第十章「労わる心」

「ねえ、彩菜ってば、聞いてる?」


 研究室での授業中、突然覗き込んできた真美に「え?」と驚いたように返事を返した。


「なんかここ最近ずーっと変な感じだけど、大丈夫?」


 先生にバレないように小声で話す真美に、彩菜は「たぶん……夏バテかな」とぎこちなく微笑む。本当は最近起こった奇妙なことが気になって頭から離れないのだが、さすがにそんな話しはできない。


 力なく笑う彩菜の姿に、はあと真美は呆れるようにため息をついた。周りでは、同じ班の生徒たちが難しい顔をしながら試験管を見つめている。彩菜たちも手に持ったプリントを見るふりをして顔を隠す。


「それで、さっきの話しなんだけど、どう思う?」

「さっきの話しって……何だっけ?」


 やばい……まったく聞いていなかった。わざとらしく頭を掻いて苦笑いを浮かべると、友人はきゅっと目を細めてきた。


「もう、相談してるんだからちゃんと聞いててよね」


 頬を膨らませて怒る真美に、「ごめん、ちゃんと聞くから」と彩菜は申し訳なさそうに片目を瞑る。すると彼女は、「ったくー」と言いながら小さく咳払いをすると、今度は真剣な表情を作った。


「たがらその……、康平くんと今度遊びに行こうかなって話しなんだけど……」


 そう言って少し気まずそうに上目遣いをする彼女に、彩菜は「いいんじゃない」とけろりと答えた。


「え? いいの?」

「別にいいと思うけど……なんで?」


 きょとんとした顔の真美に、彩菜は不思議そうな表情を浮かべる。すると真美は顔を近づけてきたかと思うと、囁くような小さな声で言った。


「だって彩菜って……康平くんのこと、好きじゃないの?」

「えっ!」


 驚いた拍子に、思わず声が飛び出した。慌てて前を向くと案の定、先生が鋭い視線でこっちを見ている。彩菜は「すいません……」と謝ると、隠れるように頭を下げた。そしてもう一度友人の顔を見る。


「なんでそんな話しになってるのよ!」


 頬を赤くした彩菜はバレないように小声で怒った。そんな彼女に、「なんでって……」と真美は戸惑うように話し出す。


「だって彩菜いつも康平くんと楽しそうに話してるし、だいたい一緒にいるじゃん。だからその、好きなのかな……って」


 真美の言葉を全力で否定するかのように、彩菜は首を何度も横に振る。


「だからいつも言ってるけど、ただの幼じみだって! しかも康平はもう家族同然って感じで、小さい時なんて一緒にお風呂入ってたぐらいなんだし……」

「え! 彩菜、康平くんと一緒にお風呂入ってたの!」


 沈黙を切り裂く真美の声に、研究室にいる生徒たちの手が止まった。直後、静まり返っていたはずの室内に一斉にざわめきが起こり、全員の視線が彩菜へと注がれる。


 さっきはあれだけ厳しい視線を向けてきた先生も、今度は驚きと興味を混ぜ合わせたような目で見てきた。そのざわめきの火種となった張本人は、耳の先まで真っ赤にして真美に怒る。


「ちょっと真美! 声が大きいって。それに幼稚園ぐらいの時なんだから、今は関係ないでしょ!」


 彩菜はそう言ってから恐る恐る周りを見ると、彼女と目を合わさないように、他の生徒たちはわざとらしく実験の続きを始める。あらぬ誤解を持たれた彩菜がため息をつく隣で、「ごめんごめん」と真美が申し訳なさそうに謝っている。


「でも……、彩菜はそう思ってても、康平くんはどうなのかわらないでしょ?」


 真美の言葉に、昨日の康平との出来事が頭に浮かんだ。


――お前と二人がいいんだけど――


 あれは、幼なじみの友達として……ってことだよね?


うーんと頭を抱え込んでいる彩菜に、真美は小さく咳払いをすると、声をひそめて言った。


「ほんとに、いいんだよね?」


 その言葉に、彩菜は呆れたように息を吐き出す。


「だから私は大丈夫だって。それに康平も、この前真美の様子が変だったって心配してたし、たぶん喜んでくれるよ」


「え! 康平くん、私のこと心配してくれてたの?」


「うん」と答える彩菜の目の前では、真美が嬉しそうに微笑んでいる。


「そしたら今度、康平くんに声かけてみるね」


小さくウインクする真美は、そのまま手元のプリントに視線を戻した。ちらっとその横顔を覗くと、彼女の口元はまだ嬉しそうに弧を描いている。


そんな様子の真美を見て、彩菜はほっと息を吐き出すと、置いてけぼりとなった授業の話しにやっと耳を傾けた。



「はあ……」


その日の授業終わり、学校前のバス停でベンチに座っている彩菜は、大きなため息をついた。ここ最近起こっている不可解な事が頭にべったりと貼り付いて消えない。蔵のことや、空き地のことも。


どれだけ気のせいだと思い込もうとしても、それらはすぐに頭の中に現れて、勝手に暴れ出す。まるで、忘れてしまった何かを思い出させようとするかのように。


無意識に再びため息をつこうとした時、誰かが近づいてくる気配がした。


「おい、彩菜!」


威勢の良い声に、「えっ?」と顔を上げると、そこには眉間に皺を寄せる康平と、その隣には優介がいた。


「どしたの康平? そんな怖い顔して」


きょとんとした顔をする彩菜に、康平はさらに目を細めて睨んだ。


「テメー、俺の変な噂流しただろ……」

「変な噂?」


そんなの知らないよと言わんばかりに「うーん……」と考え込む彩菜を見て、康平は強い口調で話しを続ける。


「お前と研究室が一緒の博太が言ってきたぞ。お前ら一緒に風呂入ってるのかって!」


その言葉に彩菜は「あっ!」と両手を口に当てた。そんな彼女を、康平は少し顔を赤くしながらキリッとした目で睨み続ける。勢いよく突き出してきた人差し指は、怒りが強すぎるせいか、ぷるぷると震えていた。


「ごめん! あれは違うんだって。真美が突然変なこと聞いてくるから……」

「お前ら一体授業中にどんな会話してんだよ」


声を荒らげて怒る康平に、「だからごめんって」と彩菜は両手を合わせて頭をぺこりと下げる。そんなやり取りを隣で見ていた優介が、さらりとした口調で言った。


「で、風呂の件は本当なのか?」


「ば、バカか優介! 大昔の話しだって! それをこいつが変な風に言うから……」


「もう……大昔の話しだったらそんなに気にしなくてもいいのに」と半ば呆れた様子で彩菜はため息をつく。


「おい彩菜、お前は気にしなくても、その話しのせいで俺がどれだけみんなからイジられたと思ってんだ!」


顔を真っ赤にして起こる康平の隣で、その時の光景を思い出しているのか、優介がクスクスと笑っている。彼がこんなに笑うぐらいだから、たぶんよっぽどイジられたのだろう。


「おい優介! 笑ってるけどお前だってガキの時に、彩菜と風呂入ったことぐらいあるだろ!」

「げっ!」


 康平の思わぬ発言に、今度は彩菜が顔を真っ赤にして怒り出す。


「ちょっと康平! 何変なこと聞いてんのよ! ば、ばかじゃないの!」


 慌てふためく彼女を、優介は真面目な顔で「うーん……」と考えるように見つめる。


「言われてみればあったような……」

「うそっ!」


 両耳まで真っ赤にした彩菜は、恥ずかしさを隠すように自分の身体をぎゅっと抱きしめる。いくら昔の話しとはいえ、優介とお風呂に入ったことがあるなんて……想像するだけでも卒倒しそうだ。


「なかったような……」と真剣な顔で話しを続ける優介に、「もういい。もういいから!」と彩菜はあわあわと両手を振る。急に挙動不審になった彼女の姿に、「昔のことは気にしないんじゃなかったのかよ……」と、もう一人の幼なじみは呆れた口調でぼそりと呟いた。



 バスに乗って家路へと向かっていると、祖母から買い物を頼まれていたことを思い出し、彩菜は途中のバス停で降りることになった。優介も今日は用事があるみたいで、同じバス停で降りる。柚葉のお見舞いに向かう康平に手を振ってから、二人はまだ照り返しが強いコンクリートの道を歩き始めた。


「これから用事って、誰かと会うの?」


 ふと呟いた彼女の台詞に、優介の眉がピクリと動く。


「まあ……ちょっとな」


 少し間を空けてから答える彼の様子に、彩菜は一瞬小首を傾げた。そして「そっか」とだけ呟くと、再び前を向いて歩く。チラリと彼の横顔を見ると、何か考え事をしているのか、優介は難しそうな表情を浮かべていた。


 何かあったの? と聞こうとするも、その言葉はなかなか声になって出てこない。こういう時、優介が何も話さないのを、彩菜は経験上わかっていた。


 はあと小さく息を吐き出して俯く彼女に、今度は優介が口を開く。


「彩菜はたまにこの道を通るのか?」


「え?」と彼女は顔を上げると、再び優介の方を見た。


「んーおばあちゃんに買い物頼まれた時ぐらいかな。近くのスーパーって言ったらここしかないし……家の近くにもあったらいいのに」


 小さく唇を尖らす彩菜を見て、「確かにそうだな」と彼はクスッと笑う。その姿に、いつもの優介だと思った彩菜は、ほっと胸をなでおろすと同じように微笑んだ。


「優介は、最近も柚葉ちゃんのお見舞いに行ってるの?」

「ああ、だいたいは。康平には今日はいいぞって毎回言われるけどな」


「そうなんだ」と彩菜はクスリと笑う。康平と優介がそんなやり取りをしているところが、自然と目に浮かんだ。


「柚葉ちゃん、早く退院できるといいね。康平も喜ぶだろうし」

「そうだな」


 彼女の言葉に優介が返事をした時、彼が突然歩みをやめた。彩菜が「優介?」と振り返ると、彼は目を細めて住宅街の方を見ている。彩菜も同じようにその視線の先を辿って見ると、見覚えのある光景に気づいた。


「あれって……」


 そこにはつい先日訪れたばかりの空き地の姿があった。それは相変わらず住宅街の中にひっそりと溶け込んでいる。一見すると何の変哲もない空き地なのだが、彩菜はあの声のことを思い出してゴクリと唾を飲み込んだ。その隣では、優介が黙ったまま空き地の方を睨むように見ていた。


「優介……どしたの?」


 彩菜が心配そうに優介の顔を覗き込む。その言葉に優介は、「いや……」と歯切れが悪く答えると、彼女の顔を見た。その青い瞳が何となく、戸惑いを滲ませているように彩菜は感じた。


「彩菜……」と何か話出そうとした優介だが、小さく息を吸うと「いや……何もない」と言って再び歩き始めた。


「優介?」


 彩菜は彼の後ろ姿を見て呟く。何事も無かったかのようにその場を立ち去る優介に、彼女の心がぎゅっと締めつけられる。


優介の様子が少し変だったことに気付きながらも、そして何か言いかけていたのに、それを聞くことができなかった自分。ほんの少し前を歩く優介との距離が、どこまでも遠く感じる。


 もしかして、私は優介に必要とされてないのかな……。


 そんな不安が一瞬頭の中をよぎり、彼女は胸元で両手を握りしめた。頬を撫でる風だけが、彩菜の気持ちを優介へと届ける。「どうしたの?」と立ち止まって振り向く優介の顔は、悲しいぐらいにいつも通りだった。




 晩御飯を食べ終わった彩菜は、自分の部屋には戻らず、一人縁側に座っていた。月明かりの下では、虫たちの鳴き声が聞こえてくる。その音が、今日はやけに虚しく耳の奥に響いた。


 深くため息を吐いた彼女は、コトンと膝に頭つける。目を瞑ると、あの時の優介の顔が自然と頭に浮かんだ。普段あまり感情を出さない彼にしては珍しく、少し戸惑っていたあの表情。それを思い出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


「こんなところにいたのかい」


 その声に彩菜が顔を上げると、にこりと微笑んでいる祖母と、その足元には春月の姿があった。祖母はよいしょと言って彼女の隣に正座すると、その膝の上に春月が座る。


「……ねえおばあちゃん」


 彩菜がぼそりと呟く。


「私って、やっぱり頼りないのかな……」


 彼女は両膝を抱えると、小さく息を吐き出した。その言葉に祖母は、「何かあったのかい?」と優しい声色で尋ねた。


「……今日優介がね、何か思いつめた表情をしてたんだけど、私何も話しを聞いてあげられなかったの。優介も何か言おうとしてたのに、結局何もないって言うし……」


 彼女が話し終わるのを待つかのように、祖母は黙ったまま春月の頭を撫でている。


「ほら、私ってどんくさいし、あんまりいい事も言えないから……。そりゃ相談なんてしたくないよね。だから康平にもいつもからかわれてばっかだし……」


 自嘲気味に笑う彩菜を見て、祖母は静かに目を瞑る。そして、ゆっくりと口を開いた。


「想いなければ救える命なし」

「え?」


 突然呟いた祖母の言葉に、彩菜はきょとんとした表情を浮かべる。そんな孫の顔を見て、祖母が優しく微笑んだ。


「あの薬箪笥を作ったご先祖様の言葉じゃよ。相手を想う気持ちがないのなら、本当の意味で救える命はない。どんなに医学が進もうと、どんなに良い薬が作れたとしても、いたわる気持ちが無いのなら、心までは救われん」


 そう言って祖母は一呼吸置くと、再び目を瞑った。


「彩菜が今悩んどることは、人として一番大切なことじゃ。そう思えることの中にこそ、誰かの力になってあげられる全てがあるのじゃよ」


 にこりと笑う祖母を見て、彩菜は少しだけ口端を上げる。さっきまで淀んでいた心に、ふっと柔らかい風が吹いた。


「彩菜は、二人のことが大切なんじゃの」

「……うん」


 そう呟いて空を見上げると、満月が自分のことを見下ろしている。ちりんとなった風鈴と虫たちの鳴き声が、いつの間にか優しい音色に変わって耳の奥で響いていた。


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