夏:殺したがりの手、さわれなかった手 3
同類を見つけた初夏を経て、季節は本格的な夏を迎えた。
六月と七月の当番では、雪町と夏目は取り留めもなく話をした。相変わらず夏目を頭の中ですら殺すことはできなかったが、フラストレーションはさほど蓄積されなかった。代わりに、彼女との語らいは奇妙な心地よさがあった。
だが、鬱憤がたまらないからといって、殺人鬼が人殺しを犯さない理由にはならない。
呼吸のように人を殺すからこそ、雪町宗介は殺人鬼なのだ。
――――だから。
猛暑日が続いていた八月に降ってわいた、過ごしやすい気温の日。
そんな日に、雪町は誰かを殺すことにした。
「、っ、ぎゃ」
くぐもった声と共に、どうっ、と音を立てて、目の前で人が倒れた。
すれ違ったサラリーマンの頸動脈を掻き切ったタクティカルナイフを持ったまま、一歩だけ離れて、地面に倒れ伏した男が死に向かっていくのを見下ろす。急な多量出血で四肢を強張らせた男は、しばらく身悶えるように呻いた後、やがて息を引き取った。
「……ふぅ」
事切れた骸を眺めていると、昂ぶっていた殺人衝動が落ち着いていくのを感じる。
春は一度殺し損ねたこともあり、結局一人も殺めていない。そのため、久しぶりのリアルな人殺しはいっそう深く雪町の中に染み渡った。水から這い出た陸上生物のような、あるいは水に入ることができた水棲生物のような。そんな心地を抱きながら、タクティカルナイフを振るい、血を落とす。
普段なら、この時点で立ち去っている。
しかし今夜はすぐに足を動かさず、死体の傍らで数分の時を過ごした。
予感があったからだ。
そしてその予感は、ほどなくして的中する。
(……やっぱり、来たね)
ざりっ、と。
聞こえてきたのは、アスファルトと靴裏のこすれる音。それに口元を無自覚に緩めつつ、雪町は音がした方にゆるりと顔を向ける。
はたしてそこには、夏目柚木がいた。
「――――」
春の日のように、雪町と同じように、パーカーについたフードを被った姿。
右手には、一本の果物ナイフ。
まだ血を吸っていない凶刃を持って、夏目はうすく唇を綻ばせていた。
「せんぱい」
少女の声が、雪町のことを呼ぶ。同時に、果物ナイフが構えられる。
「夏目」
応じるように、夏目のことを呼ぶ。同時に、タクティカルナイフを構える。
会うだろうという予感はあった。
会ってしまえば、あの日のように凶刃を交えずにはいられないだろう、とも。
雪町はそれを望んでいて、夏目も同じだったのは明白だった。
「――アハッ」
「――ふっ」
春の夜と同じように、二人同時に笑みを零す。
そして、二人同時に駆け出した。
リーチの長い雪町が先んじる。駆けてくる夏目の首を切り裂こうと、ナイフを突き出した。
殺人鬼とはいえ、身体能力は普通の少女。本来ならばそれを回避できる道理はない。だが、あらかじめそうくるとわかっているものを避けることは、容易い。そう言わんばかりに、ナイフが髪をかすめると同時に夏目の体が前傾した。
数本の髪だけ斬って、ナイフはあらぬところを裂く。
右手を前に突き出したことにより、懐が無防備になる。そして少女の殺人鬼は、その無防備さを逃すことなく体を懐に潜り込ませた。
心臓を狙って、もう一つのナイフが閃く。
運動神経は良い方だが、武道の心得も戦士のような戦い方も知らぬ雪町に、がむしゃらな必殺に抗う手段などありはしない。だがそれもやはり、あらかじめそうくるとわかっているならば、いくらでも対処のしようがあるのだ。
夏目がまるで、雪町の動きが手に取るようにわかっているかの如く動けるなら。
雪町とて同様に、夏目の動きは手に取るようにわかるのが節理。
まっすぐ伸ばした右腕の肘を曲げ、そのまま懐に潜り込んできた夏目の頭頂部めがけて振り下ろす。少女の頭蓋にヒビを入れんばかりの勢いで、鋭く放たれるエルボー。そしてそれもわかっているとばかりに、夏目は地面を強く踏みしめると、すかさず後方へと跳んだ。
凶刃は心臓に届かず、迎撃も空を切る。
「アハッ」
夏目が笑う。
「ふっ」
雪町も笑みを零す。
そしてまた、同時に地を蹴った。
再び首を狙って振るったタクティカルナイフが、果物ナイフの腹で受け止められる。弾かれると同時に、今度は果物ナイフが首を狙う。それをタクティカルナイフで受け止め、弾く。
刃で狙い、刃で受け止め、刃で弾く。
無茶な使い方であることなど百も承知。刃こぼれは確実で、研いでも切れ味が元に戻らない可能性の方が高い。それでも、二人して凶刃をぶつけあうことを止められないでいる。
まるで、手に手をとって踊るように。
凶刃の舞踏が、夜闇の中で繰り広げられる。
「先輩」
「夏目」
「せんぱいっ」
「――なつめ」
互いの名を密やかな声で呼び合いながら、ナイフを振るい続ける。
永遠に続くかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
けれどそれは、本当に錯覚でしかなく。
――――ドォンッ!
獣の舞踏に気を取られ、接近に気づかなかった雷鳴が、夜闇を裂くように響いた。
「――」
「――っ、ぅ」
完全に不意打ちで聞こえた音に、雪町はわずかに瞠目する。
だが、夏目は両肩を震わせて、それ以上の反応を示した。
二人の舞踏に横合いが入り、歯車のように噛み合っていた剣戟に乱れが生じる。元より、噛み合うように凶刃を交合できていたことが奇跡に等しい。ゆえに、わずかな乱れで容易く舞踏は見る影もなくなり――――
「、っ」
凶刃を捌き損ねた夏目の頬に、一筋の傷が走った。
「――――」
白い頬に生じた、赤い線のような切り傷。
そこから伝う紅いものを見て、夢から覚めたように雪町は我に返った。
ナイフをできるだけ少女から引き離すよう、足裏に力を込めて思い切り後方に跳ぶ。直後、雷鳴を轟かせる上空から、ぽつりぽつりと雨粒が降り始めた。
雨粒はあっという間に勢いを増し、地面を、死体を、二人の殺人鬼を水浸しにする。
「……」
「……」
雨程度ならば、二人の殺人鬼は踊ることを止めなかっただろう。
雷鳴でもそれは同様だった。驚きこそすれ、止まる理由には本来ならなかった。
だからこそ、少女の殺人鬼は不意に我に返った同類に怪訝そうな目を向ける。少年の殺人鬼もまた、突然我に返ってしまった自分に疑問を抱いていた。
だが、これだけはわかった。
今宵はもう、殺人鬼(かのじょ)とは踊れない。
夏目の頬に走った傷は、雪町に殺し合いの酩酊を許さなかった。
「……夏目」
「なんですか、先輩」
「風邪を、引くから。早く家に、帰りなよ」
そう言いながら、彼女の血が流されたタクティカルナイフを畳んでポケットにしまう。
踵を返して背を向ければ、その背に困惑と動揺の視線が突き刺さるのを感じた。それを申し訳なく思いつつも、今は殺人鬼として夏目と対峙する気にはなれなかった。
こうして、殺人鬼の二夜目の邂逅は終わる。
雨は地面に広がる被害者の血を洗い流したが、殺人鬼たちの心は同様にはいかなかった。
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