エピローグ:B
彼女の最期を思い浮かべながら、私は――雪町宗介は、ゆっくりと目を開いた。
今でも耳に残っている末期の言葉を反芻しつつ、何気なくナイフの柄を握り直す。
あの日、持ち帰ったものは三つ。
夏目を殺したタクティカルナイフ。
夏目が持っていた果物ナイフ。
そして、彼女が投擲した青いヘアピンを一つ。
タクティカルナイフ以外は、無意識のうちに手にとっていた。
おそらく、欲しかったのだろう。
彼女との絆の寄る辺が。形に残る彼女との思い出が。
(我ながら、女々しいな)
彼女を殺したのは、自分だというのに。
感傷じみた女々しさは、凶器にも表れている。
刃こぼれしても研いで使っていたタクティカルナイフは、夏目を殺すのに使って以来、他の誰かを殺すのに使えなくなってしまった。今使っているのは二本目で、彼女を殺した一本目は研ぐこともせず、ずっと懐に入れて持ち歩いている。
これを持って人殺しをすれば、彼女が傍にいると錯覚ができた。
今の私にとって人殺しは殺人衝動を満たすだけではなく、雪町宗介という殺人鬼を通して、夏目柚木という殺人鬼を投影する行為にもなっていた。
錯覚でも傍にいてほしいと思うくらいには、夏目のことが好きだった。
投影でも存在を感じたいと願うくらいには、夏目のことを愛していた。
彼女以外の異性を好きになることも、恋することも、愛することもあった。
けれどあれほど情熱的に恋(ころ)したいと思い、狂おしいほど愛(ころ)したいと思った者は、夏目柚木ただ一人だけだった。
その後の恋や愛は、人のふりをしたまま抱き、人のふりをしたまま終わった。
ひとでなしとして恋し、愛したいと思うことはなかった。
――――だから一つだけ、気がかりがあった。
昔は、ただ殺人衝動に身を任せるままに。
少し前までは、人を殺すことが夏目の存在を感じられる唯一の手段だから。
そして今は、その気がかりゆえに、夜の殺人を続けていた。
(……今日も無理だったかな)
空を仰いでいた顔を戻し、代わりに地面に転がる死体を一瞥しながら、残念さを感じる。
元より、すぐに解消できる気がかりとは思っていない。それでも、いや、困難だと思っているからこそ、今夜がそうでないことに落胆せずにはいられなかった。
しかし、いつまでもここで落胆しているわけにもいかない。
思考を切り替えながら、ひとまずこの場を立ち去ろうと顔を上げて。
数メートル離れた場所に立つ少女の姿を、その目に捉えた。
「ぅ、ぁ……」
「――――」
中学生くらいだろうか。私と目が合ったことに気づき、少女は震えた声を出す。
思い出にふけっている間に、近づかれたのだろう。油断に内心舌打ちを零しそうになりながらも、今宵二人目の犠牲者になってもらうべく、ナイフを握る手に力を込める。
そして一歩、踏み出そうとしたところで、気づいた。
夜の帳が落ちているとはいえ、空には満月に近い大きさの月が浮かんでいる。
夜闇に慣れた目には、光源としては十分だ。
だからこそ、気づいた。
ひとでなしの目は、それを見逃さなかった。
惨事を見て、人殺しを見つめて、怯えた顔をしている少女の目に。
私を羨むような色が、浮かんでいたのを。
(――――ああ)
どうやら今日、気がかりを解消することができるらしい。
そのことに喜びと、真実を知ることへの恐れを感じながらも、懐に手を入れた。
取り出したのは、果物ナイフ。
夏目を殺したタクティカルナイフと同様に、あの日以来、持ち歩き続けていた彼女の分身。違うのは、愛でるように研ぎ、入念に手入れをしていたこと。
ずっと大事にしていたそれを、私は少女に向かって放り投げた。
「……っ?」
乾いた音を立てて、ナイフは少女の前に落ちる。
少女は瞠目しながら、私とナイフを交互に見つめた。
「殺したいんだろう? 人を」
「っ」
「人殺しをしたくて仕方ない。それをしないと息ができない。そんな目だ」
「……私、は」
そんな少女の歪みを暴くように、容赦ない言葉を差し向けた。
華奢な両肩が、哀れを誘うほど激しくわなないている。
ソプラノの声が、みっともないほど震えている。
それは常人ならば、理不尽なことを言われたショックからだと映るのだろう。けれど殺人鬼(わたし)の目には、少女の反応は図星を差された時のそれとしか見えなかった。
(思いのほか、早かった)
一つの気がかり。
雪町宗介は、夏目柚木が好きだった。
彼女以外の人に恋し、愛しても、それは人の皮を被ったままで終わった。
でもそれは、夏目だからそうだったのだろうか。
もしかして雪町宗介は、同類なら誰でもそんな風に愛してしまうのではないか。
夏目とそれ以外の大きな違いが歪みだと気づいた時、そんなことを考えてしまった。
だから私はその気づき以来、ずっと待っていた。
彼女以外の同類と、出会える日を。
「いいよ」
「……?」
「私を殺せばいい。それで君の衝動や欲求が慰められるか、試してごらん」
その同類に、殺される日を。
少しでも喜びを感じたのなら、夏目への愛は個人に向いたものではなく、同類に向いたものだとわかるだろう。自分の命を試金石に、私は夏目への気持ちを見極める。
「――――」
私の言葉を受けて、少女の目は零れ落ちんばかりに見開かれた。
しかし、どうやらよほど飢えていたらしい。困惑や疑念に囚われていた時間は短く、少女は体を屈めて果物ナイフを拾い上げた。
拙い手つきは、これが少女にとって初めての人殺しであることを示唆している。
それを微笑ましく思いながら、一歩だけ、少女に向かって足を踏み出した。
「心臓を狙うといい」
促せば、少女はナイフの柄を強く握りしめて首肯する。
待つ時間は、一瞬のようでもあり、永劫のようでもあった。
――――そして、まだ殺人鬼になってない少女が、駆け出した。
少女との距離はわずか数メートル。そんな至近距離から突撃されれば、武道の心得でもない限り避けることなど不可能だ。それでもこれが夏目だったら、タイミングが手に取るようにわかり、苦もなく避けられていたかもしれない。
だけど、少女は夏目柚木ではなく。
体は少しだって反応することもなく。
体当たりの衝撃とともに、心臓に鋭い痛みが走った。
「……ナイフは、持って行かないでおくれよ」
喉からせり上がってきた血の味を感じながら、そんなことを懇願する。
その言葉で我に返ったようにナイフから手を離した少女は、一度だけ私を感謝の色が浮かんだ眼差しで見た後、踵を返して走り去っていった。
遠ざかっていく背中を見ても、惜しむ気持ちは湧かない。
ただ、一つだけ。
(あの子も、出会えますように)
それだけを願いながら、私は近くのコンクリート塀に寄りかかった。
「……っ、ふ」
そのままずるずると、地面に座り込む。
切っ先が突き刺さった心臓は、焼けるような痛みを発している。口の中に溜まったものを出すように咳き込めば、赤黒い固まりが地面に飛び散った。
雪町宗介は、死ぬ。
名も知らぬ同類に殺されて、死ぬ。
「――――なつめ」
緩やかに、けれど確かに死へと向かっていく。
そんな私の胸中にあったのは、かつて殺(あい)した少女の顔だった。
「なつめ」
同類に殺されても、感じるのは殺されたという事実。
あの少女に対する特別な感情はない。
あるのは、ようやく終われるという思い。それを成したのが、かつて夏目が使っていたナイフだということへの充足。
そして。
「なつめ」
同類であることは、きっかけにすぎず。
私は――僕は、夏目柚木だからこそ、あんなにも愛していたのだと。
それがわかったことへの、途方もない安心感だった。
「……なつめ」
名前を呼ぶたび、激痛が走る。
それでも、彼女の名前を紡がずにいられない。
好きだった。
恋していた。
愛していた。
殺意でひどく見難かったけど、僕はちゃんと彼女が好きだったのだと。
それがわかったのが、泣きたいくらいに嬉しかったから。
「こ、ふっ」
しかし、それもやがて叶わなくなる。
人は――血を流しすぎれば、死ぬのだから。
辛うじて保たれていた意識が弱まり、唇を動かすことさえ困難になる。痛みと安堵の中で自分の死を感じ取りながら、それでも僕は、最期の力を振り絞って言った。
「だいすきだよ、なつめ」
伝えたかった言葉を。
あの夜は言えなかった言葉を。
――――そして、意識は、暗転した。
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