夏:殺したがりの手、さわれなかった手 2
昼休み開始から十分後。
それが、図書委員のカウンター当番が始まる時間だ。
昼食をとる時間を考慮したのかもしれないが、移動時間を考えると悠長に昼食を食べている時間などない。他の勤勉な図書委員がそうであるように、雪町もブロックタイプの携帯栄養食で適当に腹を膨らませてから、図書室へと向かった。
「先生。図書委員です」
当番が来るまで待機している年配の司書教諭に声をかければ、彼は眼鏡をかけた顔を雪町の方へと向ける。そして、皺が刻まれた顔を嬉しそうに綻ばせた。
「やあ雪町くん。いつもすまないね」
「いえ。委員会の仕事ですから」
「サボる生徒がいなければ、その台詞にも納得できるんだけどねえ。それじゃあ私は司書室の方にいるから、何かあったら声をかけておくれ」
「はい。……二年の夏目は?」
「夏目くんはまだだね。あの子も真面目だから、もう少ししたら来るんじゃないかな」
「……ひょっとしたら」
来ないかもしれません、と。
そう言いかけた直後、がちゃりと、背後で扉の開く音が聞こえた。
「やあ、夏目くん。こんにちは」
「こんにちは、先生」
雪町を挟んで、そんなやりとりが行われる。
背中に届く少女の声に、意外さを隠しきれない。だが、それはあちらも同じらしい。振り返って姿を視界に入れれば、少女――夏目柚木は複雑そうな色を湛えた目を向けた。
「……こんにちは、雪町先輩」
「……ああ。こんにちは、夏目」
挨拶を交わすが、それもどこかぎこちない。
気まずいとまではいかないものの、微妙な空気が流れる。
「じゃあ揃ったみたいだし、あとはよろしく頼むよ、二人とも」
一方の司書教諭はそれに気づいた様子もなく、奥の司書室へと引っ込んでいった。
残されたのは、三年生男子と二年生女子。二人はしばらく顔を見合わせていたが、利用者が入ってきたので慌ててカウンターへと入った。
高校生受けする蔵書が少ないため、少数の常連を対応し終えれば仕事は終わる。
瞬く間にやることがなくなってしまった二人の間には、再び何とも言えない空気が漂った。
「……」
そっと窺うように、隣に座る少女を見やる。
平均身長より高い雪町に対し、夏目は平均よりやや低い。そのため立っている状態だとほとんど頭部しか見えないのだが、お互い椅子に座っていると横顔も視界に入る。少女らしい輪郭を描くその横顔を、不躾にならない程度に観察した。
そうしながら、頭の中でポケットに忍ばせていたフォークを取り出し、長い髪に隠れた首筋めがけて突き立てようとする。しかし、夏目はまるでそれがわかっていたかのように、近くにあったノートを掴んで盾にした。
想像の中だというのに雪町の制御を離れて動く少女は、同じく近くにあったボールペンを雪町の目玉めがけて振り抜こうとする。だが、今度は雪町がそれを読んでいた。自分の想像の産物だから、ではない。その想像を自ら構築するよりも早く、脳裏には夏目の手から奪い取ったノートでボールペンを防ぐ自分の姿が浮かび上がっていた。
(……やっぱり、殺せないか)
脳内で展開された一瞬の攻防。
それをおくびにも出さず、少女を見つめ続ける。
夏目柚木。
一つ下の後輩の少女。その顔と名前を、雪町は去年から知っている。
去年の四月。学校見学の際に気になったという本を借りに来た少女に、不在だった司書教諭の代わりに貸出手続きを行った。
期待に目を輝かせている少女を可愛らしいと思いながら、いつものように頭の中で殺害しようとしたあの日。想像の中だというのに刺殺も絞殺も撲殺も叶わず、一度も死体にさせることができなかった時の戸惑いは、一年たった今でも忘れることはできない。
以来、夏目の姿を見かけるたびに、想像上の殺害を試みた。
そして、その全てが失敗に終わった。
思いつく限りの殺害方法を試した。しかし、何をやっても脳裏に彼女を殺した瞬間の映像が浮かばない。想像はことごとく殺害の手前で強制終了し、そのたびに殺すことのできなかったもどかしさがフラストレーションとして蓄積された。
何度、本当に殺そうと思ったかわからない。
そのたびに、在籍している高校から人死にが出るデメリットを考えて押し留まった。
ずっとそんな調子であったから、カウンター当番を夏目とやることになった時は、内心途方に暮れていた。二人きりになる可能性が高い夏休みは無論、帰り道に勢い余って殺してしまうのではないかと、そんなことを連休前までは考えていた。
ゆえに連休前夜。少しでも殺人衝動を発散しようと、雪町は夜の街を彷徨っていた。
誰も殺すことはできなかったため、衝動そのものは晴らせなかった。しかし、代わりに有意義なものを得ることができたと思っている。
おぼろ月の下で出会った、凶器を持った少女。
ともすれば、一時の衝動の発散よりも得がたいもの。
「……あの」
数日前の夜に思案を馳せていると、不意に夏目が呼びかけを零す。
見ていたことが気取られただろうかと内心焦るが、続けられた言葉は予想外のものだった。
「……警察に言わないんですか? 私のこと」
「えっ?」
あまりにも想定外だった言葉に、思わず間の抜けた声を出してしまう。
言っていることの意味がわからず首を傾げていると、前を向いたままだった夏目が不承不承といった風に雪町へ視線を向けた。そして、みなまで言わせないでほしいと言いたげに、潜めた声で補足の言葉を口にする。
「先輩、見ましたよね。私が、人を殺したところ」
「ああ、うん」
「……普通は通報とかしません?」
「そういうものかな」
「……いや、常識的に考えたらそうでしょう」
「……」
人を殺した人間に常識を問われて、一瞬反応に悩んだ。
しかし夏目は至極真面目であり、また雪町もそれを指摘できるほど真人間ではなかったので――何せ彼は殺人鬼なのだから――、そこには突っ込まないことにした。
代わりに、返すべき言葉を口にする。
「僕には君を通報する資格はないよ。僕だって、あの女性を殺そうと思っていたからね」
それは事実だった。
殺人衝動を発散するための獲物として見定め、殺す機会を窺っていた。その前に夏目が殺してしまったが、彼女が殺さなければ雪町が殺めていただろう。
「……雪町先輩って」
その返事に、夏目はしばらく考えた後、新たな問いを発する。
「あの女の人に恨みとか愛憎とか、そういうのあったんですか?」
「いいや? 完全に初対面の赤の他人だよ」
「じゃあ、なんで殺そうと思ったんですか?」
「殺したかったから」
「……人を殺すの、好きなんですか?」
続けざまに投げかけられる質問は、雪町が夏目に聞きたいことだった。
知り合いだから殺したのか、殺すのが好きだから殺したのか。
問われることで夏目の答えを知った気になりながら、三つ目の問いに答えを返す。
「僕にとって殺人は当たり前の衝動で、人殺しは呼吸みたいなものだから」
紡いだ言葉は、本当なら誰にも吐露してはいけないものだった。
理解も共感も得られない、殺人鬼としての在り方。
永遠に自分の胸の内だけに秘めておくべき言葉。
それを高校の図書室という、日常の場で口にした理由はただ一つ。
「……雪町先輩も、〝そう〟なんですね」
確信があったからだ。
隣にいる少女もまた、自分の同類だという確信が。
「君も、衝動を抱えているのかい」
「私の場合は、どちらかといえば三大欲求の方に近いです。お腹が空いたらご飯を食べたくなるように、眠くなったら寝たくなるように。……殺したくなったら、人を殺したくなる」
「さながら、僕のは殺人衝動で、君のは殺人欲求、といった感じかな」
「そんな感じ、ですかね。私は生きるためみたいに人を殺して」
「僕は呼吸のように、人を殺す」
狭いカウンターの中、隣り合わせの椅子に座り、声を潜めて血なまぐさい言葉を交わす。
話せば話すほど、シンパシーのようなものを感じた。
フィクションの殺人鬼を見たことはある。ノンフィクションの殺人鬼も読んだことはある。しかし、様々な媒体を通して触れてきたそれらに、雪町が共感を抱いたことは一度もない。雪町とは異なる行動原理で動いている彼らは、確かにひとでなしではあるのだろうが、自分の同類だとは思えなかった。
だが、隣にいる少女は違う。
鏡合わせのように似通った精神性。
衝動と欲求の違いはあれど、生きているだけで人を殺さずにいられないひとでなし。
生まれて初めて出会った同類だという確信が、どんどん強まっていく。
(……ああ、そうか)
ここにきてようやく、雪町は今まで夏目を頭の中で殺せなかった理由を悟った。
夏目柚木は殺人鬼。
鬼なのだから、人のように殺せるわけがないのだ。
「……あは」
そんな納得を得ていると、ふと、夏目が小さく笑みを零した。
「雪町先輩。私のこと、殺そうと思ったことあります?」
「あるよ。何度も頭の中で殺そうとした」
「私もです。だけど」
「『殺せなかった』。違うかい?」
「ええ。今も殺そうとして、失敗してます。でも、当然ですよね。だって先輩、人じゃなくてひとでなしなんですもの。人みたいに殺せるわけがない」
「そうだね。僕もそう思うよ。君は、人みたいに殺せない」
同じ気づきを彼女も抱いていることに、何とも言えない面映ゆさを感じる。
夏目もそうなのだろう。柔らかな輪郭を描く頬が、照れくさそうに綻ぶのが見えた。
「私たち、醜いですね」
「ああ。醜くて、歪んでいる」
「歪んでいて、狂ってる」
「僕と君は、同じひとでなしだ」
「アハッ。……ああ、私たち」
似た者同士で、気が合いそうですね、と。
そう夏目が零すのと、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴るのは、ほぼ同時だった。
数少ない利用者がおもむろに立ち上がり、読んでいた本を借りるためにカウンターへと向かってくる。今はもう、これ以上話ができないだろう。そのことを名残惜しく思っていると、夏目もまたゆっくりとした動作で立ち上がった。
「じゃあ私、椅子の乱れを直して、書棚見てきます」
「ああ。貸出手続きの方はこっちでやっておくよ」
「お願いしますね、先輩」
そういってカウンターから離れていく後輩の背を眺めながら、頭の中では先ほどまで彼女が座っていた椅子を振り上げ、後頭部めがけて振り下ろそうとする。
それもまた、当たり前のように避けられる。
夏目を殺すことに、また失敗する。
けれど、この時ばかりはその事実の方が嬉しいと、雪町は思った。
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