秋:怪物の名前 1



ぽたりと。カッターナイフの切っ先から、血が滴り落ちた。

地面に描かれた、赤く血なまぐさい斑点。そのすぐ近くには、つい先ほどまで人として生きていた死体が、グロテスクなオブジェのように転がっている。

「……」

それを、夏目柚木(さつじんき)は静かに見下ろしていた。

「……殺した。人を、殺したのに」

死体を見つめながら、空虚な声が零れる。

人を殺したという感慨も、人を殺めたという充足もない。常に身の内を巣食っている殺人欲求はわずかたりとも満たされておらず、第四の欲求は飢餓を訴えていた。

あるのはただ、殺したという実感のみ。

(……なんで、殺したんだっけ?)

首を傾げながら、死体を見つめ続ける。

事切れた骸が身に着けるのは、夏目が通う高校の制服。

空気を悪くしたくない、警戒レベルを上げたくない。そんな理由で手を出すことを不文律としていた者を、殺人欲求を満たすためではなく、ただ殺した。悔いだけは欠片だってなかったが、代わりに疑問が夏目の胸の内を渦巻いていた。

(……なんで?)

自分がやったことなのに、自分の行動原理がわからない。

どうして、殺したのだろう。

なぜ、殺さなくてはいけなかったのだろう。

その理由を探るように、夏目は記憶を遡る。

きっかけは、確か――――



☨☨☨



夏目が在籍する高校の文化祭は、十月半ばの土日を使って行われる。

二日に渡って開催されるイベントを心待ちにする生徒は多く、一週間前ともなると校内の雰囲気は一様に浮き足立つ。教室の隅や廊下の端には作りかけの看板や飾りつけが置かれるようになり、放課後校内に残る生徒の数も多かった。

とはいえ、自主的に居残る生徒はせいぜい半数だ。残りは夏目のように、開催が間近に迫った学校行事の準備という体で、仕方なく放課後も時間を費やしている。

その日の放課後も、夏目はクラスメートから頼まれた買い出しをしていた。

「……あれ?」

渡されたメモとにらめっこをしながら、学校近くのホームセンター内を散策する。そんな夏目の視界に、見慣れた姿が映った。

思わず立ち止まり、しっかりとその姿を見る。

はたしてそこには、雪町宗介の姿があった。

夏目と同じように店の買い物かごを持ち、夏目と同じようにメモを見ている彼はしかし、夏目とは違って傍らに人を立たせている。クラスメートの女子だろうか。夏目と同じ制服を身に纏う少女は、遠目からであっても明らかに雪町を意識しているのがわかった。

少女が声をかける。

雪町が応じるように顔を向ける。

少女はそれとなく顔を近づける。

雪町はそれをかわすことなく受け入れている。

傍目から見た二人のやりとりは、仲睦まじいものに見えた。少女の容姿と、女性にしては高めの背丈が、端整な顔立ちで上背のある雪町に釣り合っていたのも理由の一つだろう。

似合いのカップルだと。

見る者が見ればそう思うような、光景だった。

「……」

話しかけることはもちろん、なぜか立ち去ることもできず、それを眺める。

無意識のうちに、左の頬を撫でていた。

指先にわずかに引っかかるのは、うっすらと残った傷跡。夏の夜、雪町のナイフによってつけられたものだ。ふとした瞬間に撫でるくせがついてしまったそれの存在を確かめるように、指を滑らせる。

「……あ」

自分が相手を見つけられたということは、相手もまた同じように自分を見つける可能性がある。夏目がそのことに思い至ったのは、雪町と目が合った時だった。

なつめ、と。

唇が自分の名前を紡ぐのがわかる。

そして彼はあっさりと傍らにいる少女に背を向け、夏目の方へと歩いてきた。

なぜだかその瞬間、無性に雪町から逃げたくなった。しかし、ここで逃げ去るのは『後輩』として相応しい反応ではなく、『殺人鬼』としてとるべき行動でもない。そんな思考が夏目の足を縫い止めているうちに、雪町がすぐ傍までやってきた。

「奇遇だね、こんなところで会うなんて」

「ええ。先輩たちも、文化祭の買い出しですか?」

無表情に近かった顔をわずかに綻ばせて口を開く雪町に、なぜか湧き出てくる居心地の悪さを隠しながら普段通りの顔で応じる。先輩たち、という言い方で連れがいることを思い出したように、雪町は背を向けていた少女に視線を向けた。

突然雪町に置いて行かれた少女は、最初は唖然としていたが、夏目の姿に気づくと露骨に敵意ある表情を浮かべていた。そしてそれは雪町が顔を向けると同時に引っ込み、彼の顔が再び夏目の方に向いた途端、露わになる。

器用だなと場違いなことを思う一方で、あからさまな敵意に顔が引き攣りそうになった。

そんな夏目の様子にも少女の百面相にも気づかず、雪町は言葉を続ける。

「も、ってことは夏目もかい?」

「はい。手が空いてるの、私しかいなかったので」

「一人で買い出しか。大変だね」

「細かい作業苦手なんで、こっちの方が楽ですけどね。それよりいいんです? ほっといて」

向けられる視線の圧に耐え切れず、少女の存在に言及した。

夏目への視線は今や、敵意から殺意めいたものに変わっている。本物の殺意を知っている殺人鬼にとっては児戯みたいなものだが、それでも居心地が悪かった。何より、拙いとはいえあまり殺意を当てられ続けると、殺人欲求が疼きそうになる。

指摘を受けたことで、連れを放置していることに思い至ったのだろう。はっとした表情を浮かべた雪町は、さすがに少し慌てた様子でもう一度少女の方を向いた。

途端、少女はにこやかだが手持ち無沙汰さを押し出した雰囲気を放つ。変わり身の早さにいっそ尊敬の念すら抱いていると、雪町が夏目に視線を戻した。

「それじゃあ、僕は戻るね。学校に戻る時は気をつけるんだよ、夏目」

「アハッ。ひとでなしに言うこっちゃないですよ、雪町先輩。そういうことは、あの人みたいな普通の女の子に言ってあげてください」

「……うん。すまなかったね」

普通の女の子という言葉を強調して言えば、申し訳なさそうな表情が浮かんだ。

それを見ていると、なぜか苦い思いが込み上げてくる。しかし、普通の女の子のように扱われても困惑してしまうのだ。

夏目柚木は、ひとでなしの殺人鬼なのだから。

「では先輩、また今度図書室で」

「ああ、夏目。また今度、図書室で」

そんな言葉を口にして、二人の殺人鬼は踵を返した。

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