第十四章「彩菜の力」

「なんだか、やな雨だな……」


 彩菜は椅子に座り、窓の向こうでしきりに降る雨を見ながら言った。


勉強机の上にはばっちりと教科書とノートを広げているものの、そのページはさっきから変わっていない。


今にも落ちてきそうな雲を見て、彩菜はため息をつく。天気が悪いせいか、今日はずっと気持ちが滅入っている。それに、何故だか胸騒ぎもしていた。


 遠くで鳴る雷に、咄嗟に両手で耳を塞ぐ。昼前に比べるとだいぶマシにはなっているが、それでも雷が苦手なのは変わらない。


 そんな事を考えていた時、ふと雷の音と一緒に聞こえた妙な音のことを思い出して彼女は窓の外を見た。少し前に立て続けに雷が鳴っていた時に、一度だけ変な音が聞こえたのだ。


雷鳴にも似たその音は、地を這うような雄叫びにも聞こえ、一瞬背筋に悪寒が走った。胸騒ぎを感じ始めたのも、ちょうどその音が聞こえた時からだった。


 彩菜は何とは無しにスマホを手に持つと画面をタップする。今朝、優介と康平にメッセージを送ったのだが、いまだに返信どころか既読にもならない。それも、胸騒ぎを大きくする原因だった。


「何かあったのかな……」


 そんな事をぼやっと呟いた時、突如手に持っていたスマホが震えて、彩菜は慌てて画面を見る。するとそれは康平からの着信だった。


「もしもし」と電話に出ると、只ならぬ様子の康平の声がスピーカーから伝わってきた。


「彩菜! 優介が大変なんだ!」

「えっ?」


 彼女の心臓が、ドクリと音を立てた。


「優介が、どうしたの?」


 思わず大声になる彩菜の言葉に、康平がすぐに返事をする。


「今お前の家に向かってる! 詳しい事情は着いてから説明するから、彩菜のばあちゃんに薬箪笥を用意しといてくれって頼んでくれ!」

「ちょっと康平、どういう……」


 彩菜の返事を聞く前に、電話はプツリとそこで切れた。彼女はスマホを握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。


 優介が大変って、どういうこと? それに、薬箪笥って……


 彩菜の頭の中に、蔵に眠っている薬箪笥の姿が一瞬よぎる。事情はわからないが、康平の口調は只事ではない雰囲気だった。


彩菜はごくりと喉を動かすと、急いで部屋を出て一階へと向かった。そして居間に入るなり、「おばあちゃん!」と大声で呼んだ。


「どうしたんじゃ、そんなに慌てて」


 息を切らして入ってきた孫の姿に、刹子が驚いた表情で言った。


「おばあちゃん、優介が……優介が大変なんだって!」

「なんじゃと?」


 温和な顔をしていた祖母が、その言葉に険しい表情を作る。


「事情はまだわかんないんだけど、今こっちに向かってるって! それと、康平がおばあちゃんに薬箪笥を用意しといてほしいって」


 彩菜の話しに、祖母は一瞬目を大きくすると、「まさか……」と言ってすぐに立ち上がった。


「彩菜や、急いで蔵の扉を開けておくれ。わたしはその間に準備をする」

「わかった!」


 彼女は慌てて居間を出ると、傘もささずに庭へと降りて、蔵に向かって走った。遠くで雷の音が響くのも気にせず、蔵の入り口まで辿り着くと急いで鍵を開ける。


がしゃん、という音と共に扉を開けると、湿気を含んだ空気がぬるりと肌にまとわりつく。そのまま蔵の中に入って電気をつけた時、家の前から車のブレーキ音が聞こえてきた。


 康平たちだ!

 

 直感的にそう感じた彼女は、今度は急いで玄関の方へと向かった。


「康平!」


 車から降りてきた康平の姿を見て彩菜は急いで駆け寄った。それと同時に、運転席に座っていた和久も現れる。


「彩菜ちゃん! 優介が大変だ!」


和久の言葉を聞いて後部座席を開けると、そこには苦しそうに息をする優介の姿があった。


「優介!」


 彩菜は慌てた様子で彼の腕に触れると、指先から燃えるような熱さを感じた。


「ひどい熱……、康平、何があったの?」


 声を震わせる彩菜が康平の顔を見た時、玄関から祖母が現れた。祖母はそのまま優介の元へと駆け寄ると、彼の顔色を見る。


「やはり……、病の仕業か」

「彩菜のばあちゃん、優介は助かるのかよ!」


 康平が必死に声を荒げて聞く。


「わからん……じゃがことは一刻を争う。和久や、お前はすぐに優介の家へと向かってこのことを知らせるのじゃ。康平、彩菜! お前たちは優介を蔵へと運んでおくれ」


「病院に連れて行かないのか?」と慌てる和久に、「いいからお主は早く優介の家へと行くんじゃ」と祖母が一喝した。滅多に見ない祖母の緊迫した様子に、彩菜の心がますます不安になる。


 康平と彩菜は車から優介を降ろすと、彼を挟むようにして蔵へと向かった。意識はすでにないのか、どれだけ優介の名前を呼んでも答えない。


燃えるように熱い感覚だけが、優介の身体に密着する皮膚から伝わる。それはまるで地獄の炎のように、彼の身体を蝕んでいた。


「康平、一体何があったの?」


 彩菜が声を震わせながら聞くと、康平はぐっと唇を強く噛んだ。


「妖怪に、襲われたんだ……」

「えっ?」


 彼の言葉に、彩菜の頭は真っ白になる。優介が、妖怪に? まったく状況が飲み込めない彼女の様子に、康平は蔵へと向かいながら事の経緯を話した。


 柚葉が妖怪に連れ去られたこと。それを優介が助けてくれたこと。そして、その身代わりとなってしまったこと。


 彼の話しを、彩菜はただ黙って聞いていた。それはあまりにも現実離れし過ぎていて、すぐには理解できなかった。が、狼狽える康平の様子に、それは現に起こってしまったことなんだと実感する。


 蔵に着いた彩菜たちは、祖母の指示に従って薬箪笥の前まで優介を運んだ。病状はさらに悪化しているようで、優介の体温はさらに熱くなっていて、指先の皮膚が剥がれ始めていた。


「おばあちゃん!」と必死に叫ぶ彩菜に、祖母は手に持っていた小瓶の蓋を開ける。そしてそれを苦しみ続ける優介の口へと流し込んだ。


「これで助かるのかよ?」

「いや……病状がかなり進んでおる。おそらく祈祷水だけでは間に合わん」

「そんな……」


彩菜は震える両手で口を押さえた。目の前では、先程と変わらず優介が苦しそうに息をしている。すると今度は彼の両腕に、赤い文字が浮かび上がってきた。

八雲病やくもやまいか……、優介お主……」

「ねえおばあちゃん! 優介は、優介は助かるんだよね!」


 彩菜はそう言って祖母の腕を掴んだ。


「ダメじゃ……八雲病は強力な病の一つ。今のわたしの力では、治すことができん」

「そんな! 優介は、この薬箪笥を使えば助かるかもって言ってたぞ!」


 大声で叫ぶ康平が、薬箪笥の方を勢いよく指差す。


「たしかに、この薬箪笥には妖怪の病を治す力はあるが、それには使い手が必要じゃ」

「おばあちゃんじゃダメなの?」


 大粒の涙を流しながら、彩菜が言った。


「すまぬが彩菜、ほとんど霊力を失ってしまったわたしには、八雲病を治すほどの力は残っとらん。じゃが……」


 祖母はそこで深く息を吸い込むと、力強い目で彩菜を見た。


「彩菜、お前なら治せるかもしれん」

「え?」


 突然の祖母の言葉に、彩菜は目を大きくした。隣にいる康平も同じく、驚いた表情を浮かべて彼女の顔を見た。


「わたし、が……?」


「そうじゃ」と祖母はうなずくと、真剣な表情で話しを続けた。


「この薬箪笥は道端家の血を継ぐ者にしか扱えん。わたしにはできんとも、彩菜、お主ならできる」


「そんな……」祖母の話しを聞いた彩菜は、驚いた表情のまま薬箪笥を見上げた。私がこの薬箪笥を使って優介を助けるって?


「できないよそんなの! だって、薬箪笥の使い方だってわからないし、それに妖怪の病なんて……」


 狼狽える彩菜に、祖母は目を瞑ると首を横に振った。


「この薬箪笥は使い手の心に呼応する。お主が優介を助けたいと強く願えば、必ず力を貸してくれるはずじゃ。それに彩菜、お主は一度この薬箪笥を使って優介を助けたことがあるはずじゃ」

「えっ?」


 その言葉を聞いた瞬間、彩菜の頭の中に、蔵で見たあの映像が強くフラッシュバックする。



――早く助けないと、死んじゃう! ――



 あの声はもしかして、その時の?


 驚いたままの彩菜に、康平が彼女の肩を強く握った。


「できるのか、彩菜!」

「わからない、でも……」


 苦しそうに息をする優介の姿を見て、彩菜は胸の前でぎゅっと手を握った。


「おばあちゃん。私、やってみる。優介のことを、助けたい!」


 彩菜の決意を聞いた祖母は、「よし」と言って立ち上がった。


「そしたらすぐに準備を始めよう。彩菜、康平、二人でこの木箱をまずは動かすのじゃ」


 そう言って祖母は、薬箪笥のちょうど目の前にある白い布がかかった木箱を指差す。


「この箱を使うのか?」


 急いで木箱へと駆け寄った康平が聞く。


「いや、使うのはこの下にあるものじゃ」


 祖母の言葉に二人は顔を見合わせると、ゆっくりと木箱を持ち上げた。箱の中にはあまり何も入っていないのか、思ったよりも簡単に持ち上がる。そしてそのまま移動させた時、隠れていた床の姿を見て二人は思わず声を上げた。


「これって……」


 彩菜の視線の先、足元の床には、地を這うように文字が描かれていた。図を描くように書かれているその文書は、真上から見ると、円の中に六芒星があるように見える。


「何だよこれ……」


 同じように驚いた声を漏らす康平が、足元の図形を見る。そんな二人の様子を見た祖母が、口を開いた。


籠目紋かごめもん。魔除けの印じゃ。この中心に早く優介を」


 祖母の言葉に二人は急いで優先を図形の中心へと運んだ。


「よいか彩菜、薬箪笥はお主の心に呼応する。優介の胸に手を当て、強く念じるのじゃ」

「わかった」


 彩菜は優介の隣へと近づくと、恐る恐る彼の胸に両手を伸ばした。触れた手のひらには、シャツの上からでも感じる高熱と、かすかに響く心音が伝わってくる。


 彩菜はぎゅっと目を瞑ると、心の中で強く願った。



――お願い、優介を助けて――



 ぎゅっと目を瞑った暗闇の中で、ふわりと何かが頬を撫でた。さっきまで無風だったはずの蔵の中に、突然風の流れが生まれる。


彩菜が驚いて目を開けると、目の前では同じように目を丸くする康平の姿があった。静かに流れ始めたその風は、ゆっくと渦を巻くように、彩菜たちの周りを取り囲む。


その風に呼応するかのように、蔵の中にある木箱や骨董品たちが、かたかたと音を立てて揺れ始めた。


「な……なんだよ、これ」


 驚いたままの康平が辺りをきょろきょろと見回す。


「おばあちゃん、これって……」

「薬箪笥の封印が解かれようとしてる。彩菜や、もっと強く念じるのじゃ」

「わかった」


 彩菜は祖母に向かって強く頷くと、もう一度両手に意識を込める。そして目を瞑ると、心の中で願った。



お願い薬箪笥。優介を……優介を助けて。



 再び彩菜が願うと、蔵の中に吹く風はどんどん強さを増して四人を囲む。が、それでも薬箪笥にはなんの変化もない。すると突然優介が、胸を押さえながら激しく苦しみ始めた。


「優介!」


 悶え苦しむ彼の腕には、赤く光るように呪印が広がっていく。弱まっていく優介の心音に、焦りが彼女の心を支配する。


「おいばあちゃん! どうなるんだよ」

「ダメじゃ……、このままだと間に合わない」

「そんな……」


 彩菜は祈る思いで両手に力を込める。お願い神様、優介を助けて! そんな彩菜の想いを暗闇へと飲み込むかのように、優介の呼吸が徐々に小さくなっていく。


「だめ! このままだと優介が!」


 彩菜は薬箪笥の方を見るも、依然それは何も変わらない様子でこっちを見下ろしている。


「霊力がまだ足りんのじゃ……。彩菜! 薬箪笥の封印を解くには使い手の霊力を出し切る必要がある! 言霊を唱えるのじゃ!」

「言霊って……私そんなのわからないよ!」


 泣き叫ぶ彩菜に、祖母が力強く言った。


「歌じゃ! 言霊は歌によって使い手の力を解き放つ。その歌を、もうお主は知っておるはずじゃ」

「歌……」


 祖母の言葉を聞いて、彩菜の心の中にいつか見た母の姿が映った。


 お母さん、お願い。私に力を貸して!


 彩菜は再び両手に力を込めると、ぎゅっと目を瞑った。そして、母からもらったあの歌を、思い浮かべた。


「ひとつかぞえて月の唄、ふたつかぞえて華の色……」


 彩菜の言葉に合わせるかのように、風はますます強くなり、辺りでは物が倒れる音がする。


直後、激しく揺さぶられていた電球の光が消えて、辺りは暗闇に包まれた。それでも彩菜は、祈るような思いで言葉を続けた。


「みっつかぞえてあなたを想えば……いつか見た日に舟をうかべる」


 突然、彩菜の背後で何かが弾ける音がしたかと思うと、無数に伸びる青白い光が周囲を包んだ。


薬箪笥の引き出しから生まれるその光は、幾重にも重なりながら、優介の身体に集まってくる。


 戸惑う彩菜の頭の中で、忘れていた過去の記憶の扉が開く。青白い光に包まれた蔵の中の映像は、これだったんだ。


 彩菜はもう一度ぐっと両手に力を込めると、ありったけの思いで願った。


 

 薬箪笥。どうか優介を、私の大切な人を、助けて!



 唱えられた願いは、光の強さになって周囲に現れた。吹き荒れる風が薬箪笥に貼られた御札を引き離し、そこから新たな光が生み出されていく。その光が優介の身体へと入っていくと、彼の両腕に現れた呪印が徐々に消え始めた。


 刹那、閃光にも似た強烈な光が辺りを包み、彩菜たちはあまりの眩しさに目を瞑る。

 

 柔らかい光に包まれた世界の中で、彩菜は懐かしい母の声を聞いたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る