人殺しのみにくい恋



「雪町。雪町宗介! なんだ、今日は休みか?」

三年三組の教室で、担任が首を傾げた。

「……ん? 夏目はどうした、欠席か?」

二年四組の教室で、担任が訝しげな顔をした。

別々の教室で起きた、生徒の無断欠勤。

それを結びつけて考えられる者は、誰一人いなかった。



☨☨☨



学校というものは、施設の用途に反してセキュリティーがずさんだ。

特に内部の者相手には、つけ入る隙を多く残している。素知らぬ顔で職員室に入り、鍵やセキュリティーカードを拝借するのさえ容易だ。人の善意を前提にした施設は、思いもよらない悪意や想定していない蛮行にひどく弱い。

施錠時の見回りも、隅々まで行う教師がほとんどいない。

それは広大な校舎を徹底して確認するのが面倒というのもあるだろうが、教師の目を盗んでまで校舎内にあえて残る生徒を想定していないのもあるだろう。友人との歓談を楽しむためにいつまでも校舎内に残っているのとは、明らかに一線を画した行為ゆえに。

――――だからこそ殺人鬼たちは、容易に校舎へ留まることができた。

「……」

夜の帳が落ちきり、残って業務をしていた教師が帰宅した頃合い。

適当な空き教室に潜んでいた夏目は、ゆるりと立ち上がった。

私服で潜むのは目立つため、身に纏うのは制服。

しかしその手には、果物ナイフがしっかりと握られている。

抜き身の殺意を携えて、少女は夜の廊下へと足を踏み出した。

窓から差し込む月明かり以外に光源はないが、闇に慣れた目ならばそれだけで問題なく歩くことができる。そうでなくとも幾度となく通った道だ。足取りに迷いはない。

喪ったものに想いを馳せるのは、陽のあるうちにすませている。

今はただ、逸る気持ちを抑えて歩を進めるのみ。

ほどなくして、図書室の前へと辿り着いた。

鍵の他にセキュリティーもかけられているが、ここを指定した以上、それらは雪町が解決しているだろう。学生として訪れていた時と同じように、躊躇いなく扉に手を伸ばした。

扉は何の抵抗もなく、当たり前のように開く。

開閉の音をどこか遠くのことのように聞きながら、図書室の中へと入った。

本来ならカーテンが締め切られているはずだが、一部を除いて開かれている。そのため廊下と同じく、闇に慣れた目は月明かりを頼りに空間を把握することができた。

ゆえに暗がりの中に佇む殺人鬼の姿も、すぐに見つけられた。

身に纏うのは制服で。

けれどその手には、タクティカルナイフを握りしめて。

抜き身の殺意を携えて、同類が来るのを待っていた殺人鬼の姿が。

「雪町先輩」

声をかける。

夜闇の中でも、こちらを向いた雪町の目に深い喜びが湛えられているのがわかった。

「……来てくれたんだね、夏目」

「はい。先輩と殺し合いに、来ました」

「嬉しい。とても嬉しいよ、夏目」

そう言いながら一歩、雪町は夏目に向かって踏み出そうとする。今すぐにでも殺し合いを始めたいと言わんばかりの所作に、けれど少しだけ待ったをかけた。

「先輩」

「なんだい?」

「普通になりたいと、思ったことはありますか」

「……」

「私は、あります」

殺し合いを避ける気など毛頭なく。

夏目とて、できることなら今すぐにでもそうしたい。

だが、どうしても言わなくてはならなかった。伝えなくてはならなかった。

「人を殺さなくても生きていけるような人間になりたいと、何度も思いました」

「人を殺すためのナイフを捨てることができる人間になりたいと、何度も」

「でも、私はどこまでいっても人殺しで。思うばかりで、実行する気になれなくて」

「結局のところ、私というひとでなしは殺人でしか物事を語れないし、測れない」

「恋も悲しみも愛情も憎悪も好きも嫌いも、殺人という行為でしか表現ができない」

「人のふりをしたケダモノで、人の中に交じった殺人鬼です」

「だから、ねえ、雪町宗介先輩。この世界で初めて出会った、私の同類」

「君を愛(ころ)しても、いいですか? 私を愛(ころ)して、くれますか?」

懇願の響きを帯びたそれは、夏目柚木が初めて誰かに向けた、愛の告白だった。

しかし、それはあまりにも醜く。恋慕の情として、正しく伝わることはない。

「――――」

けれどもそれは、雪町の心を強く揺さぶった。

正しく伝わることはなかったが、想いの強さはしかと届いた。

「……ああ」

ゆえに殺人衝動で逸っていた雪町もまた、応じるように言葉を紡ぎ出す。

「誰にもおかしいと言われないような、誰にも指を差されないような、普通の自分」

「人を見ると殺したいと思わない人間になりたいと、そう考えたことはあるよ」

「だけど結局、僕というひとでなしには殺人しかないんだ」

「普通に焦がれても、夢物語のように焦がれるだけ。それがない自分を考えられない」

「僕にとって他人との触れ合いは殺害で、他人への感情は殺意だ」

「他の触れ合い方も、他の感情もわからない。人の皮を被っただけの、殺人鬼」

「だから、ああ、夏目柚木。この世界で初めて出会った、僕の同類」

「僕を愛(ころ)してくれ。僕も君を、愛(ころ)すよ」

鏡合わせのように似通った想い。

言葉が違えば、状況が違えば、それは正しく想いへの返事となったのだろう。

しかし、それはあまりにも見難く。届きながらも、伝わることはない。

だが、二人の殺人鬼にはそれで十分だった。

相手を愛(ころ)したくて。

同じくらい、相手に愛(ころ)されたい。

それがわかっただけでも、何もかもが報われたような心地だった。

「……アハッ。やっぱり私たち、ほんと似た者同士ですね」

「ああ。だからこうして、殺し合う」

言いながら今度こそ、そして今度は二人して、一歩踏み出す。

もはやこれ以上、言葉での語らいは必要ない。

あとは、刃と殺意を持って語り合うのみ。

「雪町先輩」

果物ナイフを、握りしめる。

彼を愛(ころ)すために。

「夏目」

タクティカルナイフを、構える。

彼女を愛(ころ)すために。

そして二匹のケダモノは、同時に床を蹴った。

振るわれる二振りの凶刃。

互いに狙うのは、相手の頸動脈。そして、その狙いはわかりきっている。

ほぼ同時にナイフの軌道をずらし、首を狙う刃の迎撃に臨む。ギィンッと鈍い音を立てて、二人の顔の前で刃物がぶつかりあった。

「アハッ」

「ふっ」

鍔迫り合いのようにナイフを受け止めたまま、笑みを零す。

だが、拮抗は長く続かない。腕力は男である雪町の方に圧倒的分があり、徐々に夏目の方が押し負け始める。それを見て取ると同時に、夏目はあえて力を緩めた。

突然消えた手応えについていけず、込めた力の分だけ雪町の片腕が傾ぐ。その下から自分の腕を引き抜くと、勢いに乗せて体を半回転させた。そのまま遠心力をのせた一刀を、雪町の体めがけて見舞おうとする。

そんな動きもあらかじめわかっていたとばかりに、考えるより早く雪町の足が動く。

半歩下がり、振るわれるナイフをかわす。勢いがついた一刀は、当たれば必殺となる代わりに、回避されればそのまま大きな隙になってしまう。無論それを雪町が逃すわけもなく、後ろに下げていた腕ごと切っ先を突き出した。

それもやはり、あらかじめわかっていたとばかりに、夏目の体もひとりでに動いた。

あえて体勢を崩すことで、切っ先を避ける。体は床に倒れ込みかけるが、先に床についた手に力を込めて前転をし、強引に雪町から距離をとった。

そのまま図書室の奥へと足を進め、その背を雪町が追いかける。

振り返って迎撃する。それをナイフの刃でいなす。返す刀で斬りつける。後ろに飛び退いてかわす。足裏に力を込めて飛びかかる。体の軸を反らして回避する。無防備な背中にナイフを振り下ろす。手近な机に手をついて、そこを起点に体を半回転させて逃れる。

「せんぱいっ」

「なつめっ」

互いのことを呼びながら、閲覧席の間を駆ける。

時に相手からの攻撃を寸前で回避し、時に相手の刃を自分の刃で受け止める。いつかの春の夜のように、夏の夜のように。手を取り合う代わりに殺意をぶつけ合って二人、踊る。

どちらにとっても、図書室は大事な場所だった。

初めて互いの存在を認識した場所だった。

歪んだ二人が穏やかに、ひとでなしが人らしく、話をすることができる場所だった。

そんな場所を殺し合いの場に選んだことに、雪町も後悔がないわけではない。

そんな場所を殺し合いで穢してしまうことに、夏目も未練がないわけではない。

だが、これ以上の場所はないと、後悔や未練よりも強く、二人して思っていた。

大切な場所だったからこそ。

この歪んだ関係に終止符を打つには、ここしかなかった。

「っ」

乱れかけた呼気を零したのは、どちらだったか。

何度目になるかわからぬ鍔迫り合いの後、それを合図に距離をとる。

気づけば二人して、肩で息をしていた。

それは、当たり前の疲労だった。

その本性がひとでなしの殺人鬼であっても、夏目も雪町も肉体はただの人間でしかない。激しく動き続ければ、四肢に負担が蓄積するのは道理だ。そしてそれはわずかな時間で消え去るものでもなく、限界の足音は確かに迫っている。

疲れて二人して動けなくなるなんて、そんな無様な終わりはありえない。

「……先輩」

「……夏目」

ここで必ず愛(ころ)すと決めたがゆえに。

長く続けたかった殺し合いを終わらせるため、二人は改めて得物を握り直した。

斬りかかるは同時。勢いのままナイフをぶつけ合い、鈍い音を奏でる。

暗がりの中でも、どちらのナイフも刃こぼれし始めているのが見て取れる。いつ折れてもおかしくないほど、無茶な使い方を続けていた。それでも、ナイフを振るう手に力を込めずにはいられない。思いの丈をぶつけるように、刃を叩きつけた。

一合、二合とぶつけ合いながら、互いに攻め時を探る。

その探り合いは一瞬のようであり、永劫のようにも感じられた。

――――そして、少女の殺人鬼が先んじる。

剣戟を振るう最中、自分の体で隠すようにしながら空いた手をポケットに入れる。

取り出したのは、青いヘアピン。

秋、恋を自覚した日に買ったきり、ずっと持ち歩いていたもの。機会を探し続けて、結局渡せなかったもの。それを、渡したかった未練ごと、雪町の目を狙って投擲する。

軽いものは投げるに適さないが、至近距離ならば関係ない。

空気抵抗も最小限に、目潰しは寸分の狂いなく雪町の目を襲った。

「……っ!」

反応を許さない至近からの攻撃、想定していない飛び道具の存在は、正確に雪町の意識外を突いた。今まで夏目の動きを先読みしていたように動けていた雪町の体が、初めてこわばる。それでもなんとかナイフを持つ利き腕を盾にして、目潰しを弾いた。

ただのヘアピンにすぎないそれは、呆気なく床に落ちる。しかし、本命はそちらではない。狙いは防がせることで、利き腕の動きを一時的に限定すること――!

不意討ちで体を竦ませ、行動を強制させ防御の手を奪う。

そうやって生じさせた隙ごと心臓を貫かんと、ナイフを持つ右腕を突き出した。

ナイフのみで語らっていた中、飛び道具を用いるのは卑怯な行為だろう。

だが、雪町を殺せるのなら手段など問わない。

雪町宗介を殺すという覚悟を決めて、今宵、夏目柚木はこの場に立っているのだから。

けれど。

「っ、ぁ?」

必殺が決まる直前。

心臓を穿とうとしたナイフごと、雪町の反対側の手が、夏目の右手首を掴んだ。

「――――」

その可能性を考えず、そうやって防がれて虚を突かれてしまうほどには、雪町が夏目に触れるというのは、ありえないことだった。

関係が変わることを恐れて。

相手に嫌われることを怖がって。

そんな理由で互いに手を伸ばせず、過ってしまったというのに。どうしようもなく間違ってしまった後に触れるなど、それはあまりにも身勝手なことだった。

掬い上げるように夏目の右腕を抑えながら、雪町とて己の身勝手さを自覚していた。

だが、夏目柚木を殺すという覚悟を決めていたのは、雪町宗介とて同じこと。

同じ覚悟に、同じ想い。

それを抱いた二人の差異は、時間だった。

夏目柚木がその覚悟を決めたのは、今日の朝で。

雪町宗介がその覚悟を秘めたのは、昨日の夜で。

たった一夜。そのわずかな差が、殺し合いの明暗を分ける。


――――そして、雪町の握ったナイフが、夏目の心臓を、貫いた。


力が抜けていく手から、果物ナイフが滑り落ちる。

「……か、ふっ」

咳き込むような音とともに、赤い液体が夏目の口から零れた。

顎を伝って、胸元や床に落ちる生命の色。酸素に反応して徐々に赤褐色に変わっていくそれは、一つの命の灯火が徐々に消えていくさまを視覚化しているようだった。

夏目柚木は、死ぬ。

雪町宗介に殺されて、死ぬ。

それはもはや、覆せない確定事項。

そうしたのは、雪町自身だった。

夏目柚木を殺すことを望み、そして殺したのは雪町宗介だった。

「……夏目」

だというのに今。

まるで消えていくぬくもりを惜しむように、雪町は夏目の手首を掴んだ手に力を込めた。

そのままナイフを手放した少女の手に指を絡め、そっと握りしめる。その間にも小さな手は体温を失っていき、生きる者と死にゆく者の差は広がっていく。

「せん、ぱい」

絡められた指を、弱々しく握り返す。

「ゆきまち、せんぱい」

声を発するたびに、気管に血が入り込んで激痛が生まれる。しかし、薄れていく意識を維持するためには、その痛みはむしろありがたかった。

今はただ、火傷しそうなほどに熱い雪町の体温を、感じていたかった。

「なつめ」

「……せんぱい」

睦み合うように名前を呼び合い、互いの手を握る。

殺して、殺された。

殺意は終着点に辿り着き、狂おしいほどの殺人衝動も殺人欲求も今はない。

二人の胸を占めるのは、目の前の相手に対する愛おしさだけ。

醜さはなく、見難さもない。

この瞬間、二人の殺人鬼は相手を心から愛していたのだと、自覚した。

その愛おしさを抱きながら、どうしてこんな形でと、ひとでなしの中にある人間性が今さらのように嘆く。もっと他の道はなかったのかという悲哀が過ぎる。

だが、悲嘆を覚える以上に、深い幸福感を二人は感じていた。

愛した相手を殺(あい)して。

愛した相手に殺(あい)されて。

ひとでなしの殺人鬼にとって、これ以上のものはなかったから。

しかし、その幸福もやがて終わる。

幸せそうに細められていた夏目の目から、光が消えていく。雪町の手を握り返していた手の力が、弱くなっていく。手のぬくもりはもはや、ほとんど感じない。

「せん、ぱい。ゆきまち、せんぱい」

だから、血を吐き出しながらも、名前を呼んだ。

最期の力を懸命に寄せ集めて、強く、雪町の手を握った。


「だいすき」


伝えたかった言葉を、紡いだ。

――――そして、夏目柚木は、絶命した。

少女の小さな手が、雪町の手から零れ落ちるように離れていく。

支えを失った体はそのまま床に倒れ込み、わずかたりとも動かない。その顔はひどく穏やかで、胸に突き刺さったナイフがなければまるで眠っているようだった。

そんな少女を、少年は静かに見下ろす。

「……さよなら、夏目」

ぽつりと零れた声に、応える者は誰もおらず。

独りになった殺人鬼は、しばらくの間、立ち尽くしていた。



☨☨☨



二月某日。

ある高校で、生徒の死体が発見された。

発見したのは、司書教諭の男。

朝、仕事場である図書室に向かった彼は、そこで倒れている女子生徒を見つけた。

救急車を呼ぶも、女子生徒はとうに手遅れで。高校は内外ともに、今年に入って二度目の殺人事件で騒然となった。

死因は刺殺。

しかし凶器は残されておらず、あったのは床に散乱した四本のヘアピンだけ。

凶器が現場にないことから、警察は他殺と認定。

後日、女子生徒の家で両親の死体が発見され、犯人の見解は二通りに分かれた。

一つは、秋に発生した事件の同一犯による快楽殺人。

もう一つは、女子生徒の家族を狙った者による怨恨による殺人。

けれど犯人を特定するには、情報も容疑者もあまりにも乏しく。

結局犯人は捕まらず、事件は迷宮入りへと移行する。

女子生徒と同じ委員会に所属し、ほんの一年足らずの間だけ当番を組んでいただけの男子生徒に疑いの目が向けられることは、一度もなかった。

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