姿が目に入ってきた。陽の光をたっぷりと浴びているその外観は、不気味なところなんて一つもなく、別に怖くもなんともない。そんなことを思っていた時、隣を歩く康平がふと口を開いた。


「そういやこの病院、最近変な患者が運ばれてきたらしいな」

「……え?」


 彩菜はぎょっとした目で康平の顔を見た。それと同時に彼女の頭の中では、昨日の酔っ払いの顔がむくむくと蘇ってくる。


「俺の兄貴が病院繋がりの人に聞いたんだってよ。こんな患者が運ばれてきたけど、そっちは大丈夫か? って。たぶん感染症かどうか確認したかったんだと思うけど」

「あー……ってことは、和久おじさんの話しはほんとだったんだ」


 酔っ払いのただの作り話! と、思い込もうとしていたが、しらふの康平まで話すのだから、あの話しは本当だったんだろう。彩菜の心に、病院に担ぎ込まれる不気味な女の姿が浮かび上がり、彼女はぶるっと肩を震わせた。


「なんだ、和久のおっちゃんも話してたのか?」

「そうだよ。しかも私が怖い話し苦手なの知ってるくせに、わざわざ恐ろしい感じで言ってくるの。ひどいでしょ」


 もう、と言って彩菜は唇を尖らす。


「まあ確かに変な話しだったからな。兄貴が言うには向こうの病院の人が、まるで呪いか妖怪の仕業みたいだって、わけがわからないこと言ってたみたいだし」

「呪いか妖怪か……」


 その話しを聞いて、彩菜はさっき見たばかりの薬箪笥のことを思い浮かべていた。そんな不気味な話しも、もしあの蔵の中で聞かされたら、否が応でも信憑性が上がるだろう。ただ、もうこれ以上怖い話しは勘弁だ。


「お化けだけでも十分怖いのに、妖怪とかあやかしとかもう勘弁してほしいよ……」


 立派に膨らんでいく妄想を抑え込もうと、彩菜は両手で頭を抱えた。


「そんなもん全部作り話に決まってるだろ……それに」


 康平がためらうように一呼吸置いたので、疑問に思った彩菜はちらりと彼の横顔を見た。するとゆっくりと動いたその唇から、吐き捨てられるように言葉が飛び出した。


「もし本当にそんなやつらが存在するなら、俺が絶対に許さない」

「……」


 康平にしては珍しく、力強いその言葉の裏には、憎しみが込められていた。事情を知る彩菜は、それ以上何も言うことはできなかった。優介もまた、そんな彼の様子を伺うように、さっきから黙ったまま歩いている。


 やっとの思いで病院の入り口までたどり着くと、彩菜は額の汗を手の甲で拭った。ふうと息を吐き出して自動ドアへと一歩踏み出すと、開き始めた隙間から心地よい空気が流れてきた。


 自動ドアを抜けると、受付や通路には順番待ちの患者で溢れかえっていた。この総合病院は近隣地域の中で一番大きな病院なのでいつも混雑している。


 人混みを避けるように彩菜たちは奥へと進んでいくと、通路左手に現れたエレベーターホールへと足を踏み入れる。先程よりも人の姿が少なくなった空間で、康平が疲れを吐き出すかのように大きくため息をついた。


「ほんといつ来ても人だらけだな、この病院」

「仕方ないよ。だってこの辺りで大きな病院って言ったらここしかないんだもん」


 彩菜はそう言うと、目の前で開いたエレベーターに乗り込んだ。


「まあそれだけこの病院を必要としている人達がいるってことだろ」


 彼女に続いてエレベーターに足を踏み入れる優介が呟く。


 彼の言う通りこの病院ができる前は、大きな手術や治療が必要な場合、車で片道二時間の都市部の付属病院に行くしかなかった。ただ、高齢者も多いこの町ではそれは死活問題で、住民の呼び掛けもあって八年前にこの病院が建てられたのだ。


 チン、と聞き慣れた機械音が耳に届くと同時に、鉄の扉がゆっくりと開く。七階のフロアに出ると目の前は全面ガラス張りで、そこから自分たちが通う学校や自宅が一望できた。


 総合病院と聞くと、古くて無機質な印象があるが、できて間もないこの病院は綺麗なだけではなく、患者の気分が下がらぬように内装もこだわっている。


 彩菜は靴底に絨毯の感触を感じながら、康平に続いて右手にある自動ドアまで歩いた。そのドアの手前で立ち止まった彼は、ズボンのポケットからカードキーを取り出すと、扉横の壁に埋め込まれた四角い小さなプレートにかざす。赤く点灯していたランプが緑色に変わると、彩菜たちを案内するかのように薄いガラス扉が開いた。


 中に入ると目の前にはナースステーションがあり、それを取り囲むように入院患者の病室が円を描くように並んでいる。柚葉の部屋は、入り口からナースステーションを挟んでちょうど向かい側の部屋だった。


 同じような扉が並ぶ通路を迷わず歩く康平に続きながら、彩菜は彼の妹について考えていた。


 柚葉の容態があまり良くないと聞いたのは、先週のことだった。彩菜はその話しを思い出して、ごくりと唾を飲み込む。最後に彼女のお見舞いに来たのは先月で、その時はいつも通り元気だったが、そんなに病状が進んでいるのだろうか?


 頭に浮かぶ不安をかき消すように、彩菜は目を瞑ると首を小さく横に振る。今日は柚葉ちゃんの誕生日なんだがら、自分のほうが弱った顔をすることはできない。しっかりしないと。


 前を歩く康平が立ち止まったので彼女も歩みを止めた。視線の先には七〇六という番号と、その下には「飯塚柚葉」と記されている。


 康平は軽くこんこんとノックをすると、取っ手を掴んで扉を開けた。そのまま中へと入っていく彼の後を優介と、紙袋を持った彩菜が続く。


「おう柚葉。今日も来たぞ」


 康平の言葉に、ベッドの上で寝ていた柚葉がむくりと起き上がった。胸元まで伸びた黒い髪に、透き通るような白い肌。兄の日焼けした腕と比べると、それは彼女が季節から完全に隔離されていることを意味していた。


 康平と一緒にベッドへと近づく優介が、「具合はどう?」と優しく声をかける。


「うん、大丈夫だよ! お兄ちゃんも、優介兄ちゃんもいつもありがとう」


 にこりと白い歯を見せて笑う柚葉に、彩菜はほっと胸を撫で下ろした。どうやら想像していたよりも彼女はずっと元気なようだ。


「そっか。柚葉ちゃんが元気そうで良かったよ」

「あ、その声もしかして彩菜ちゃんも来てくれてるの?」



 柚葉はぴくりと眉を動かすと、彩菜の声が聞こえた方へと顔を向ける。


「うん来たよ」と答える彩菜はベッドに近寄ると、自分がいることをちゃんと伝えるかのように、彼女の手をぎゅっと握った。


喜ぶ柚葉の笑顔とは対照的に、手のひらから伝わる冷たい感覚に、彩菜の胸が締め付けられる。柚葉の両目には自分が映っているものの、その姿が彼女の心に届くことはない。漆黒の色をしたその瞳は、文字通り彼女を闇の中に閉じ込めていた。


 柚葉はほとんど目が見えない。


 元々見えなかったわけではなく、昔の事故が原因だ。


 光を認識することはかろうじて出来るのだが、医者の診断によると、それも年々弱くなってきているという。今は至近距離であれば人の気配を感じることができる彼女も、いずれはそれさえも奪われてしまう。


同い年の女の子が学校に通ったり友達と遊んだりする中で、彼女に課せられた運命はあまりにも残酷だった。そんなことを考えると、無意識に柚葉の両手握る指先に力が入ってしまう。


「今日はね、柚葉ちゃんに渡したいものがあって来たの」


 彩菜は彼女に顔を近づけると優しく微笑んだ。その言葉を聞いた柚葉の両目が、嬉しそうに弧を描く。


「ほんとに! 何なに?」


 彩菜は「何でしょう?」と言って、持っていた紙袋に右手を入れると、小さな箱を取り出した。それはちょうど手のひらに収まるほどの大きさで、金属で出来たその箱は、赤いリボンが巻かれたギフトボックスのようなデザインになっている。


そして彩菜は、彼女の両手の中に納めるようにそのプレゼントを渡した。


「お誕生日おめでとう。柚葉ちゃん」

「私の誕生日覚えてくれたんだ!」


 喜ぶ彼女の手を握り締めながら、彩菜は「開けてみよっか」と、重ねた手のひらをそっと動かす。それに合わせて柚葉の細い指先が、小さな箱の蓋を開けていく。


嬉しそうに目を細める彼女の耳に、柔らかい音色が届いた。それは窓から差し込む陽の光のように、優しく部屋の空間を包んでいく。


「この曲……」


 柚葉が握る小さなオルゴールからは、彼女にとって聞き覚えのある曲が流れていた。同じく、その旋律に覚えのある康平が、「これって……」と口を開く。その様子を見た彩菜と優介は、顔を見合わせて小さく微笑んだ。


「この曲って……昔、私の誕生日にお兄ちゃん達が歌ってくれた曲だよね」


 オルゴールから奏でられる音色に、耳を傾けながら柚葉が言った。その言葉に、「そうだよ」と彩菜はにこりと笑う。


 この曲は柚葉がまだ幼稚園の頃、妹想いの康平が彼女の誕生日に歌をプレゼントしたいと言って、彩菜と優介の三人で歌った曲だった。


随分と昔のことで彩菜も忘れかけていたが、たまたま今回の誕生日プレゼントを探しに行った時に、優介が偶然にも見つけてくれたのだ。そして、これなら康平も喜んでくれるのではないかと考えた二人は、彼にも内緒にしようと決めたのだった。


「柚葉ちゃん、誕生日おめでとう」


 優介も彼女の小さな手を握ると、祝福の言葉を送った。「ありがとう……」と、澄んだ瞳を滲ませて微笑む柚葉の姿が、彩菜の心にじわりと焼きつく。


 そう、いつだって昔から柚葉ちゃんの誕生日の時にはこうやって三人でお祝いをしてきた。その度に一つ思い出を重ねては、今もこうしてみんなで過ごせている。


 たったそれだけのことだけでも、自分と同じく柚葉ちゃんにとってはかけがえのない大切な時間なんだと、目の前で喜ぶ彼女の姿を見ながら彩菜は改めて感じていた。

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