冬:さよなら、モラトリアム 2



二月。一歩でも教室を出ると、底冷えするような寒さに襲われる季節。

放課後とあっては、零れる息さえ白く滲む。そんな外気に腕をさすりながら、雪町は足早に職員室を目指して歩いていた。

今日はカウンター当番の日なので、本来ならまっすぐ図書室に向かわねばいけない。

しかし、今日は来月に行われる卒業式のことで教務主任に呼び出されていた。なんでも、卒業生代表の祝辞の候補として話がしたいらしい。人選ミスもいいところだと思うので断るつもりではあるが、断るにしても足を運ぶ必要があるのはわずらわしかった。

(卒業、か)

胸中で零す声には、関心の無さが滲む。

あまり実感の湧かない行事であった。

節目ではあるのだろうが、感極まって泣く教師や生徒が出るほどのものとは思えない。たった一度の別れで縁が切れてしまうなら、その程度の仲なのではないかと。ひとでなしらしく、情のないことを考えてしまう。

雪町の考えは、シビアではあるがある種の真理でもあった。

一度の別れで分かつてしまうなら、その縁は最初からその程度の強度でしかない。

あるいは、それ以上の強度を得る努力を怠った結果だ。

――――だからこうして、殺人鬼も報いを受ける。

「……ん?」

職員室を目指す道程で、進行方向に見慣れた少女の背中を見た。

こちらに背を向けている少女――夏目は、教師と何かを話している。

聞き耳を立てるつもりなどなかったが、迂回路がない目的地へのルートにいる以上、距離を詰めてしまうのは避けられない。ほどなくして、二人のやりとりが雪町の耳に届く。

「しかし、夏目も大変だな。こんな時期に親が海外転勤とは」

「ええ。せめて卒業式は出たかったんですけどね」

「二月末に渡航なら仕方ない。仲の良い奴に写真でもなんでも頼んでおくといい」

「そうしときます。それじゃあ先生、書類ありがとうございました」

「秋に言われたのに、作るのが遅くなって悪いな。親御さんによろしく頼む」

「はい」

やりとりを終えた教師と生徒は、互いに背を向けて歩き出す。

「……えっ」

「――――」

そして、立ち尽くしていた雪町と振り返った夏目が、向かい合う形となった。

夏目の顔がこわばる。それが思わぬ人物がいたことへの驚きだけではないのは、手に取るようにわかった。それくらいには、彼女のことをわかっているつもりだった。

だからこそ、動揺に満ちた心が揺さぶられる。

聞かれたくない相手に聞かれてしまったなどと、そんな反応をされてしまっては。

「夏目。今の、話は?」

それでも理性を振り絞り、努めて冷静に問いかけを零す。

予想はしていただろうに、夏目の視線はあからさまに泳いだ。それにますます焦燥感を駆られながらも、彼女の返事をジッと待つ。

やがて観念したように、夏目が口を開いた。

「……父が仕事で、海外転勤になって。一年や二年じゃきかないそうなので、家族ごと向こうに引っ越そうってことになったんです」

「聞いてないよ、そんなこと」

「……言ってませんから。知ってるのも、担任と仲の良い友人くらいです」

「どうして」

「……先輩」

「夏目、どうして教えてくれなかった」

秋という言葉が出てきた。それがいつごろを差すのかまではわからないが、それでも伝えられる機会はいくらでもあったはずだろう。

どうして、黙って去ろうとしていたのか。

それを問い詰めるように見つめれば、夏目は視線を逸らしながら答えた。

「……私たちは、高校の先輩と後輩で。似たような歪みを抱えた、ひとでなしの同類で。でもそれだけじゃないですか。それだけの関係でしか、ないじゃないですか」

「それ、は」

「この世にいないと思っていた同類に会えたのは、奇跡みたいなものですけど。だからこそ奇跡は奇跡らしく、変に腐れる前に終わってしまった方がいいと思ったんです」

「……」

夏目の語る言葉はロジカルではなかったが、ある意味では理に適っていた。

完全に正しいわけではなく、されど間違ってもいない。

少なくとも、それだけの関係でしかないという言葉には、反論の余地もなかった。

話す場所と言えば図書室のカウンターか、当番を終えた帰り道のわずかな時間。互いのスマートフォンの番号もメールアドレスも知らず、SNSの繋がりもない。

この世で雪町宗介を最も理解してくれるのは、夏目柚木で。

夏目柚木の一番の理解者もまた、雪町宗介に他ならない。

けれど二人の関係自体は、それこそ一度きりの別れで分かたれるほどに脆い。

夏目の言葉は、今まで目を逸らしてきた事実を痛いほどに突きつけてきた。

「……夏目、僕は」

「先輩。今日は、カウンター当番なんですから。いつまでも話してたらまずいですよ」

それでも何かを言いたくて、どうにかして言葉を絞り出そうとする。

だが夏目は、無情な一言でそれを断ち切った。

「行きましょう。雪町先輩」

この話はもう終わりだと。言外にそう告げながら。

「……僕は、職員室に用事があるから」

打ちのめされたような思いを抱えて、なんとかそれだけを返す。

夏目はもう目を逸らしていなかったが、今度は雪町が彼女の顔を見ることができなかった。見てしまったら、抑え込んでいる感情が噴出してしまいそうだったから。

「それじゃあ、先に行ってます。先輩、またあとで」

「……うん。また、あとで」

そう言って、夏目は雪町の脇を通り抜けていく。

遠ざかっていく足音の代わりに、今まで聞こえていなかった放課後の喧騒が鼓膜を震わす。けれどそれらの音は、小さくなる足音のように雪町の心を揺らすことはなく。

彼女の足音が、喧騒によって完全に掻き消えてしまうまで。

雪町は一人、立ち尽くし続けていた。




その後のことは、あまり覚えていない。

祝辞について何を話したのか、そもそも教師と話をしたのか、職員室には行ったのか。

一つだけ確かなのは、図書室には行っていないということ。

当番を無断で休んだことになるが、そんなことに意識を払う余裕は今の雪町にはなかった。わずかでも気を緩めたら、目についた人間を全員殺してしまいそうだったから。

誰でもよかった。

溢れ返りそうな殺人衝動を抑えてくれるなら、誰でも。

しかし、本当に殺したいのはただ一人なのもわかっていた。

だからこそ誰にも会わないよう、誰も見ないよう、雪町は人の出入りが少ない公園の木陰に隠れるようにして座り込んでいた。

気づけば辺りは暗く、夜を迎えたことを視覚で感じる。

それでも、そこから動くことができなかった。

「――――なつめ」

膝を抱え込むようにしながら、ぽつりと一人の名前を零す。

その名前を口にするだけで、殺人衝動が膨れ上がる。

夏目柚木を殺したいと、体と心が訴えている。

こんなにも一人の人間を殺したいと思ったことはなく。時折与える飴で折り合いをつけていたはずの殺人衝動がこんなにも荒れ狂うこともまた、初めてのことだった。

けれど、脳裏に浮かぶのは夏目を殺す瞬間ではなく。

「なつめ」

いたずらっ子のように笑う顔で。

呆れたような色を浮かべる顔で。

困ったように眉をひそめている顔で。

目を細めてはにかむように微笑む顔で。

殺人行為とは縁がない、日常の中にいる夏目柚木の姿だった。

だというのに。

「……君を、殺したい」

殺意は、止め処なく湧き上がる。

相反するものが胸を焦がす。

「殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、斬殺したい、抉殺したい、殴殺したい、扼殺したい、蹴殺したい、毒殺したい、虐殺したい、誅殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい――――夏目を、殺したい」

淡々と紡がれる人殺しの言葉。

表情は動かず、普段通りの無表情のまま。

声だけが火傷しそうなほどの熱を孕んでいたが、雪町がそれに気づくことはなかった。

「……夏目、どうすれば」

殺したくてたまらない少女の名前を、繰り返す。

このままではいずれ遠くへ行ってしまう少女の名前を、縋るように呟く。

殺人鬼とは言え、雪町はまだ子供でしかない。大人の世界で決まったことに横槍を入れることはできず、どれだけ否を唱えたくても知恵だけで決定を覆すことはできない。

けれど、夏目がこのまま遠くへ行くのは嫌だった。

あの様子だと、どこへ行くかも夏目は言わないだろう。

決定的な別れを突きつけられる日は近い。その事実が、雪町の胸を焦がす。

「……なつめ」

煩悶する心を抱えながら、何気なく空を仰ぐ。

墨色の空に浮かぶのは、満月になりかけている月。

雲に隠れて薄ぼんやりとしている月が、雪町を静かに見下ろしている。

(……ああ)

初めて『殺人鬼』と出会ったのも、月夜のことだったと。

傷をつけた動揺で無様に終わらせてしまった演舞も、最初は月明かりの下だったと。

そんなことを、思い出した。

今も雪町の心を掴んで離さない、同類を相手取った獣のダンス。

一回目は互いにそれどころではなくなって、二回目は雪町が罪悪感に負けて打ち切る形で、結局最後まで踊り切ることはできなかった。

そんな舞踏を回想しながら、ふと、ある考えがじわりと浮かんだ。それは透明な水に落ちた一滴の墨のように、瞬く間に雪町の思考を一色に染め上げていく。

「――――ああ、なんだ。簡単なことじゃないか」

気づいてしまえば、それはあまりにも簡単なこと。

どうして今まで気づけなかったのかと、疑問に思うほどに。

明白ゆえに間違っていることには気づかず――例え気づいたとしても、どうしようもなく道を間違っている今では是正の余地もなかっただろうが――、雪町は結論を呟く。

「彼女を、愛(ころ)せばいいんだ」

その声はまるで、愛の告白のように甘い熱を帯びていた。

そしてやはり、雪町がそれに気づくことはなかった。

殺人衝動以外の情動に乏しく、恋も愛もわからないと零す殺人鬼にとって。

殺意に隠された初恋は、あまりにも見難いものだった。

「愛(ころ)したいなら、愛(ころ)せばいい」

言いながら、ゆっくりと立ち上がる。

問題は夏目をその気にさせることだったが、そちらに関しては今までの煩悶が嘘のように容易く思いつく。ゆえに問題は障害にも歯止めにもならず、準備に向かう雪町の足を止めるものは何一つなかった。



☨☨☨



「――――」

その日の朝。

触覚を刺すような何かを感じて、夏目は目を覚ました。

「……ぇ、ぁ?」

突然の感覚に、胸を押さえて戸惑いの声を零す。

感じたもの自体は、なじみのあるものだった。夏目柚木というひとでなしが歩んできた道とは、切っても切り離せないものだ。

だからこそ、ひどく戸惑った。

それは、家の中で感じていいものではなかったからだ。

「…っ!」

嫌な予感に、急き立てられるようにベッドから跳ね起きて、寝間着のまま部屋を出る。

鼻につく生臭さ。

平日の朝に相応しくない静寂。

一歩進むごとに感じるそれらが、予感を強めていく。

さながら導かれるように、夏目の足は迷わずリビングへと向かった。

「……」

一枚のドアによって隔てられている、リビングと廊下。

その隔たりの前で一瞬だけ、足が止まる。

それは何もないだろうという一抹の希望で、それを信じたい無駄な足掻きだった。一拍後には無意味さに気づき、あらゆるものを振り払うようにドアの取っ手に手をかける。


はたして、そこには惨状が広がっていた。


ソファーに倒れ込んで動かないのは、夏目の父だった。

床に倒れ伏して動かないのは、夏目の母だった。

そしてどちらの体にも、その周囲にも、赤黒い液体がこびりついていた。

二人とも、ただの死体に成り果てていた。

完膚無きまでの家族の崩壊。

どうしようもなく終わってしまった、日常。

「おはよう。夏目」

その中央に立つ雪町宗介(さつじんき)は、いつもと変わらぬ様子で声をかけてきた。

「……せんぱい」

「朝早くに訪ねてすまないね」

「……ゆきまち、せんぱい」

「どうしても、この時間じゃないとダメだったから」

「……せんぱい、教えてください」

「うん。なんだい、夏目」

「なんで、こんなこと、したんですか」

「不思議なことを聞くね。僕は殺人鬼だよ。人を殺すのは、呼吸のようなものだろう?」

「先輩‼ ちゃんとっ、ちゃんと答えてくださいっ!」

この惨状が、ただの殺人衝動の発露であるものかと。

そんな思いを叩きつけるように声を荒げる。

悲鳴のようなそれを受け、雪町は瞑目しながら口を開いた。

「ご両親を殺せば、夏目は僕のことを無視できないだろう?」

「私、先輩のこと無視なんてっ」

「ああ、誤解しないでほしいんだ。無視されたから、ではないよ」

「じゃあ、どういう」

だって、と。

同類の問いかけに、目を開けながら殺人鬼は続けた。

もう一人の殺人鬼を、まっすぐと見つめて言った。

その眼差しはさながら、愛おしい雌を見つめる雄のそれだった。

「こうすれば、夏目は僕と殺し合いを、せざるを得ないだろう?」

紡いだ声が熱を持っていることに、本人はどれだけ自覚があるだろうか。

表情だけはいつもの無表情で、眼差しと声だけは火傷しそうな熱を孕んだまま。まるで睦み合いにでも誘っているように、殺人鬼は同類に向かって言葉を続ける。

「僕は君を殺したい」

「夏目柚木を殺したくて仕方がない」

「なのに君は、遠くへ行ってしまうという」

「僕との関係を断ち切って、僕が君を殺せない場所に行ってしまおうとしている」

「そんなのは嫌だ」

「だから夏目の両親を殺した。君が、僕を無視できないように」

「僕とすぐにでも殺し合ってくれるように」

言葉は矢継ぎ早に紡がれ、雪町がどれだけ真摯なのかを伝える。

「――――」

その言葉を受けて。

その想いを受けて。

夏目の胸には数多の感情が渦巻き、そしてそれは一つに集約されていった。

「……それでも」

ひとしきり思いをまくしたてた後、雪町は再び目を閉じる。

「これがあまりにも独りよがりなことは、わかっている。今ここで殺し合いを始めても、それは最後まで僕の押しつけで終わってしまうだろう」

「……先輩」

「だから、夏目」

そうしてまた目を開きながら一歩、夏目に向かって踏み出す。

思わず身構えるが、雪町はそのまま脇を通り抜ける。そして通り抜けざまに、言った。

「今夜。図書室で待ってる」

選んでくれと。

応えてくれと。

最後の分岐を夏目に委ねて、雪町は去っていった。

「…………」

それから、どれくらい経ったか。

気づけば夏目はその場に座り込み、呆けたように変わり果てた日常を見ていた。

夏目の日常は、殺人鬼によって殺し尽くされた。

もはや取り返しはつかず、延命はおろか蘇生の手段もなく。

それでもおそらく、別の形でやり直すことはできるのだろう。

だからこそ、雪町は最後の最後で選択を夏目に委ねたのだろう。

殺人鬼に応えて日常を完全に捨て去るか、殺人鬼を捨てて日常を再構築するかを。

「……せんぱい」

答えなど、決まっていた。

なぜなら夏目柚木もまた、殺人鬼で。

胸中にあるのは、雪町と殺し合えることへの喜悦だったがゆえに。


こうして殺人鬼たちのモラトリアムは、一方の手によって強引に断ち切られた。

歪んだ二人はどこまでも過ちしか選択できず。

醜い恋は、見難い恋は、こういう末路にしかならず。

今宵、殺人鬼と殺人鬼は、本気で殺し合う。


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