第十一章「幼なじみ」

 翌週、彩菜は授業が終わるといつもの鞄と一緒に、パステルカラーがちりばめられた小さな紙袋も手に持った。甘いもの好きな真美に会った時は、すぐにチョコレートの有名なブランドだと気づいたようで、「男にあげるの?」と興味津々で聞かれたが、残念ながら違うと答えておいた。


ちょうどこの前の日曜日、駅前の広場でチョコレートフェスタがやっていたので、柚葉のお土産にと買っておいたのだ。


 教室のドアを開けると少し湿気を含んだ空気が、ぬっと喉元にまとわりつく。それを払いのけるように手の甲で拭うと、そのまま鞄からスマホを取り出す。康平たちに今日もお見舞いに行くのかと連絡しようとしたが、彼女は指先の動きを止めると、スマホを鞄に戻した。


 今日は柚葉ちゃんと二人で話しでもしよっかな。


 普段は四人で話すことが多いので、あまり柚葉と二人で話す機会はない。それに、彩菜の心の中では、以前柚葉が話していた優介のことも気になっていた。あれから特に彼女から優介のことは聞いていない。


ただ、彩菜自身も最近の優介の様子に、どことなく違和感を感じていた。あからさまに態度が違うわけではないのだが、何となく以前とは違うと感じてしまうのだ。


 優介、何かあったのかな……。


 窓から見える校舎の広場を見ながら彩菜は思った。広場では自分と同じ学生たちが会話したり、遊んだりしている。楽しそうにはしゃいでる学生を見ると、優介との違いを無意識に考えてしまう。


彼はあんな風に自分の感じていることを表現することはない。思っていることや考えていることは、いつも胸の中に秘めていて、誰にも話すことはないのだ。


 はあと彩菜はため息をついた。この前祖母に話しを聞いてもらって少しは心が楽になったとは言え、やっぱり彼の事を考えると寂しさを感じてしまう。幼なじみでずっと昔から一緒にいるが、なんだか自分が優介の力になれていないような気がして。


 彩菜は再びため息をつきそうになったので、いけないと首を小さく横に振った。そして気持ちを切り替えようと大きく息を吸うと背筋を伸ばした。今日は柚葉ちゃんに会いに行くのだから、自分が悩んでいる顔を見せるわけにはいかないのだ。



 病院に到着すると、相変わらずロビーは人で溢れていた。彼女は一階の受付に向かうと、入院患者専用の病棟に入る為のカードキーを受け取る。今日は康平がいないので、これが無いと入ることができない。


彼女はそのまま人混みの中を抜けて、エレベーターホールへと向かう。一人で訪れる病院は、何故だか心細く、三人で来る時とは違う場所のようにも思えた。


 七階に到着してエレベーターの扉が開くと、窓から差し込む夏の光が眩しく出迎えた。彩菜は一瞬目を細めると、陽光から逃げるように病室の方へと歩く。


一階で借りたカードキーを使って自動ドアを開け、真っ直ぐと柚葉のいる病室へと向かった。扉の前に到着すると彼女はノックをするも、中から彼女の声は聞こえてこない。疑問に思った彩菜はもう一度ノックをしたが、コンコンと虚しい音が響くだけで、やはり柚葉の声は聞こえてこなかった。


 どこか出かけているのかな?


 彩菜は扉の窓から中を覗こうとしたが、今日は珍しくカーテンがかかっていることに気づく。疑問に思った彼女は、真後ろにあるナースステーションへと向かった。


「あの……、七〇六号室の飯塚さんの面会に来たんですけど……」


 受付でカルテをめくっている看護師に尋ねると、「少しお待ち下さい」と言って、その女性は奥の部屋へと消えていった。そして神妙な面持ちで戻ってくると、咳払いをしてから言った。


「すいません。飯塚さんはただ今検査中のようでして……、本日の面会は難しいと思います」


柚葉ちゃんが……検査中?


 その言葉に彩菜の心の中で、ざわっと黒いものが動いた。彼女は、「そうですか……」と返事をすると、自動ドアへと向かって歩き始める。


 もしかして、容態がかなり悪化しているのか?


 エレベーターを待っている間、そんな不安が彼女の心をゆっくりと染めていく。頭に勝手に浮かぶ疑念を打ち消そうと、彩菜がぎゅっと拳に力を入れた時、目の前で開いたエレベーターから康平が現れた。


「あれ、彩菜?」


その言葉にパッと顔を上げた彩菜は、「あっ」と声を漏らす。


「もしかして柚葉のお見舞いに来てくれたのか? あいつなら今、検査中だ」

「柚葉ちゃん、身体の具合悪いの?」


 不安げに話す彼女に、康平は顔の前で大きく手を振ると、白い歯を見せて笑った。


「違う違う。ただの定期検査だって。具合悪いどころか食欲あり過ぎてお菓子ばっか食べてるから困ってるぐらいだ」


 笑いながら話す康平の言葉を聞いて、彩菜はほっと胸を撫で下ろした。


「良かったー。もう看護師さんが難しそうな顔して検査中だって言うから、具合が悪くなったのかなって心配したよ」


 はあと息を吐き出す彩菜に、康平は「心配し過ぎだって」と肩を叩く。


「悪いな。せっかく見舞いに来てくれたのに会えなくて」

「ううん。定期検査なら仕方ないよ。それに、元気そうなら良かった。でも康平は柚葉ちゃんがいないのに、なんでここに来たの?」

「ああ、俺はあいつの着替え持って来たんだ。家族はみんな忙しいからな。いつもパシリは俺がやってるんだ」


 わざとらしく嫌そうな顔をする彼を見て、彩菜はクスリと笑う。


「ほんとは大事な妹のことがいつも気になってるくせに」


 ぱん、と軽く康平の肩を叩くと「うるせーよ」というか言葉で返ってきた。


「あ、そだ。これ柚葉ちゃんに買ってきたから、また渡しといて」


 はい、と言って彩菜は彼には似合わないパステルカラーが散りばめられた紙袋を渡した。それを手に持つ康平の姿が面白くて、思わずぷっと噴き出す。


「やっぱ似合わないね」


 その言葉を聞いて顔を少し赤くする康平は、「似合ってたまるか」と強がった。


「あいつに何買ってきてくれたんだ?」

「チョコレートだよ」

「げ、また柚葉の奴。喜んですぐ全部食べるだろうな」


 怪訝そうな顔をする康平を見て、美味しそうにチョコを食べている柚葉の姿が頭に浮かび彩菜は微笑んだ。


「女の子は甘い物が好きなんだから、たまにはお兄ちゃんも買ってきてあげたら?」


 はいはいと愛想のない返事をした康平は、「そしたらこれは柚葉に渡しとく。ありがとな」と言って、今度はにっと笑った。


 彩菜は、荷物を置いてくると言った康平の後に続いて再び自動ドアをくぐると、柚葉の病室まで訪れた。彼女がいない部屋はひどく静かで、綺麗に整えられたベッドは、反対に心に押し込んでいたはずの不安をざわりと乱す。


そんなことを感じた彩菜はそっと視線をそらすと、ベッド横の小さなテーブルの上に、あのオルゴールがあることに気づく。


「柚葉ちゃん、これ聞いてくれてるんだね」


 彩菜の言葉に、着替えを棚になおしている康平が「ああ」と返事をした。


「どれだけ聞くんだよ、ってぐらい嬉しそうに聞いてるぞ。おかげで、俺までいつも耳の奥で鳴ってる気がするからな」


「何それ」とぷっと彩菜が笑う。彼女はオルゴールを手のひらに置くと、ゆっくりと蓋を開けた。隙間から流れ始めた柔らかい音色が、無機質な空間に溶けていく。懐かしいそのメロディと共に昔の記憶が蘇ってくる。彩菜はそっと目を瞑ると、しばらくの間、あの頃の思い出の世界に浸っていた。


「これでよしっと。そしたら行くか」


 康平の言葉を聞いてぱっと目を開けた彼女は、「うん」と返事をすると手に持ったオルゴールの蓋を閉める。


パタンと閉じた蓋は、メロディと一緒に記憶の続きも閉じ込めた。彩菜はそれをテーブルに戻すと、康平の後に続いて部屋を出る。たまたまさっきの看護師と目があったので、彼女は軽く頭を下げた。


「そう言えば、今日優介は?」


「ああ、アイツなら今日は大事な用事があるって言って、授業が終わるなりすぐに帰ったぞ。しかも小走りで」


「優介がそんなに急いで帰るのって珍しいね」


 病室の扉が続く廊下を歩きながら、彩菜は少し驚いたように言った。優介は柚葉のお見舞いに行かない時は、大体いつも授業が終わると図書室で勉強をしている。なので彩菜も授業が終わると、たまにこっそりと図書室に訪れては、優介と会えるのを楽しみにしていた。


「たしかにアイツがあんなに急いで帰るのは珍しいな……」


康平はそう言って「うーん」と意味深長に顎をさする。


「……もしかして女かもな」

「えっ!」


 康平のまさかの発言に、彩菜は目を丸くする。彼女の声に、周りにいる看護師や患者たちが視線を向けてきたので、彩菜は慌てて両手で口を塞いだ。


「ばか、どんなデカい声出してんだよ。そんなに驚く事ないだろ」

「だって康平がいきなり変なこと言うからでしょ」


 彩菜は少し頬を赤くして、恥ずかしさを誤魔化すように咳払いする。


「アイツ、けっこう女子受け良いからな。誰かと遊びに行ってたりして」


 康平は冗談のつもりなのか、そう言ってけらけらと笑っていたが、彩菜の心境はそれどころではなかった。あの優介が女の子と遊びに行くために急いで帰った。そんなことを考えるだけで、今度は顔が青ざめてしまう。


 康平の笑い声を聞きながら、彩菜も強がって笑おうとするも、「は、はは……」と魂が抜けたような声しか出てこない。ダメだ私の心……何とか、持ち堪えてくれ。


「どうした彩菜? 顔色、悪いぞ」


 エレベーターホールに戻った時、急に静かになった彼女を、康平が心配そうに覗き込む。「ごめん……ちょっとお手洗いに行ってくるから先に下で待ってて」と言って、彩菜はその場を離れた。そしてすぐ近くにあるトイレに入ると、手洗い場の鏡に向かって大きくため息をついた。


「はあ……何て情けないんだ、私……」


 康平の冗談をまともに真に受ける自分がダメだと思いながらも、頭の中では「もしかしたら……」と悪い考えがどうしても浮かんでくる。別に優介が誰と遊ぼうと、彼の自由だ。それはわかってる。わかってるけど……、もし本当にそうなら、私にとってもはや地獄だ。


「……気になる」

 

 鏡の中の自分に向かって呟くと、彩菜はガクンと頭を下げた。その拍子に、耳にかけていた髪の毛が肩へと流れ落ちる。再び顔を上げると、目の前には情けない自分の姿。このままじゃいけないと思った彼女は、両手で頬を軽く叩くと、「よし」と気合いを入れて康平のもとに戻ろうとした。


 その時、ふと窓の方を見て彩菜は足を止めた。トイレの奥には一面ガラス張りの大きな窓がある。エレベーターホールと同じく見晴らしの良いその窓からは、自分たちの町が一望できた。


彩菜はそっと窓に近づくと、そこからいつもの日常を見下ろす。四角い形に切り取られたガラス板からでも見渡せる小さな町。そんな限られた世界でも、自分が知らないことがたくさんある。そんなことを考えると、町の景色の中に優介の姿を無意識に探してしまう。


 何してんだろ、私。と彩菜が目を瞑ろうとした時、突然誰かに見られているような気配がしてはっと息を呑んだ。しかもそれは後ろからではなく、今自分が見ている方向からだった。


一瞬感じた違和感の正体を確かめようと、彼女は両目をきょろきょろと動かしながら辺りを見渡した。ビルや家、図書室に学校、見慣れた建物が続く中で、視点は徐々に自分がいる病院の方と迫ってくる。


 気のせいだろうか……。


 最近奇妙なことをよく経験するせいで、自分が過敏になっているだけかもしれない。そう思って窓から離れようとした時、病院の裏山の姿がチラリと視界に映った。それは小山ほどの大きさで、鬱蒼と生い茂る木々の葉に覆われている。


そう言えば、真美が言ってた山ってここだったっけ。


 以前、彼女が真剣な表情で話していたことを思い出した彩菜は、目を細めてもう一度その山を見る。特に変わったところはなく、草木が生い茂っているだけで、他の山と何ら変わりはない。イノシシならいそうだが、さすがに熊はいなさそうだ。


「やっぱり見間違いじゃないのかな……」


 小さく呟いた彩菜が視線をそのまま滑らせると、木々のわずかな隙間に何かがいるような気がした。すると大きな岩か大木かと思っていた影が、がさりと動いた。


「え?」


 彩菜はぐっと目を凝らした。草木が邪魔してよく見えないが、黒く影が塗られた部分に何かがいる。それはのっそりと動きながら、影と同化するように暗闇へと消えていってしまった。

 

 半ば呆然と見ていた彩菜だったが、はっと我に変えると、恐怖のあまり両手を胸の前で握った。そしてわずかに震える足でゆっくりと後ずさる。


「何……あれ」


 呟いた声が空間に小さく反響する。姿形はまったくわからないが、あれは確かに動いていた。しかも、かなり大きい。


「もしかして、真美の話しって本当だったの?」


 声にすればするほど恐怖心は大きくなっていくようで、彩菜は急いでトイレを出ると、エレベーターホールへと走った。何度もボタンを押した。「早く早く……」と何度もボタンを押すも、彼女の気持ちとは裏腹にエレベーターはゆっくりと上がってくる。


 チン、と音を立てて開いたエレベーターに乗り込むと、今度はすかさず一階のボタンを押す。そしてあらん限りの勢いで閉めるボタンを連打した。がちゃんと扉の閉まった密室の中で、彩菜の恐怖心はますます大きくなっていく。


 自分はたぶん、見てはいけないものを見てしまったのだ。 そんな思いがフロアを過ぎていくほど膨らんでいき、彩菜は身を守るように自分の体をきつく抱きしめる。


 いつもより遅く感んじるエレベーターが、やっと地上にたどり着くと、彼女は扉が全開になる前に飛び出した。自動ドアを抜けて一階の通路に出ると、出口のところで待っている康平の姿が目に飛び込む。


「康平!」と言って彼女は息を切らしながら走っていくと、その様子を見ていた彼が呆れたような口調で言った。


「そんなに焦らなくても置いてかないって」


半ば笑いながら話す康平に、彩菜はぶんぶんと首を大きく横に振る。


「違うの……。その、く、く……」


 人差し指を上に向けながら、言葉にもならない声を発する彼女に、康平は「ん?」と怪訝そうに首を傾げる。そんな彼の態度を見て、彩菜は大きく深呼吸すると、震える唇でもう一度言った。


「く……、熊を見たの!」


 はあはあと息を切らして言い切る彩菜に、康平は目を大きくしてパチクリとさせる。そして、今度はお腹を押さえて笑い始めた。


「おい彩菜、さすがに熊はないって」


 ははは、と一向に笑いがおさまらない康平の姿を見て、彩菜は顔を真っ赤にして怒り出す。


「ほんとに見たんだって! 病院の裏山にこんなおっきな熊がいたんだから」


 彩菜は自分の両手を広げると、必死になってその大きさを伝えようとした。それを見た康平は、息を整えながら言った。


「ないない。どうせイノシシか狸の見間違いだって。ほらあそこ、けっこうデカいやつもいるみたいだし」


 まったく信じてくれない彼に、「もう! 康平のバカ!」と彩菜は頬を膨らます。


「あのなー、あんなところに熊なんていたら、とっくの昔に大問題になってるって」


 落ち込む彼女を諭すかのように、康平が肩を叩いて言った。「でも……」と諦めのつかない彼女の姿に、康平は裏山の方を指差す。


「なら確かめに行くか?」


 まったく信じていない康平が、遠足に行くかのような口調で言ってきた。それを聞いた彩菜は、「絶対に行きません!」と何度も首を振った。


「怖い怖いと思ってるから、変なもん見たと勘違いするんだよ」

 

 ひょいとバス停の方に身体を向ける康平が言った。はあと彩菜はため息をつくと、「もういいよ」と少し拗ねた態度で歩き出した。理解してくれない康平に腹を立たせながらも、自分も真美の話しを信じなかったことに心の中で反省する。真美……ごめん。


 そんなことを思って目を瞑ると、あの影のことが頭の中に浮かんでくる。のっそりと動いた不気味な影は、イノシシやそんな類ではない。木々の影に隠れていたので、はっきりとはわからないが、二本足で歩いていたようにも見える。それに……。


 彩菜はついさっき見たばかりの光景を思い出して、ぶるっと肩を震わせる。あの大きな影は、暗闇に消えていく瞬間、こっちを振り返って見てきたような気がしたのだ。しかもその時感じた視線は、どうしてかわからないが、人間のそれと似ているような気もしたのだった。



 バス停までの道のりを歩く間、テンションが下がりっぱなしの彩菜に、康平は困り果てていた。あの手この手で話しかけるも、彼女は「うん」とか「そだね」と言った返事ばかりで会話にならない。


どうやら、さっきの件で頭がいっぱいのようだ。それでも根気よく話し続けた康平の努力の甲斐あって、バス停に近づいてきた頃には彼女の気持ちも、少し持ち直していた。


「柚葉ちゃん、一時退院はできそうなの?」


 やっと普段通りの彼女に戻ったのを見て、康平がほっとした様子で返事をする。


「ああ、今日の検査結果次第だけどな。まあでも本人もあれだけ元気だし、たぶん大丈夫だろ」

「そっか」


 明るい話題に、彩菜の心が少し軽くなる。さっき見た光景を忘れようとするかのように、彼女は続けて喋った。


「うちのおばあちゃんも、柚葉ちゃんが元気になったら家に遊びに来てほしいって言ってたよ」

「彩菜の家かー。昔は毎日のように行ってたもんな」

「そうそう。康平は悪さばっかりするから、よくおばあちゃんに怒られてたもんね」


 その時のことを思い出し、彩菜が指先を唇に当ててクスリと笑う。


「あれは絶対にお前らのせいだ。おんなじことやってんのに、なんでか俺ばっかり怒られてたからな」

「康平がどんくさいからだよ」

「うるせー」 


 こちらを振り向いてバツが悪そうに答える康平に、彩菜はクスクスと笑う。不思議とさっきまで感じていた恐怖心は影を潜めていた。


康平と話しをしていると、いつもそうだ。悩んでいる時も、不安な時も、康平と話しをするといつの間にか安心している自分がいる。たぶんそれは、康平がありのままの自分を受け入れてくれているからだろう。


 そんなことを考えていた時、少し前を歩く彼が背中越しに言ってきた。


「この前は……変なこと言って悪かったな」


 康平の言葉に、彩菜は「えっ?」と首を傾げる。すると彼は少し恥ずかしそうにチラッと見てきたかと思うと、再び前を向いて言った。


「だから……、誕生日のことだ」


 その言葉を聞いた彩菜が、目を伏せると今度は慌てた様子で返事をする。


「や、その、康平が謝ることないよ。それに、私の方こそはっきりしなくて……ごめん」


 顔がどんどん熱くなっていくのを感じながら彩菜が前を見ると、彼は何も言わずに歩いていく。


「その、康平のことが嫌いとかじゃないんだよ。誘ってくれたのも凄く嬉しいし、私だって康平と遊ぶのは楽しいから。ただ……最近色々とあって、悩んでるっていうか何というか……」


 伝えたいことがまったくまとまらない自分に嫌気がさしながらも、彩菜は必死に言葉を探す。チラッと前を見ると、康平の肩がわずかに震えていることに気づく。


「康平?」


 心配そうに見つめる彩菜の前で、康平は堪えきれずに声を出して笑い始めた。予想外の彼の反応に、彩菜は目をまん丸くして驚く。


「ちょっ……、人が心配してるのに何で笑うのよ!」


 顔を真っ赤にして怒る彩菜に、康平は「ごめんごめん」と言いながら、まだお腹を押さえて笑っている。「もう!」と彼女が頬を膨らませると、康平が振り向きざまに言ってきた。


「なんか、彩菜らしいなって思ってよ」


 そう言って彼はにっと笑う。


「どうせ私は、優柔不断で頼りないやつですよ!」


 唇を尖らせてそっぽ向く彩菜に、「そういう意味じゃないって」と彼は言葉を返す。


「彩菜なりに色々と考えてくれてんだろ。変に気を使わせて悪かったな」

「……」


 康平はそう言って再び前を向く。そんな後ろ姿を、彩菜は黙って見ていた。彼もきっと、自分のことを心配してくれたんだ。彩菜はそんなことを思って素直な気持ちを伝えようとした時、康平が立ち止まって振り返った。


「柚葉が退院したら、みんなで彩菜の家で遊ぶか!」


 夏の青空の下で響いたその言葉に、彩菜も「うん!」と元気よく返事をする。いつの間にか笑えるようになっている自分に気づき、彼女は心の中でそっと呟いた。


 ありがとう、康平。

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