第十五章「道端家」

 目が慣れるまで、どれくらいの時間が経ったのだろうか。彩菜が再び瞼を開けると、そこにはいつもと同じ蔵の姿があった。


風はやみ、青白い光もなく、周囲にはただその痕跡を残すかのように割れた陶器の破片や、木箱が転がっていた。


「ここは……」


 聞き覚えのある声に彩菜が手元を見ると、そこにはうっすらと目を開ける優介の姿があった。


「優介!」


 上半身を起こした彼に彩菜は抱きつくと、肩を震わせながら彼の名前を呼んだ。優介の身体から、じんわりと人の温もりが伝わってくる。


「治った……のか」


 呆然とその様子を見る康平に、「これは一体……」と優介が不思議そうに呟く。


「彩菜がお主を助けてくれたんじゃ」


 優介に近づく刹子が、優しく微笑みながら言った。その言葉に、「彩菜が?」と優介は驚いた表情で、胸元で泣いている彼女の顔を見た。


「そうじゃ。薬箪笥の封印を解いてな」

「えっ?」


 祖母の言葉に、優介は薬箪笥を見た。そこにはほとんど御札が残っていない薬箪笥の姿があった。自分の胸元で泣き続けている彩菜にそっと視線を戻すと、優介は「ありがとう」と呟いた。


「優介が……優介が死んじゃうかと思った」


 両目から大粒の涙を流す彩菜は、ぎゅっと彼の手を握りしめる。


「彩菜のおかげでもう大丈夫。病も消えた」


 そう言って彼は自分の両腕を見ると、そこにはもう赤い呪印の姿はなくなっていた。


「しかし優介や、八雲病は大妖怪の病の一つ。それを身体に取り込むなど、無茶をし過ぎじゃ。彩菜がいなければ、死んでおったぞ」


 先程まで穏やかな表情をしていた祖母が、目を細めて優介を睨んだ。「すいません」と俯く優介に、康平が慌てて答える。


「ち、違うんだ彩菜のばあちゃん。こいつは柚葉を助けてくれて……」

「どんな理由であれ、自分の命を粗末に扱うことは許されん。優介、これからは一人で無茶をするでないぞ。康平、彩菜、お前たちもじゃ」


 ぴしゃりと話す祖母の言葉に、三人は「はい」に背筋を伸ばす。それを見て祖母は再び表情を崩すと、「みな大切な孫たちじゃからな」と幸せそうに笑った。それにつられて三人も互いに顔を合わすと、同じように笑った。



 その後、和久が優介の家族を連れてきて、祖母がことの事情を説明してくれた。ただ、薬箪笥のことや妖怪のことは、他の人たちには内緒だと祖母は私たちに言った。


優介の家族と康平が、そのまま和久の車に乗って帰っていった後、彩菜は祖母と二人で蔵の後片付けをしていた。


 つい先ほどの出来事のはずが、あまりに衝撃的だったせいか、実感が湧いてこない。


 割れた破片を箒で集めながら、彩菜はそんなことを考えていた。いつの間に入ってきていたのか、そんな彼女の視線の先では、薬箪笥の足元で春月が毛づくろいをしている。


彩菜は「もう」と言いながら、そっと薬箪笥を見上げた。それはいつもと変わらず、ただ静かに自分のことを見下ろしていた。


「ねえおばあちゃん、この薬箪笥って一体……」


 隣で一緒に薬箪笥を見ていた祖母が、その視線を彩菜へと移す。


「そろそろ彩菜にも話す時期だと思っとった」


 祖母はそう言って深く息を吸うと、静かに話し始めた。


「わしら道端家はこの薬箪笥を使って妖怪の病を治してきた。それは彩菜、お前の母親の代まで続いていた」

「え? 私のお母さんも?」

「そうじゃ。わたしも、そしてお前さんの母も、この薬箪笥を使って現代に生きる妖怪の病気を治してきたのじゃ。それがご先祖様である、薬宝寺様の願いだったからの」

 

 祖母の言葉を、彩菜は驚いたように黙って聞いていた。おばあちゃんだけでなく、自分の母も、この薬箪笥の秘密を知っていたなんて。


「ちょ、ちょっと待って。じゃあ妖怪って、今もいるってこと?」


 急に肝心なことを思い出した彩菜は、ぎょっとした目で祖母の顔を見た。


「もちろんじゃ。妖怪は古い伝説上の話しではなく、人間と同じように今も暮らしておる。ただそれは、彩菜が想像しているような姿はしとらんよ。かれらのほとんどが、今は人と同じような姿で生きておる。古くから土地を守る、大妖怪は別としてな」


 まったく想像ができない話しに、彩菜は固まったままごくりと唾を飲み込んだ。妖怪が自分たちと同じ姿をしていて、今も生きてるって?


「じゃあ優介って……」


 彩菜がまさかといった目で祖母を見た。


「あの子は人間じゃが、妖怪の血も引いておる。だから山の大妖怪に連れ去られた柚葉の事を見つけることができたんじゃろう」


 その話しを聞いて、彩菜はぽかんと口を開いたままだった。まさか、ずっと昔から一緒に過ごしてきた優介にそんな秘密があったなんて。驚いたままの彩菜に、祖母が話しを続ける。


「あの子はお前さん達にも、その事を隠しておった。ずっと自分が妖怪の血を引いている事を嫌がっていたからのう。きっと怖がられると思ったんじゃろう。それに、昔の柚葉の一件もあったから、康平には余計言いづらかったはずじゃ」

 

 そう言って祖母は少し寂しそうな表情を浮かべた。


「妖怪の血を引く者は、特別な力を使うことができる。優介が耳が良いのも、それが理由じゃ。ただどうしてもそのことで、忌み嫌われたり、奇異な目で見られることの方が多い。だから彼らは自分たちが妖怪の血を引いていることを誰にも言わず、ひっそりと生きてるのじゃ」

「そうだったんだ……」


 今まで優介が自分のことをあまり話さないのには、そんな理由があったんだ。彩菜は、自分が彼の苦しみを理解できていなかったことに、胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。


「特に優介の家系は少し変わっているからの。余計に自分が妖怪の血を引いてることが嫌じゃったんだろう」


 ぼそりと呟いた祖母に、彩菜は目を伏せる。


「わたしも、わたしの娘も、随分とそんな妖怪を見てきた。受け継がれた血ばかりは、どうすることもできん」


 そこでふっと顔を上げた彩菜は、気になっていることを祖母に聞いた。


「お母さんって、どんな人だったの?」


 昔の母の記憶。彩菜にとってそれは特別なもので、ずっと気になっていた。彼女の質問に、祖母はそっと微笑んだ。


「お前さんの母、奈緒子は優しい子じゃったよ。道端家の教えを守り、幼い頃からたくさんの妖怪を救ってきた。ゆえに、多くの妖怪からも慕われとった」


 愉快そうに笑う祖母の姿を見て、彩菜の心にも嬉しさがこみ上げてくる。自分にとって優しかった母は、同じように大勢の人からも慕われていたんだ。


「それに奈緒子は、道端家に伝わる力も強く受け継いでいた。わたしにはどうすることもできない病も、あの子がよく治してくれた」

「お母さんって、そんなに凄い人だったの?」


 彩菜が驚いたような顔で祖母を見た。


「そうじゃよ。それに幼い時からわんぱくな子で、よう無茶ばっかりしとった。怪我や病をしている妖怪を見つけては、しょっちゅう家に連れてきとった。さすがに夜中に連れてきた時は、わたしも驚いたよ」


  困ったような笑みを浮かべる祖母を見て、彩菜はクスッと笑った。ほとんど母親と過ごしていない自分にとって、祖母からそんな話しを聞けるのは新鮮で、母を身近に感じているような気がして嬉しかった。


「でもおばあちゃん、そんなにたくさんの妖怪を助けてきたのに、どうしてこの薬箪笥を封印しちゃったの?」


 彩菜の疑問に、祖母は小さくため息をつくと薬箪笥を見上げた。


「お主の母、奈緒子がいなくなってから、強い力を使える者はおらんかった。この薬箪笥を使うための霊力は、歳と共に衰えていく。今のわたしにほとんど力が残っとらんのはそのせいじゃ。それに、妖怪たちも昔に比べると、どんどん減ってきておる。彩菜や、お前さんはまだ幼かったし、菜穂子がいなくなった時に、道端家の伝統も終わりにしようと決めとった。じゃが……」


 祖母は一呼吸置くと、柔らかい目で孫の顔を見た。


「お主がまたこうやって、一つの命を救ってくれた。それをわたしは誇りに思うよ」


 そう言って祖母は嬉しそうに笑った。


「それに彩菜、お前さんにはどうやら特別な力があるようじゃ」


 突然の祖母の言葉に、彩菜は「えっ?」と驚いた表情を浮かべる。


「私に、特別な力が?」


 そう言って首をかしげる彩菜に、祖母は「うむ」と深く頷く。


「そうじゃ。奈緒子と同じ、強い力を持っとる。ほれ、あそこを見てごらん」


 祖母は小さな腕を上げて、薬箪笥の上段を指差した。その指先を追うように、彩菜も薬箪笥を見上げると、上段の右端にある引き出しが目に映った。


「この薬箪笥はな、霊力に応じて引き出しが開くようになっておる。そして上段にいくほど、強い病が治すことができるようになる。彩菜が今回治した病は八雲病と言って、大妖怪の病の一つ。特別な力を受け継ぐ者にしか治すことができんのじゃよ」


 私に……特別な力?


 ゆっくりと語ってくれる祖母の話しを聞いても、彩菜には実感が湧かなかった。あの時は優介を助けたい一心で、必死になって願っていた。それが私の中にある力なのだろうか。


「うーん」と不思議そうな顔を浮かべる彩菜を見て、祖母がくつくつと愉快そうに笑う。

 

「今は実感がなくとも、いずれ彩菜もわかるようになる日がくるはずじゃ。それに、お主は二度も優介の病を助けたんじゃからの」 


 その言葉に彼女は、「あっ、」と何か思い出しかのような声を発した。


「私、その時のこと思い出したの。確か、優介のお母さんが慌ててやってきて、傷だらけになった優介を蔵に連れてきた。私、気になってこっそり蔵に入ったけど、そんな優介の姿を見てびっくりして……」


「あの時も、優介を救ってくれたのは彩菜じゃ。泣き叫ぶお前さんが、この薬箪笥の力を使ったのは本当にびっくりしたよ」


 そう言って祖母は愉快そうに喉を鳴らした。


「あの時のお前さんを見て、わたしは思ったんじゃ。もしかしたら、この子が道端家に伝わる大願を叶えてくれるかもしれんとな」

「道端家に伝わる……大願?」


「そうじゃ」と祖母は返事をすると、薬箪笥に腕を伸ばす。そして愛でるように優しく撫でた。


「この薬箪笥を作った、薬宝寺様の願い。妖怪の血を受け継ぐ者を、人間に戻すという願いをな」

「妖怪の血を受け継ぐ者を……人間に戻す?」

「うむ。それがどういった薬なのかはわたしにもわからないが、道端家の言い伝えではそんな教えも受け継がれておる」

「それって……、優介が人間になれるってこと?」


 その言葉を聞いて祖母は優しく微笑むと、「かもしれんの」と呟いた。


「じゃが、一番大切なことは、相手を想いやる気持ちじゃ。その想いこそが、本当に苦しむ者たちを救うことができるからの」


 にこっとこちらを見て笑う祖母に、彩菜も同じように微笑み返す。


「私は、優介が好き。それは何があっても変わらないよ。だから、優介がもし妖怪の血を引いてるんだとしても、絶対に嫌いになったりしないから」


力強く言い切る孫の言葉に、祖母は優しく微笑む。そして、そっと薬箪笥を見上げた。 


「彩菜がそう想える気持ちがあるのなら、いつか道端家の願いも叶うかもしれんな」


 祖母の話しを聞きながら、彩菜も薬箪笥を見上げた。小窓から差し込む陽の光を受けて輝く家宝の姿に、彩菜は遠い日のご先祖様たちに想いを馳せた。


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