春:殺人鬼たちの邂逅 3



夏目と雪町の担当は、第二週の月曜日になった。

班決めが行われた時点で四月の第二月曜は過ぎていたため、初当番は翌月、五月の第二月曜日になる。夏休みに二回も登校しなければいけない月末組に比べれば遥かにマシだが、初当番がゴールデンウィーク明けというのが問題だった。

ただでさえ連休明けの登校は憂鬱なのに、その憂鬱を割り増ししたくない。

昼と放課後、合わせても二時間ほど、カウンターで肩を並べるだけ。

それだけと言ってしまえばそうなのだが、その間、ずっとフラストレーションをためることになるのは目に見えている。精神衛生上よろしくないし、帰り道に殺しかねない。

――――だから。


連休の前夜、夏目は誰かを殺すことにした。


「ちょっとコンビニ、行ってくるね」

 午後十一時。フードがついたパーカーを羽織って玄関に立てば、リビングでドラマを見ていた母が廊下に顔を出した。

「こんな時間に? 危ないわよ」

「平気だって。自転車使うし」

「もう。早く帰ってきなさいよね」

「はーい」

一人娘がこうして夜の散歩に出るのは初めてではないため、母の引き留めもさほど熱が入っていない。簡単なやりとりだけで了承し、顔をリビングに引っ込めた。

ドラマの続きを見始めた一児の母は、露ほども知らない。

キッチンの刃物入れから、果物ナイフがなくなっていることを。

その果物ナイフを、娘が服の下に忍ばせていることを。

実の娘が、今から人を殺しにいくことを。

コンビニに行くという言葉が、方便であることくらいは気づいているだろう。しかし、母が脳裏に浮かべているのはおそらく、思春期の娘というテンプレートに沿ったものだ。その裏にあるのが殺人鬼の行動だと察するには、夏目の母はあまりにも普通の人間すぎた。

「いってきます」

それに一抹の申し訳なさを感じながら、夏目は家を後にした。

通学にも使っている自転車に跨り、夜の街を移動する。

家から近すぎてもいけないが、遠すぎてもいけない。適当に家からの距離を稼いでから、店じまいをしている料理店の前に自転車を停めた。

道端では場所を思い出しづらく、まだ開いている店の前だと人目につく。

その点、駐車場の小さい料理店の前などは良い置き場だった。

獲物を見つけやすい路地が近くにあるのも、都合が良い。

(……さて、と)

自転車を停めてしばらく歩いた後、フードを被る。

マスクにサングラスやヘルメットほど、露骨な目印にはならず。しかし、顔を目立たなくするにはそれらに準ずる効果を発揮してくれる。フードを下ろすだけで印象をがらりと変えることもできるので、夏目はこのパーカーを愛用していた。

それから、ポケットに入れていたハーフフィンガーグローブ。これを右手にはめる。

汗でナイフが滑り、殺し損ねてしまわないよう。そのためだけに、装着する。

最後に袖の下に果物ナイフを隠しておけば、準備は完了だ。

あとは、不幸な犠牲者と出会うだけ。

空気中の水分によって、霞みがかって見えるという、春のおぼろ月。

曖昧で不確かで、どこか不安な気持ちにさせる月明かりを感じながら、人気や電灯が少ない夜道を進む。そうして十分ほど歩いていると、離れたところに人影を見つけた。

薄闇の中でぼんやりと浮かぶシルエットは、おそらく女性。

仕事帰りのOLだろうか。足取りは鈍く、遠目からでも疲れた風情を漂わせているのがわかる。猫背気味になっているその背中を、少し眺めた後。

(あれにしよう)

今夜の獲物として、定めた。

歩幅を大股にし、されど接近しているのを気取られないよう注意を払いつつ、徐々に距離を詰めていく。女性の歩調が遅いのもあって、両者の距離は思いのほか早く縮まった。

「――――」

残り、数メートル。

果物ナイフを持った右手が疼く。

それはさながら、空腹の状態で好物を前にした時のような。

それはさながら、安眠を約束する心地よい寝具に寝転んだ時のような。

それはさながら、好意を寄せた異性の前で子宮が疼く時のような。

肉体の生存を促す。そのために付随された欲求の発露を待ちわびる、疼きであった。

(――アハッ)

心の中で笑みを零す。

同時に、女性の首めがけて刃物を振るった。

日頃丹念に研いでいるナイフは、今夜も殺人鬼の望む切れ味を発揮する。女性の髪ごと、皮膚ごと、肉ごと、頸動脈を切り裂き――赤い花びらを薄闇に散らせた。

「ぇ、ぅ、ぁ?」

血が噴き出す音に混じって、呆けたような声が聞こえる。

肉体の驚愕だけが先走っているのか、女性の体がふらつくように前へと傾ぐ。その後押しをするように、一歩下がって足の腱を斬りつけた。

さらに飛び散る、赤い血の花。

地面に落ちる、痛みを訴えるくぐもった声。

女性の倒れる音が、一際大きく響く。けれどそれも、誰かに異常事態を気づいてもらえるほどの音ではない。悲鳴を上げられれば話は違ってくるだろうが、そうさせないために喉を斬るのが夏目の人殺しの手順だった。

「ぁ、ぁ、ぅ、ぐ…?」

とはいえ、倒れ伏した女性は未だ混乱から抜け出せず、疑念に彩られた目を彷徨わせる。

なぜ、どうして、何が、一体、どういうことなのか。

様々なWhyの言葉が、彼女の中では渦巻いているのだろう。

しかし、その答えに辿り着くには、残された時間はあまりにも少ない。地面に広がっていく赤い血だまりが、それを如実に物語っていた。

人は――血を流しすぎれば、死ぬのだ。

ほどなくして声も上がらなくなり、小刻みにわなないていた体も静止する。

死んだのだと、殺したのだと、殺人鬼は肌でそのことを感じ取った。

「……はぁ」

それを見て、夏目の口から吐息が零れた。

さながら、水中から出た人間が、待ち望んでいた呼吸をした時を思わせるそれ。久方ぶりの人殺しが、夏目にとっては呼吸に等しいことの証左でもあった。

人を殺したという実感と共に、生きているという実感が、殺人鬼の心を充足させる。

もう一度息をつきながら、果物ナイフを軽く振るう。ぴちゃりと、ナイフの刃についた血が飛沫となって、地面に叩きつけられる音が響いた。

残りの血は後で拭おうと、ひとまず自転車を停めた場所に戻るため踵を返す。

「っ」

直後、強めの春風が吹き、とっさにフードを左手で押さえた。

雲が流され、空に浮かぶおぼろ月が隠される。

夜の帳がその厚みを増し、周囲の夜闇が濃くなった。

暗さに慣れた視界でも、見通しが悪くなる。血だまりにも、死体にも、夏目の姿にも、夜の闇のヴェールが覆いかぶさっていく。

――――しかし。


数メートル離れた場所に立つ『誰か』の姿だけは、はっきりと視認することができた。


「……っ⁉」

「――――」

夏目のようにフードを被った、上背の高い人物。

おそらくは男性だろう。様子を伺うように、夏目を見ている。

(見ら、れた……⁉)

まず脳裏によぎったのは、それ。

距離を考えると、ほぼ確実に殺害の現場は目撃されている。夜闇の中とはいえ完璧な暗闇には程遠く、加えて先ほどまでは月も出ていたのだ。ごまかせるとも思えない。

次いで浮かぶのは、口封じをせねばなるまいという考え。

だがそれは、ほどなくして一つの疑問に取って代わられる。

人殺しの瞬間を見られた。それは間違いない。

しかし、そうだとするなら男性の様子は不可解だった。

(……なんで、逃げないの?)

逃げもせず、声を上げることもなく、黙って夏目を見ている。

殺人現場を目撃した者の反応としては、明らかにおかしい。

仮に人殺しの瞬間が見られていなかったとしても、誰かが倒れていることは夜闇の中でもわかるだろう。それに対して無反応なのも不自然だ。

驚愕が強すぎて、体が反応しきれていないのかとも考えた。

けれど、男性の纏う静かな雰囲気がそれを否定する。

「……っ」

得体の知れなさに、思わず息を呑んだ。

音は思いのほか大きく響き――それを合図に、男性が一歩、踏み出した。

その時、体の陰に隠れ、今まで意識が向かなかった右手が露わになる。その手が握っているものを見て、男性の右手は隠れていたのではなく、隠されていたのだと理解した。

彼の手には、ナイフが握られていた。

アウトドアに用いられる、刃渡りの短いタクティカルナイフ。その柄を握る手にはめられているのは、夏目がつけているものに酷似したハーフフィンガーグローブ。持ち運びの利便と、滑り止めだけを追求したことが一目でわかるその姿は、まるで鏡合わせのようだった。

「――」

「――」

驚愕と困惑の後にやってきた戸惑いの感情に、夏目の体が強張る。

そして、相手はそれを見逃さなかった。

二歩目の踏み込み。同時に、男性は夏目に向かって駆け出す。

数メートルの距離は瞬く間に埋まる。気づけば目の前に彼がいて、ナイフを持った右手を、夏目めがけて勢いよく振り抜こうとしていた。

夏目柚木は殺人鬼で、運動神経だって良い方だ。

しかし、あくまでそれだけ。ひとでなしであっても超人ではない少女に、不意打ち気味に放たれた、近距離からの凶行を回避する手段などありはしない。そう、本来ならば。

「――――っ」

けれども、夏目の目にはその腕が、さながらスローモーション映像のように見えた。

特別な身体能力がなくとも、特異な動体視力がなくとも。動作自体がゆっくりと見えるのならば、例え後手に回っていようともいくらでも対処のしようがある――!

一拍遅れて、夏目の右手が動く。握ったままだった、ナイフの柄を強く握りしめ直す。

そして、柔らかな腹を裂かんとしていたナイフを、自身が持つナイフの峰で受け止めた。

金属と金属のぶつかる不快な音が、夜の帳に響き渡る。

夏目は驚かなかった。

男性が息を呑んだのがわかった。

そして、今度は夏目がその一瞬を突く。手首を動かしてタクティカルナイフを軽く弾くと、すかさず自由になった果物ナイフで男性の腕を斬ろうとした。

一拍後には、血が飛び散っていたはずだった。

けれど、ナイフが果実のように腕を斬るよりも早く、男性の体が一歩分飛び退く。

女性の血がこびりついたままのナイフが、虚しく空を切る。回避を間に合わせない速さで振り下ろしたはずなのに、まるで最初からわかっていたかのように、男性は凶刃から逃れた。

再び夏目が瞠目する。

そしてまた、男性がその隙を突くようにもう一度距離を詰めた。

頸動脈を狙ってナイフが振るわれる。止まって見えるそれを弾く。背丈差を利用して足の腱を斬りつけようとする。予想していたかのようにその足が振り上げられる。ナイフを叩き落そうとする足を最小限の動きで交わし、無防備になった懐に潜り込もうとする。懐に潜り込ませた頭めがけてナイフが振り下ろされる。回避するように脇を通り抜ける。背中にナイフを突き立てようとする。素早く踵を返されてナイフの腹で受け止められる。

二振りの凶刃が躍り、そしてどちらも相手には届かない。

予定調和のように、まるでそういう舞踏であるかのように。

それはひどくもどかしく、同時に。

「――アハッ」

「――ふっ」

思わず笑ってしまうくらいには、奇妙で深い昂揚があった。

そして、相手も同じように笑みを零したことに、言い知れぬ心地よさを覚えた。

胸に落ちた心地よさの余韻を味わいたくて、一歩後ろに下がる。男性も同じことを考えたのだろう。彼もまた同時に一歩下がり、二人の間に二歩分の距離が生まれた。

「……」

「……」

夏目は彼を見つめた。

彼も夏目を見つめた。

直後、春の空気を纏う強風が、二人の間を通り過ぎた。

押さえる手はどちらも間に合わず、風が被っていたフードを脱がしてしまう。春風は同時に空からも雲を取り払い、ぼんやりとしたおぼろ月の姿をさらけ出させた。

二人の距離はわずか二歩分しかなく。

顔を隠していたフードも、夜闇のヴェールも、今しがた消えた。

互いの顔が、露わになる。

――――そして。

「…………雪町、先輩?」

「……夏目?」

それが見知った顔であることに、二人して驚嘆の表情を浮かべた。


暦が、春から初夏へと移り変わろうとしていた日の夜。

二人の殺人鬼は、こうして出会った。

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