第十二章「胸騒ぎ」
彩菜が家に到着すると、ちょうど和久が車から出てくるところだった。
「おうよ彩菜ちゃん! 今帰りか?」
「うん、そうだよ」
いつもの陽気な和久の言葉に、彼女はにこっと笑う。
「今日は空ビンの回収だけ?」と聞いた彩菜は、じーっと疑うように車に積み込まれている酒瓶たちを見る。そんな彼女の様子に、和久はくつくつと笑うと、「心配しなくても、今日は正真正銘、空ビンの回収だけだ!」と何故か威張って言った。
この人、ほんといつ会っても元気だな……。
彩菜は心の中でぼそりと呟くと、「なら良かった」とほっと息を吐き出す。前回の失態から学び、彩菜は玄関のすぐ近くに置いていた酒瓶を和久へと渡す。もちろん、蔵に入らないためだ。
「お! 今日は準備がいいな」と意気揚々に空ビンたちを箱に詰めていく和久は、ばたんと車のドアを閉めると、意味深な表情を浮かべてにっと笑う。
「な……なに?」
反射的に身構える彩菜は少し後退りした。すると和久はぐっと顔を近づけてきて、「実は報告があるんだ」と声をひそめて言ってきた。
「……報告?」
出た、おじさんのイタズラ話し! もはやトラウマとなっている和久のにやり顔に、彩菜はゴクリと唾を飲み込む。
そんな心境を察したのか、「いや、今日は立派な朗報だ!」とがははと豪快に笑い始めた和久に、彩菜は余計に眉をひそめた。
「なんと……男、溝口和久。この度ついに……パパになりました!」
「えぇ!」
まったく予想もしなかった和久の報告に、彩菜は目を見開くように丸くした。いつもお調子者で陽気な和久おじさんが、まさかパパになる日が来るなんて。
久しぶりに聞いた嬉しい話しに、彩菜は「おめでとう!」と満面の笑みをこぼす。
「いつ? いつ産まれるの?」
「今で三ヶ月ぐらいだからなー、たぶん来年の三月ごろだろうな」
「そっかー、とうとう和久おじさんもパパになるのか。なんかまったく実感がわかないや」
クスリと笑う彼女に、「おいおい彩菜ちゃん。そりゃどういう意味だ?」と和久が困ったような表情を浮かべる。そんな叔父を見て、「そのままの意味だよ」と彩菜は笑いながら答えた。
「ねえおじさん! 男の子? それとも女の子?」
「んなことまだわからねーよ。まあどっちにしても、俺に似て可愛い赤ん坊になるだろうけどよ」
そう言ってがははと笑うおじさんの姿に、これは間違いなく親バカになるだろうと彩菜は確信した。おじさんのことだから、きっとこんな感じで町のみんなにも報告してるのだろう。酒屋さんをやっていることもあり、この近辺に住んでいる人なら、叔父がこんな性格をしていることもだいたい知っている。
そんなことを考えていた時、ふと彩菜は顔の広い和久ならあの裏山のことについても何か知っているのではないかと思った。
「ねえおじさん。病院の裏山のことなんだけど……、あの山って熊とか出るの?」
おそるおそる話しを切り出す彩菜の言葉を聞いて、和久は目を丸くしたかと思うと突然笑い始めた。
「熊はさすがに聞いたことねえな。イノシシやタヌキならわんさかいるけど、熊は見たことねえ」
熊の話題がそんなに面白かったのか、和久はがははとまだ笑っている。それを見て彩菜は、叔父に聞いてしまったことを早くも後悔した。
「いきなりそんなこと聞いてどうしたんだ?」
「いや……ちょっと」
苦笑いを浮かべる彩菜は、はぐらかすように「何となく」とだけ答えた。こんな状況でもし熊を見たなんて話せば、この先ずっとネタにされそうだ。
「もしあんなところに熊がいりゃ、そりゃもうビッグニュースだな。呑気に酒なんて運んでる場合じゃねえ」
豪快に笑いながら、「いやーくまったくまった」と一人で盛り上がっている和久を見て、彩菜はもう二度とこの人には相談しないと心に固く誓った。
翌日の放課後、小テストが終わって頭を使い切った彩菜は、項垂れるようにバス停のベンチに座っていた。一応、勉強は毎日やっているものの、その結果はペン先に現れてこない。
「ああ……」と嘆くように空を見上げると、分厚い雲たちが、夏の空から青色を消していた。天気の悪さも相まって、ますます気分が落ちる。そんなことを考えていた時、バス停まで歩いてくる康平の姿が見えた。
「今日のテストがダメでしたって、顔に書いてるぞ」
「どんな顔よ、それ……」
会って早々に痛いところを突かれた彩菜は、ぷいっと顔を背ける。それを見て、「図星だな」と康平は笑うと彼女の隣に座った。
「まあ小テストなんだし、そんなに気にすんなよ」
「どうせ私は康平や優介みたいに頭が良くありませんからね」
「何だよそれ」
つんと答える彩菜に、康平が呆れたように笑った。
「優介は、まだ学校?」
「ああ、まだちょっと勉強するんだとさ」
そう言って康平は欠伸をすると両腕を伸ばした。
「あいつ最近、ちょっと様子が変なんだよな」
「康平もやっぱりそう思う?」
彩菜が不安そうに眉毛を八の字にする。康平が気にするぐらい、ここ最近の優介の様子はおかしいのだ。
学校で会ってもどことなく素っ気ないし、話しをしていても、どこか違うことを考えているように感じてしまう。柚葉ちゃんのお見舞いには欠かさず行っているようだが、康平いわく一人で先に帰ったり、病院に用事があると言って残ることもあるようだ。
「優介……何かあったのかな?」
ぼそりと呟く彩菜に、康平は「さあな」と答える。
「まあそのうち、いつもの優介に戻るだろ」
「うーん……だといいんだけど」
私が気にし過ぎているだけなのか、康平はそこまで不安には思っていなさそうだった。こういう時、彼の楽観的な性格が羨ましく思う。
「そういや……」と何か思い出したように、康平が再び口を開いた。
「またあの病院に変な患者が運び込まれたんだって」
「え……?」
てっきり優介の話しかと思いきや、まったく違う話題に、彩菜が怪訝そうな顔をする。しかも、自分が苦手なあの話しだ。
「それって……またお兄さんが言ってたの?」
「ああ。今回で五人目だって」
「そんなにも?」
そう言って彩菜は眉間に皺を寄せる。もし本当に原因がわからない病気だとすれば、かなり危ないのではないか。
「ねえそれってもし感染症とかだったら、私たちも危ないんじゃない?」
不安そうに聞く彩菜に、康平は「いや……」と一呼吸置いた。
「それが今回の患者には、何かに襲われたような傷があったらしい」
「……どういうこと?」
康平の話しに彩菜はぎゅっと身を固める。
「俺もあんまり詳しくは聞いてないんだけど、病気の症状よりも外傷の方がかなりひどかったらしい。大きな動物か何かに引っかかれたみたいなんだけど、それもはっきりとはわからないんだとさ」
その言葉に、あの裏山で見た変な生き物のことを思い出した。
「それって、もしかして熊とかじゃないの?」
彩菜が怪訝そうに聞くと康平は、「うーん」と考え込むように顎をさすった。
「どうなんだろな。もし彩菜が見たやつの仕業だったら、そうなのかもしれないけど」
「何よ康平、あの時は散々バカにしてたくせに」
ぷいっと彩菜がふくれた顔をする。
「仕方ねーだろ。まさかこんな事になるとは思わなかったしな。まあでも今回のことで役所も動いてるみたいだし、すぐに見つかるんじゃないか」
「はあ……、そんなの早く見つけてもらわないと困るよ」
彩菜は頭を抱えると大きくため息をついた。家には蔵、山には熊。それに空き地では変な声……なんだか、安心して過ごせる場所が無くなっている気がする。
うーんと唸り声を上げて頭を抱え続ける彩菜の隣で、「でも変なんだよな……」と康平がぼそっと呟く。
「変って、何が?」
もう十分変なことばっかりですけど、と言わんばかりの顔で彩菜が聞くと、彼は眉間に皺を寄せて真剣な表情で言った。
「今回の患者含めて、五人とも若い女の人らしいんだよ」
「……え?」
その言葉を聞いた瞬間、彩菜の背中にぞわりと寒気が走った。若い女の人、というのがどの程度の範囲なのかわからないが、間違いなく自分は該当するだろう。彩菜は一瞬自分が病院に運ばれる姿を想像して、ぶるっと肩を震わせた。
「それって……もしかして狙われてるのがみんな女の人だってこと?」
「いや、狙われてるって言っても外傷がひどかったのは今回だけだし、あとは原因不明の病気だから偶然じゃないのか? まあ何人かには身体に傷みたいなのがあったらしいけど」
「ほらやっぱり狙われてるってことじゃん」
絶望した彩菜が項垂れていると、それを見ていた康平が何故か笑い出す。
「彩菜は心配しなくても大丈夫だろ」
「なんでそんな事がわかるのよ!」
ムスっとした顔で彼女が聞くと、康平は自信たっぷりの顔で言った。
「そりゃお前、熊だって食べ物ぐらい選ぶって」
その言葉を聞いた瞬間、パシンと康平の背中を叩く音が、青空の下で軽快に響いた。
「彩菜や、今日も食べないのかい?」
夕食時、心配そうな顔をする祖母が覗き込んできた。
「うん……何だか最近あんまり食欲が無くて……」
「夏バテか?」
目の前でごくんと美味しそうに日本酒を飲んだ父が言ってきた。「んーどうだろ……」と呟く彼女は、さりげなく一升瓶を手前に下げる。
確かに最近の暑さにはまいっているが、今は違う事でまいっている。しかも、康平から変な話しを聞いてしまったせいで、余計に拍車がかかっていた。
彩菜は少し気持ちを切り替えようと、テレビのスイッチをつける。四角い画面にちょうど映し出された日本地図には、上から下まで傘マークで覆われていた。
「こりゃだいぶ降るな」
父が困ったような顔を浮かべて言った。その言葉通り、明日からの週末はここ最近では稀に見るほどの大雨予報となっている。そう言えば、今日の夕方から何だか怪しい雲が空を覆っていたことを彩菜は思い出した。
「うーん……せっかくの休みなのに……」
彼女がいじけたように唇を尖らすと、「まあそんな日もあるもんだよ」と祖母がゆっくりとお茶を啜った。その落ち着きある態度に感心しつつも、彩菜はぶうと膨れている。
「ちょうど良いじゃないか。明日からは家にこもって勉強できるな」
お酒を飲んで上機嫌なのか、いつもよりおしゃべりな父親を彩菜はむっと睨むと、「もうおしまい」と言って酒瓶を取り上げた。そのまま立ち上がって一升瓶を棚になおすと、彼女は残ったおかずにラップをして冷蔵庫に入れる。
「彩菜や、今日はちゃんと窓を閉めておくんじゃよ」
祖母の言いつけに彼女は「はーい」と返事をすると部屋を出た。縁側に出ると湿気をたっぷりと含んだ生ぬるい空気が身体を包む。
空を見上げると、夜でもわかる分厚い雲が月の光を見えなくしていた。流れの早いその雲に、明日は風も強くなりそうだと彩菜は思った。
「そう言えば、春月はちゃんと家に居てるのかな」
ふと目に入った蔵を見て、彩菜は気まぐれな我が家の黒猫のことを思い出す。動物の春月には雨が降る日がわかるようで、その時はちゃんと家の中にいる。だから、今も家のどこかにいるはずだ……、たぶん。
彩菜は何とはなしに辺りを見回すも、自分の周囲には春月の姿は見えない。一瞬探しに行こうかと考えるも、月明かりの消えた薄気味悪い庭の姿に、「今日は大丈夫だ……」と自分に言い聞かせて足早に自室へと戻った。
なんか、嫌な空気だな……。
まるでどこにいても纏わりついてくるような重たい空気に、彩菜は小さくため息をつくと、そのままベッドに寝転んだ。スマホで明日の天気を確認するも、やはり結果はテレビと同じで傘マークだけ。
下り坂になっていく気分を遮断するように、彩菜はスマホの画面を消すと、無理やり目を閉じた。自分の予報も当たっているのか、窓の外からは風の音も聞こえてくる。
「明日は大人しく家にいるしかないか……」
ぼそりと呟くと、彩菜は目を閉じた。暗くなった世界では、最近起こったことが勝手に浮かんでは頭の中で広がっていく。それらから逃げるように、彼女は布団の中に隠れた。暗闇の中でわずかに感じる胸騒ぎに、気づかないふりをして。
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