夏:殺したがりの手、さわれなかった手 1



――――ピピピピピ


「……ん」

朝の静寂を裂くように、目覚まし時計のアラームが響き渡る。

一日に朝という区切りを作るその音を、雪町宗介は嫌ってはいなかった。しかし、いつまでも聞いていたいかと言われれば、首を横に振らざるを得ない。

纏わりついている眠気を払うように体を起こし、アラームのスイッチを切った。

「……今日は、登校日か」

静かになった時計をしばらく眺めた後、ぽつりと呟く。

昨日までは、ゴールデンウィークとも称される大型連休だった。合間に一日だけ登校日を挟んだものの、それでも一週間近い休日を心身は堪能した。結果として平日の朝を迎えてもなお生活リズムは戻らず、体は二度寝を要求している。

四月から再構築された新しい環境に慣れるか慣れないかといった時期に、一週間前後の休みを挿入するというのはなかなかの暴挙ではないかと。五月を迎えるたび脳裏によぎる考えを片隅に追いやりつつ、ベッドから体を起こした。

二度寝の魅力は強かったが、生憎と両親は揃って出張中だ。

起こしてくれる人間がいないので、誘惑に抗うより他にない。

着替えて、顔を洗い、洗濯機を回し、朝食の準備を整える。共働きの両親が家を空けるのは昔からで、そのため朝の作業は手慣れたものだ。流れるようにやるべきことをこなし、登校までの時間を無駄なく過ごしていく。

そうやって、休日にしがみついている生活リズムを平日のタイムスケジュールに戻す。家を出る準備を終えるころには、わずかな眠気も残っていなかった。

家を出る直前、食器棚から銀のフォークを取り出し、ポケットに忍ばせる。

強く力をこめれば皮膚を破りそうな先端を一撫でしてから、かばんを持って外に出た。

雪町の家はマンションの一室であるため、玄関を出ればまず高所からの景色が広がる。百八十センチと、高校三年生の平均よりも高い背丈なので、より景色は一望しやすい。とはいえ付き合いの長い景色に今さら感動があるわけもなく、あっさりと背を向けて扉を施錠した。

「あら。宗介くん、おはよう」

鍵をポケットにしまったところで、声がかけられる。

横を見やれば、隣の部屋に住む主婦が立っていた。ちょうど彼女も家から出てきたところらしく、背後でばたんと扉が閉まるのが見えた。

景色と同じくらい長い付き合いがある主婦に、小さく頭を下げる。

「おはようございます」

「今日から学校だったかしら? 連休明けは大変よねえ」

「ええ。ちょっと憂鬱ですね」

「うふふ、息子たちもおんなじようなこと言ってたわ。あの子たちはちょっとどころか、めちゃくちゃ憂鬱だって昨日からぶーぶー文句たれてたけど」

そう喋る主婦は呆れた口調ではあるものの、顔は笑っている。

実子への愛情が、その笑みからは滲み出ていた。

雪町の家はどちらかといえば淡白な親子関係であるため、親子仲が良さそうな隣人の話は、何度聞いても新鮮さと一抹の羨望があった。一回りも二回りも年上である女性相手に微笑ましさすら感じながら、口元に笑みを浮かべて、いつも大変ですね、と返す。

「宗介くんはほんと礼儀正しいわねえ。それに引き換えうちの子ときたら……っと、引き留めちゃ駄目ね、ごめんなさい。いってらっしゃい、宗介くん。気を付けてね」

「はい、ありがとうございます」

現在の時刻を思い出したのか、言葉をまくしたてかけた主婦は慌てて話を中断した。

見送りの言葉を口にして微笑む主婦に、もう一度軽く頭を下げてから歩き出す。



――――その脇を通り過ぎた直後、油断しきっていた主婦の首根っこを掴んだ。

「えっ?」

怪訝そうな声が上がると同時に、景色を臨める塀へと近づく。

子供がよじ登れない高さではあるが、大人ならばその限りではない。そんな塀に主婦の体を押し付けると、無理やり両足を浮かせ、後ろへと押し倒した。

一度重心が傾けば、あとは力などいらない。

何が起きているのかわかっていない顔は、そのまま塀の反対側――地面へと墜落を始めた。

数十秒後、ぐしゃりと巨大な水袋を叩きつけたような音が響く。

塀の向こう側を覗き込めば、潰れた死体が――――



エレベーターに乗り込み、閉のボタンを押す。閉まる扉の隙間から手を振ってくる主婦に三度目の礼を返したところで、エレベーターは密室になった。

「……ふぅ」

ゆっくりと下降していく箱の内側に背を預けながら、小さく息をつく。

一階に着くまでのわずかな時間。頭の中では、地面に咲いた紅い花を見下ろし続けていた。




雪町宗介の一日は、頭の中で誰かを殺すところから始まる。

それは隣人の主婦であったり、同じマンションに住む学生であったり、マンションの管理人であったり、たまたま道で行きあった誰かであったりと、日によって様々だ。知人も赤の他人も問わない。その日初めて会った人間をまず殺して、そこでようやくその日が始まるのだ。

手段も問わない。その時思いついた中で、一番殺しやすそうなものを取捨選択する。

人を殺す。

その事実だけが大事であるために。

どうしてそうしなければいけないかはわからない。

ただ、物心ついた時から、雪町宗介という人間はそうだった。

人を見ると殺したくなる。

そんな殺人衝動が、呼吸と同レベルの当たり前さで染みついていた。

初めての人殺しは、幼稚園の同級生。

寝ているところを馬乗りになって、首を絞めた。

その時に人が死ぬのはは騒ぎになると知り、以来相手を選ぶようになった。

それからずっと、同じ街に住み続けながら人を殺し続けている。

成長して倫理観というものを知ったが、それは雪町の殺人衝動の歯止めになりえなかった。ただ、衝動のままに殺しているとまともに生活を送れなくなることだけは理解し、なるべく想像の殺人で衝動を抑えるようには心がけた。

人殺し自体を止める発想は、生誕から十八年たった今でも得られていない。

なぜなら、雪町宗介はそういう生き物だからだ。

生まれついた時から、そういうものとして存在が定義されている。

だから雪町は、自分のことをこう呼んでいた。

――――殺人鬼。

人を殺すものとして生まれ落ちたひとでなし、と。

そして、そんな存在は自分以外にいないとも思っていた。

つい最近までは。

今の彼は、それが勘違いであったことを知っている。

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