夏:殺したがりの手、さわれなかった手 4



長期休暇中のカウンター当番は、何年図書委員をやっても憂鬱だ。

それでも、これほど行きたくないと思ったのは初めてだと。

強い日差しが照りつける中、そんなことを思いながら雪町は学校に足を運んだ。

長期休業期間でも土日以外は開館しているため、図書委員もそれに合わせてカウンター当番をこなさなくてはならない。さすがに拘束時間は短く、担当するのは放課後に当たる時間のみになる。だが、それに忠実に登校すると一番暑い時間帯を歩かなければならないので、毎年図書委員の半数は早めに行って図書室で涼み、半数はそもそも登校しないことを選ぶ。

雪町は、一昨年と去年は早めに登校して暑い時間を避けた。

だが今年は登校自体を躊躇していたため、覚悟を決めたころには太陽は天高く昇っていた。

「暑い……」

顎を伝わって滴らんばかりに噴き出る汗を拭いながら、熱気のこもった廊下を歩く。

図書室は三階にあるため、階段を上らなくてはいけないのも億劫だ。それでも、ここまで来て今さら引き返すわけにもいかない。重たい足を進めて、図書室の前に辿り着いた。

扉を開ければ、冷やされた空気が汗だくの体を撫でる。

その心地よさに思わず足を止めて一息ついてから、室内へと踏み込んだ。

「おや。こんにちは、雪町くん」

「こんにちは、先生」

そんな雪町に、カウンターに座っていた司書教諭が声をかける。

それに挨拶を返しながら、視線を軽く彷徨わせて相方の姿を探した。

夏休みの只中ということもあり、常連の姿さえない閑散とした図書室の中。一見すると見当たらない後輩の姿に、苦い感情が湧き上がる。それをなんとか表情に出ないよう苦心しつつ、改めて司書教諭の方に顔を向けた。

「先生。夏目は?」

「夏目くんには、コンビニにアイスを買いに行ってもらってるよ。二人とも真面目だからね、ちょっとした奢りさ。あとでこっそり司書室の中で食べるといい」

「ありがとうございます」

炎天下の中を歩いてきた身には、その言葉は相当にありがたい。茶目っ気を浮かべて微笑む司書教諭に、雪町は唇を綻ばせながら軽く礼をした。

そんな雪町を見つつ、それにしても、と司書教諭は口を開く。

「今日は遅かったね、雪町くん。体調でも悪いのかと、夏目くんと心配してたよ」

「……ちょっと、寝坊をしてしまって」

「ああ、夏休みだからねえ。私も休みの日はつい二度寝してしまう」

日頃の行いもあって、一言の言い訳で司書教諭はあっさり納得する。

嘘の言い訳だったこともあって心苦しさを感じたが、まさか本当の理由を言うわけにもいかない。仕方なく苦笑いを返していると、後ろの方で扉の開く音が聞こえてきた。

「はー、涼しい……」

ほぼ同時に、脱力した声が耳に届く。首だけで振り返れば、暑いからだろうか、長い髪をポニーテイルに結った後輩が、汗を拭いながら図書室の中に入ってくるのが視界に入った。

「あ。雪町先輩、こんにちは」

「……こんにちは、夏目」

夏目の方も雪町の姿を視認し、コンビニ袋を提げた手をひらひらと振る。

見慣れた姿で、見慣れた顔。だが今、少女らしい輪郭を描く頬にはテープ絆創膏が貼られ、その下に何らかの傷があることを如実に示していた。

傷をつけた張本人たる雪町は、それを見てまたしても苦い感情が湧き上がるのを感じた。そんな雪町の傍らで、夏目と司書教諭はのんびりとしたやりとりを交わす。

「夏目くん、おかえり」

「ただいま戻りましたー。外ほんと暑いですね……」

「今日も猛暑日だからねえ。雪町くんも来たことだし、まだ当番の時間じゃないから司書室で一緒にそれ食べちゃいなよ」

「はぁい、ありがとうございまーす」

暑さで気が緩んでいるのか、夏目は普段より間延びした声を紡ぐ。そうして一歩踏み出したところで、動く気配のない雪町に怪訝そうな顔を向けた。

「先輩? そういうことですし、アイス食べちゃいましょうよ」

「……ああ、そうだね」

その呼びかけで我に返ると、先を歩く夏目に続いて司書室に入った。

作業台が置けるだけのスペースはあるものの、本棚や作業用パソコン、冷蔵庫といった家具家電があるため、司書室はさほど広さを感じない。

後ろ手に扉を閉めてしまえば、そんな司書室に夏目と二人きりになる。

その状態の気まずさに一拍遅れて気づいたが、ここで出て行くのは明らかに不自然であったし、何より夏目に対して失礼でもある。一呼吸を入れてその気まずさを追い払いながら、先に座った夏目に倣って適当な椅子に腰かけた。

一方の夏目は、雪町の気まずさにも居た堪れなさにも気づいた様子はなく、作業台の上にコンビニの袋を置き、戦利品を取り出す。

バニラ味のアイスクリームと、オレンジ味のシャーベット。

二種類のカップアイスを並べてから、雪町の方を見る。

「先輩の好みわからなかったんで、適当に二つ買いました。どれがいいです?」

「夏目が買いに行ったんだから、先に好きなのを選んでいいよ」

「あいにくとどっちも好きでして。なので先輩がさっと決めて選択肢減らしてください」

「……じゃあ、オレンジの方で」

有無を言わせぬ様子に、選択権の譲渡を諦めて今食べたい方を口にした。

オレンジ色の器と木製のスプーンが、目の前に差し出される。蓋を外して鮮やかなオレンジにスプーンを突き立てれば、夏らしい音が小さく響いた。

掬ったそれを口に入れると、甘酸っぱい柑橘の味と冷たさが広がる。体の中から冷えていく感覚が心地よく、無意識のうちに強張っていた肩から力が抜けた。

しかし、すぐ近くでバニラアイスを食べている後輩を見ると、抜けたばかりの力が戻り、再び肩を固くする。テープ絆創膏を貼った顔がアイスを頬張って年相応に緩んでいる分、余計に蓄積する思いは大きかった。

来たくはなかった。会うのも怖かった。

それでも、会いたかったし会わねばならないとも思った。

言うべきこと、伝えるべきことのために、厭う心身を叱咤して今日は来たのだ。

だが、本人を前にすると、どうしても口が重くなってしまう。結局言い出せたのは、二人ともアイスをほとんど食べ終えたころだった。

「……夏目」

「なんです?」

「……傷は、大丈夫かい?」

「傷? ああ、これのことですか?」

一瞬首を傾げた後、すぐに何のことを言っているか気づいたのか、夏目はスプーンを持っていない方の手でテープ絆創膏をなぞる。

「破傷風とかにはなってないから、大丈夫ですよ。ナイフでざっくりと斬られちゃったんで、傷跡がどうなるかはまだわかんないですけど」

「……すまなかった」

「えっ?」

「君の顔に、傷をつけたのは僕だから。なら、君に謝らなければいけないだろう?」

「はい?」

雪町としては至極真面目に、そして相応に勇気を使って謝罪の言葉を告げた。

それに対し、夏目はまたしても首を傾げた。そして今度はずっと首を傾げたまま、雪町のことをまじまじと見つめる。不躾なその視線から顔を逸らしたいのを堪えていると、心底不可解だと言わんばかりの様子で夏目が口を開いた。

「……えっと先輩? 私たち、確かあの時殺し合いしてましたよね?」

「? うん、そうだね」

「殺そうとしていた相手の顔を傷つけて謝るって、おかしくないです?」

言われると確かにその通りなので、指摘されるとぐうの音も出なくなりそうになる。

殺害という大事を前に、顔の傷など小事もいいところだ。おかしくないかという夏目の言葉はもっともで、雪町とて最初はなぜ罪悪感を抱いてしまったのか疑問に思っていた。

「……そうかもしれない。だけど」

だが、答え自体は見つけてある。

数日間の思考で導き出した言葉を、雪町は声に乗せた。

「女の子の顔に傷をつけるのは、よくないことだと思ったから」

「――――」

「……夏目。そんなあらかさまに「何言ってんだこいつ」って顔をされると傷つくんだけど」

「えっ、いや、だって……」

謝罪と同じく真剣な気持ちで吐露した言葉は、またしても不可解そうに受け止められる。

殺そうとしていた相手に傷害で謝るよりはまだ納得してもらえると思っていただけに、ともすれば謝罪した時以上に怪訝な顔をされたのは地味にショックであった。そんなに変なことを言っただろうかと内心しょげていると、さすがに辛辣すぎたと思ったのか、夏目は若干申し訳なさそうな表情になる。

「えーっと……。いやでもまあ、気にする必要はないと思いますよ? これが可愛い女の子とかなら責任モノですけど、幸い夏目後輩は傷跡一つで変わるほど見目麗しくもないですし」

「……?」

そして告げられた言葉に、今度は雪町が怪訝な顔をする番だった。

「夏目も、可愛いと思うけど」

目が覚めるような美少女では、確かにない。

だが、可愛いか可愛くないかで言えば前者の部類に入るだろう。少なくとも雪町はそう思っているし、だからこそ顔に傷をつけたことを申し訳なく感じたと言ってもいい。

首を傾げていると、目の前にある少女の顔にじわじわと赤みが生じてきた。

「……」

最初はうっすらとしていた朱色は、徐々にその濃さと表面積を増していく。

ほどなくしてその色は夏目の顔全体に広がったが、それを雪町が見届けるより前に、夏目自身の手のひらによって覆い隠されてしまった。

「……夏目?」

「……あの。しれっとそういうこと言われると、反応にすごく困るんですけど」

「そういうこと?」

「天然かちくしょう!」

「?」

急に顔を隠したかと思えば急に悪態をついた後輩に、ますます首を傾げる。

そんな雪町を手のひらの間から恨みがましそうに見ながら、夏目は小さく溜息をついた。

「……雪町先輩。私、人殺しのひとでなしなんですよ? 知ってるでしょう?」

顔を隠したまま紡がれる言葉は、どこか諭すような、咎めるような響きを帯びていて。

「だからそんな、普通の女の子みたいに扱われるの、困るんですよ」

「……」

ゆえに二の句も反論も口にできず、黙したまま少女を見つめた。

何か言うべきだと、頭のどこかで声が囁く。しかし、弱々しくもはっきりと引かれた一線を踏み越えて何かを言えるほど、雪町は勇猛でも心の機微に疎くもなかった。

「……夏目」

「……そろそろ時間ですよ、先輩」

言葉の代わりに名前を呼ぶも、夏目は話題を打ち切るように立ち上がる。

そう言われてしまうと、言うべき言葉を持たない雪町には反論の余地もない。後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、カップの中に残った溶けかけのシャーベットを口に流し込んだ。




「それじゃあ二人とも、新学期にね」

「はい。さようなら、先生」

「また新学期に」

夕刻。閉館作業を引き受けた司書教諭が、雪町と夏目を見送る言葉を口にする。

その言葉に軽く一礼をしてから、二人は図書室を後にした。

「……」

「……」

司書室でのやりとりもあり、二人きりになると気まずい空気が流れる。

しかし、向かう先は同じ昇降口。露骨に別行動を取るのはさすがにはばかられたので、先行して歩き出した夏目についていくように雪町も歩き始めた。

ひとまとめに結われた髪が、ヘアースタイルの名前さながらに揺れている。

その動きを目で追いそうになり、すぐに不躾だろうかと思い至って目を逸らす。その際、何気なく見た窓の外に暗雲が立ち込めているのに気づき、足を止めた。

「なんだか雲行きが怪しいね。もうすぐ降るんじゃないかな」

「えっ、嘘。天気予報だと一日晴れって言ってたのに」

零した言葉につられて夏目も足を止め、空を見てげんなりした顔になる。

「まじかー。傘持ってきてないんだけどなあ」

「僕もだよ。職員室に行って借りに行くかい?」

「そうしますか。いくら夏でも、びしょ濡れになったら風邪引きそうですし」

「……」

女の子なのに、びしょ濡れになる想定をするのはどうなのかと。

そんな言葉が喉まで出かかり、寸で飲み込む。

意識しないように努めれば努めるほど、夏目の少女としての側面に意識が向いてしまう。

実際に殺人鬼である前に少女なのだから、無理に目を逸らすこともないのだろう。しかし、夏目がそれを嫌がっているのなら話は違ってくる。雪町も人殺しのひとでなしではあったが、進んで人の嫌がることをやろうとは思わなかった。

(それに、彼女には――――)

思考しながら、視線を窓から夏目の方に戻す。

直後。


――――ドォンッ!


暗雲から、雷鳴が落ちてきた。

「っ」

「ひゃぅっ!」

視線を空から外した直後であり、何よりも平時だったので、つい肩が跳ねてしまう。

しかし、目の前の少女はそれ以上のリアクションをとった。

一オクターブ高い声を上げながら、耳を押さえる。動作自体は異なるものの、それは殺人鬼として二度目の邂逅を果たした夜の彼女を連想させた。同時に、顔を傷つけてしまった時の衝撃に覆い隠されてしまっていた、一つの疑問が首をもたげた。

不思議ではあったのだ。

音に驚いただけで、一瞬とはいえあれほど精彩さに欠けてしまうものかと。

「夏目、ひょっとして雷が苦手なのかい?」

「うっ」

図星を突かれたような呻き声と露骨に逸らされた目が、何よりの肯定だった。

なるほどと得心したのもつかの間、先ほどの雷鳴を皮切りにしたように空が轟き始める。黒雲も色濃くなっていき、あっという間に今すぐ一雨きそうな様相へと変わってしまった。

ただの雨なら傘を借りて帰ればいいが、雷雨ではそうもいかない。

どうしたものかと思いつつ、ひとまず夏目の意向を聞いてみようと口を開きかける。

だが、雪町が声を発するよりも早く、大きな雷鳴が響いた。

「ぅ~~~っ!」

二度目の轟音に耐えかねたのか、声にならない悲鳴と共に、夏目が頭を抱えて座り込む。そしてそのまま、華奢な両肩が小刻みにわななき始めた。

今の雷鳴が引き連れてきたかのように、外から雨の音が聞こえ出す。

そうして雷鳴と雨音が響く中、雪町は蹲る少女をジッと見つめていた。

「……」

震えている肩を、無性に抱き寄せたいと思った。

雷に怯えている少女を抱きしめて、安心させたいと思った。

彼女を殺すよりも、彼女に触れたいと腕が疼いた。

しかしそれは、殺人鬼(どうるい)に対してとるべき行動ではない。彼女に困ったような顔をさせてしまう、普通の女の子にするような扱いだ。

触れたいと思う気持ちを抱え込んだ頭で、司書室でのやりとりを思い出す。

諭すようで咎めるようだった、夏目の声を思い出す。

(……また、困らせてしまうだろうか)

顔を隠させてしまうだろうか。

嫌がられてしまうだろうか。

――――嫌われて、しまうだろうか。

(……ああ、それは、嫌だな)

夏目に触れたいという気持ちを、夏目に嫌われたくないという思いが上回る。

疼いていた腕が、緩やかに鎮まっていく。

だが、目の前の少女に何かしてやりたいという気持ちまでは消えなかった。

「夏目」

名前を呼びながら、そっと夏目の前に片膝をつく。

「……せん、ぱい」

近づいてきた雪町に、夏目はおずおずと伏せていた顔を上げた。

今にも涙が零れ落ちそうなほど潤んだ目を見て、また腕が疼きかける。しかし、触れた瞬間に涙が零れるところを想像するだけで、その疼きは瞬く間に萎えてしまう。

代わりに、安心させるように微笑んだ。

「実は、僕も雷が苦手なんだ」

紡ぐのは、あからさまな嘘。

口にした先からばれるような、拙い言い訳。

「だから雷が落ち着くまで、夏目の傍にいてもいいかい?」

せめてこれくらいは許して欲しいと思いながら、傍らにいることを請う。

「……」

その嘘に目を丸くした後、夏目は弱々しい動きで首を縦に下ろす。それきり首は動かなかったが、そこに雪町の言葉を拒絶する意思は感じられなかった。

そして。

「……傍にいてください、せんぱい」

雷鳴と雨音に掻き消されそうなほど小さく、けれどすぐ傍らにいる雪町の耳には届く声が、紡がれる。嘘だと知り、その上で雪町の言葉を許容する言葉が、零された。

「傍にいるよ、夏目」


暑い夏の季節。

過ちが一つ積み重ねられたことを、この時の二人は知るよしもなかった。

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