冬:さよなら、モラトリアム 1



「……帰りたいな」

大勢の人でごった返す境内。

その片隅でぼんやりと立ち尽くしながら、雪町宗介は溜息混じりに呟いた。

現在の時刻は夜の十一時。

本来ならば人が出歩く時間ではなく、まして都心の歓楽街でもない場所で人ごみができるなどありえない。しかし、今日という日はそれが当たり前のように受け入れられる。

なぜなら、今日は十二月三十一日。

二年参りを果たそうと、多くの人がこぞって寺社仏閣に集う日なのだから。

冒頭の呟きはそれと相反するが、彼の場合はクラスメートたちに誘われて仕方なく足を運んでいるだけなので致し方なかった。この人ごみで肝心のクラスメートたちとははぐれてしまったので、なおさらである。

こういう時に便利なメールも、皆がこぞって使っているので送受信のタイムラグが著しい。LINEを始めとしたSNSはわずらわしくて使っていないため、せめてすれ違いが発生しないよう、こうして動かず待機するので努めるので精一杯だった。

とはいえ、元より二年参りに興味がない以上、だんだんとそれも面倒になってくる。

はぐれたのを口実に帰ってしまおうか。

そんなことを思いながら人ごみを見渡し、頭の中で赤の他人を殺していく。

足を引っ掛けて転ばせ、その頭を踏み砕く。

手の位置に顔がある子供の眼球に、懐のフォークを突き立てる。

殺人鬼は殺す場所を問わない。

場と状況に相応しい人殺しの方法を思案し、組み立て、それを実行できる。頭の中に留めているのは、実行した時に起きる混乱と天秤にかけただけのこと。代替行為で一時の満足を得ることによって、人に擬態し続けるという波風の立たない道を選んだだけ。

時折摘まむように行う本命(ひとごろし)のために、日々の殺人衝動を制御する。

(殺したいな)

しかし今、少しだけその箍が緩んでいるのを感じていた。

大勢の赤の他人が行き交っているのも理由の一つだろうが、最たる要因はそれではない。

一番の原因は単純明快。

最近、人を殺していないからだ。

秋。雪町が在籍している高校の文化祭で、殺人が起きた。部外者の出入りが多かった日に起きた事件は、犯人が捕まってないこともあり、一気に市民の警戒レベルを引き上げた。

結果として雪町は夜に出歩くことが難しくなり、出歩けたとしてもちょうどいい獲物を見つけることが今日までできずにいた。殺人衝動は想像でしか慰められず、フラストレーションは溜まっていく一方だ。

おそらく通り魔の類いなのだろうと雪町は考えている。

殺人鬼(どうるい)の存在を知ってはいるが、彼女も自分が属するテリトリーで人を殺すデメリットは把握しているはずなので除外していいだろう。何より、被害者は彼女の獲物足りえないはずだ。確信はないが、彼女の取捨選択基準はわかっているつもりである。

「……」

ふと、被害者の少女のことを思い出す。

一学年下の後輩。名前も知らない少女のことを、しかし雪町ははっきりと覚えている。

少女が殺される数時間前に、彼女から告白をされた――からではない。恋も愛もわからないひとでなしにとって、告白されるという事象はあまり印象に残らなかった。

ただ、似ていたのだ。

一つ下の後輩という立ち位置が。

平均よりやや低い背丈が。

髪の長さが。

アルトの声が。

野花のような控えめな愛らしさが。

類似であって同一のものはなかったけれど、確かに――――

「――――あっ」

喧騒でもはっきりと耳に届いたアルトの声が、雪町の思考を遮った。

聞き慣れたその声に、顔を上げて視線を彷徨わせる。人ごみの中であっても、その姿は簡単に見つけることができた。

学校でも下校の時に羽織っていたダッフルコートを身に纏い、寒さゆえか、あるいは人ごみの熱気ゆえか、わずかに頬が上気している少女。

一つ下の後輩。もう一人の殺人鬼。

「ども。こんばんは、雪町先輩」

「……こんばんは、夏目」

ぺこりと会釈しながら挨拶を述べる夏目柚木に、雪町もまた同じ言葉を口にした。

「えっ、ていうか先輩? なんでここにいるんです?」

「それは僕も聞きたいんだけど」

話しやすいよう距離を詰めてくる後輩は、捉えようによっては失礼な言葉を口にする。それが同類に向ける気安さの表れなのはとうに知っているので、こそばゆさはあっても気にしたりはしない。代わりに、おそらく彼女も抱いているだろう疑問を発した。

「夏目、こういうとこに来るタイプだったっけ?」

「来ないタイプですね。ただ、今年はクラスメートに誘われまして」

「なるほど。僕と同じか」

「あー、ってことはもしや先輩もそのクラスメートとはぐれたりなど?」

「はぐれたりなどしてしまったね」

肩をすくめて言えば、変なとこでも似た者同士ですねと夏目も苦笑する。そして雪町の隣に移動し、隣り合わせの状態で人ごみを見つめ始めた。

さながら図書室のカウンターに座っている時のようだと思いながら、雪町も人ごみに視線を向ける。人を見てしまえば、習い性のように頭の中で殺さずにはいられない。

隣にいる少女もまた、同じように頭の中で適当な誰かを殺しているのだろう。

神聖な境内が、二人のひとでなしによって想像の血と妄想の死で塗りたくられる。

罰当たりだなと一瞬だけ思い、すぐにそれは殺人衝動で掻き消された。

「……そういえば」

そうして、空想の殺戮がしばらく続いた後、夏目が口を開いた。

「先輩はこれからどうします? 合流待ちしますか?」

「うーん。正直に言うと帰ってしまいたいんだよね。夏目は?」

「夏目後輩も右に同じく。もう、はぐれたことを理由にして帰っちゃおうかなーって」

「なら、家まで送るよ」

時刻も時刻なのでそう申し出れば、困ったような顔をされた。

夏目のその顔を見ると、雪町の方も困ってしまうし、弱ってしまう。だが、さすがに今回は同類に対しては相応しくない態度よりも、彼女の先輩という立ち位置が勝った。

何せ、殺人鬼であっても見た目が普通の女の子であることは変わらないのだ。

巡回する警官も歩き回る不審者も、彼女の本性など知らずに近づくだろう。

「夏目。さすがに深夜、後輩を一人で夜道に歩かせるのは先輩として許容できない」

「……はい」

「それに補導されて、夜出歩きにくくなったら困らないかい。殺人鬼(どうるい)」

「うっ」

夏目の琴線らしい「普通の女の子扱い」になる言い方は避けて、あくまでも学校の先輩として、そして同類を案じる者として言葉を続ける。特に後半は正論でもあり、それを論じられては意地も張りにくいはずだ。現に傍らの少女は、呻き声を上げながらたちまち萎れた。

うなだれながら、夏目は無意識と思われる仕草で頬を――正確には傷を――撫でている。

皮膚の色に隠れつつあるものの、まだ傷跡と認識できる程度には存在感があるそれは、夏の夜に雪町がつけたものだ。さすがにもう罪悪感は覚えていないものの、代わりに彼女の指が傷跡をなぞるのを見るたび、腹の底がムズムズするような奇妙な感覚があった。

その感覚を他の時と同じように持て余しながら、スマートフォンを取り出す。

送受信にラグがあるとはいえ、帰ると決めたならメールをしておくべきだろう。雪町の所作を見て夏目もそれに思い至ったようで、ポケットから取り出した端末を操作し始めた。

夏目の方がタイピングは早く、ほぼ同時にメールの送信が完了する。

「それじゃあ、まずは神社から離れようか。行くよ、夏目」

「はーい」

声をかけてから歩き出せば、間延びした声とともに少女がついてくるのを背中で感じた。

人ごみに紛れて逃げられることもわずかに懸念したが、すぐ後ろの気配ははぐれないようぴったりとついてきている。一度折れたら素直に従うところは可愛げのある後輩だと、のんきに考えられたのは進行方向から一気に人の波が来るまでだった。

時刻は日付が変わる三十分前。

二年参りに駆け込んできた人の波に、雪町と夏目は揃って飲み込まれる。

進む方向が真逆なため、後ろからやってくる者や人ごみを掻き分ける者に押されてはぐれることない。それでも、一気に増えた人口密度は離ればなれになる可能性を高めていた。

「……」

背後を一瞥し、横を通り抜ける人々をやりすごしている夏目を見る。

夏目が小柄なこともあり、このままでは進むうちにはぐれてしまうのは火を見るより明らかだった。そうなるとはぐれないように対処するしかなく、一番確実かつ手っ取り早いのは手を繋ぐことだろう。

だがそれが、先輩後輩として、同類として、正しい選択なのかがわからない。

送り届けることは許容してくれた彼女を、また困らせたくはない。

体の脇で揺れている両手が疼く。状況的に何の問題もないと冷静な理性が言う一方で、その根っこにある感傷的な箇所が夏の日を思い出していた。

そうして雪町が逡巡している間にも、人ごみは二人を押し流そうとする。

新年を待ちわびる人たちは、その流れに逆らうひとでなしに遠慮などしない。露骨に二人を押しのけて進もうとする者も増える中、とうとう人波に分断されかける。

その直前。

「失礼、しますっ」

伸ばされた夏目の手が、雪町のコートの背中を掴んだ。

引き寄せられてたたらを踏みかけるも、立ち止まることで転倒を防ぐ。そのまま周囲の迷惑そうな目を無視して首だけ振り返れば、転ばせかけたことを申し訳ないと思ったのか、夏目はどこかばつが悪そうな顔をしていた。

少し視線をずらせば、コートを掴む手が目に留まる。

ついそれに見入っていると、夏目がおずおずと口を開いた。

「えーっと、こうすればはぐれないですし」

「……そうだね」

「……急に掴んで悪かったですって。緊急措置ってことでひとつ」

「ああ、怒ってないよ、大丈夫。驚いただけだから」

上の空が悪い捉え方をされていることに気づき、訂正の言葉を口にする。

訝しげな顔をされたものの、嘘偽りがなかったこともあり、すぐにその言葉は受け入れられたらしい。傍らの少女は、ホッと安堵の息をつきながら胸を撫で下ろした。

その直後、周囲の人ごみが向ける非難の目に気づいたらしく、慌てて顔を上げる。

「って、突っ立ってたら邪魔ですね。行きましょう、先輩」

「ああ、行こうか」

夏目に促され、首肯を返しながら歩みを再開する。

思うように動けない人ごみの中ということもあって、慎重に歩調を定めても時折背中が引っ張られるのは防げない。それ自体は少し歩きづらいというだけで不快ではなかったが、引っ張られるたびに、彼女に服を掴まれているという状況を再認識せざるを得なかった。

それとて、嫌というわけではない。ないけれど。

再認識するたび、言葉がつけられない感情が滲むのを感じた。

冬用のコートは厚手で、その下に着こんでいる服もしっかりとした布地だ。だから夏目に掴まれても、彼女の手の感触もぬくもりも、微塵も感じることはない。

その事実が、なぜだかどうしようもなくもどかしく。

その隔たりが、なぜだかどうしようもなく致命的だと思えた。

けれどそれを言葉にすることも、表に出すこともせず。

気づけば人ごみの海を抜け、人通りがすっかり乏しくなった道に辿り着いていた。

はぐれないように掴まれた手は、はぐれる可能性があった場所を離れてしまえばその役目を終えてしまう。厚手の布地は離れた感触すら伝えてくれず、夏目が雪町を追い抜いたことで、彼女の手が離されたことを知った。

追い抜いた夏目が振り返り、道の先を指さす。

「私の家、こっちです。……一人でも大丈夫ですよ?」

「夏目」

「はい。すいません」

折れたかと思ったら往生際の悪い後輩を名前だけで諌めれば、本人もそこまで本気ではなかったようで、素直な謝罪を口にする。まったく、と呆れた声を零しながら、雪町を案内するように歩き出した夏目の後に続いた。

喧騒から離れると、遠くの方から響く除夜の鐘が聞こえる。

煩悩を払う、荘厳な鐘の音。その音を聞きながら、前を歩く少女の背中を見つめた。

本性がひとでなしの殺人鬼だとは思えない、華奢で小さな背中だ。女子供を殺すことで欲求を充足させる殺人者は、こんな背中を見て殺したいと思うのだろうかと。そんなことを考えるのは、夏目に声をかけられたことで中断した思案が再び脳裏をよぎったからだ。

安全なはずだった場所で殺された少女。

名前は知らず、けれどひとでなしの片隅に残る少女は――夏目柚木に似ていた。

だから彼女に告白された時は、内心ひどく動揺した。内心で済んだと思っているのは自分だけで、ひょっとしたら声や顔に出ていたのかもしれない。恋も愛もひとでなしの自分たちにはわからないと、そんな話を夏目としたばかりだったからなおさらだった。

そんな心地であったから、殺されたのがあの少女と知った時もまた、動揺があった。

家まで送るという申し出を貫いたのも、その動揺が起因している。

未だ捕まっていない殺人者は、夏目とよく似た少女を殺した。

ならば夏目も、殺人者の標的となる可能性が高い。

そう思ってしまうと、夏目を一人で帰すことなどできなかった。

雪町たちは殺人鬼だが、だからといって襲ってくる暴漢を返り討ちに殺せるほど暴力の心得があるわけではない。二人は人殺しであって、戦士の類いではないからだ。

夏目柚木が殺人者に殺される可能性は、ゼロではない。

そしてゼロではない以上、学校の後輩でもあり、ただ一人の同類でもある少女が、どこの誰ともわからぬ殺人者の手にかかる可能性など看過できなかった。

(だって――)

なぜなら、と。

そこまで考えたところで、はたと思考が止まった。

まるで、それ以上考えたら何もかもが変わってしまうと、理性が歯止めをかけたように。

「……?」

続かない思考に首を傾げて、思わず足も止まる。

言葉の先を探るように考えを巡らせるも、一度途切れたものを見つけるのは難しい。それでも掴まなくてはいけないような気もして、思考に没頭した。

「……雪町先輩?」

それをまた、夏目の声が遮る。

ハッとなって顔を上げれば、少し離れた場所で夏目が首を傾げていた。

「先輩、どうしたんです?」

「……ああ、いや。何でもないよ」

後で考えよう。そう決めて、ごまかしの言葉を口にする。

似たようなやりとりが先ほどもあったが、今回も訝しそうにしつつも納得はしてくれたらしい。夏目は怪訝そうな表情を引っ込めると、近くの一軒家を指さした。

「あれが私の家です。……えーっと、さすがに親と対面したら説明が大変なんで」

「ああ、ここまでにしておくよ。迷惑をかけるわけにはいかないからね」

言わんとしていることはわかるので、その申し出は聞き入れる。

我が子が異性と並んでいると、色々と考えてしまうのがが一般的な親の在り方だ。いくら互いを高校の先輩後輩だと説明しても、不要な勘繰りは発生してしまうだろう。

可能性としては低いが、時間を理由に翌朝まで引き留められることもありえる。そういう意味でも、夏目に迷惑はかけられなかった。

「それじゃあ、この辺で。わざわざありがとうございました、雪町先輩」

「お礼を言われるほどのことじゃないさ」

「それでも、ですよ。先輩こそ、気をつけて帰ってくださいね」

「ああ」

短い別れの言葉を口にしてから、踵を返す。

「――――あの、せんぱい」

そうして夏目に背中を向けた直後、呼びかけが投げかけられた。

「……いえ。何でもないです」

だが、雪町が振り向くよりも早く、その呼びかけは撤回される。

ゆえに、夏目がどんな顔で呼びかけたのかを、雪町は知ることはなく。振り向いた先には、いつものように笑う後輩の姿があるだけだった。

「そういえば、いつの間にか新年を迎えたなって」

代わりに紡がれる言葉は確かにその通りだが、同時にごまかしの色も滲んでいた。

思わず首を傾げるが、今日は二回、夏目には言及をされないでいる。ならば自分もそれで納得しようと、問いかけの言葉を飲み込んだ。

「年が変わると言っても、僕たちは時計や周囲の変化でそれを知るわけだからね。二人で人気のないところにいたら、日付が変わるのに気づかないのは自然なことだと思うよ」

「確かに。さすが先輩だけあって、言うことに含蓄がある」

「一つ上なだけだから、人生経験なんて夏目とそんなに変わらないけどね」

肩をすくめてそう言えば、そういうもんですかねと笑った後、夏目は片手を上げた。

「引き止めちゃってすいません」

「気にしないでいいよ」

「アハッ、ありがとうございます。それじゃあまた、学校で」

「うん。また、学校で」

ひらひらと振られた片手に応じるように、手を振り返す。

そして、今度こそ二人はその場を後にした。

――――年の終わりと始まりにあった邂逅は、こうして終わった。

水面下ではどうしようもなく手遅れで、この時に自覚ないし伝えることができていても、致命的な変化を避けることはできなかっただろう。それでも、ここでその変化が起きていたのなら、少なくとも最悪を避けることはできたはずだった。

けれど、どちらも一石を投じることはできなくて。

終わりの日は、ある日突然訪れる。

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