春:殺人鬼たちの邂逅 1
二階にある自室を出て階段を下りれば、朝食の良い匂いが鼻をくすぐった。
食欲をそそるベーコンの香りに、空っぽの胃が小さな音を鳴らす。催促してくる腹を宥めすかすように撫でながら、夏目柚木はダイニングキッチンのドアを開けた。
「おはよう」
「おはよう、柚木。もうできちゃうから、飲み物用意しちゃいなさい」
朝の挨拶をすれば、母はコンロと向かい合ったまま、顔を向けずにそう返す。
「はーい」
反論や抵抗を挟む余地など欠片もない。素直な返事をしつつ、昨日の夜に使ったマグカップを食器洗い機の中から回収しようと、フライ返しを操る母の隣に立った。
そして、まな板の上に置かれたままだった包丁を手に取る。
家事手伝いの一環として、夏目が研いでいる包丁。
つい数分前までは、食材を切るのに使われていたそれを掴んで。
――――素早く、母の喉元を掻っ切った。
「、っ、ぁ?」
怪訝そうな声に一拍遅れて、切り口から多量の血が噴き出た。
それはキッチンの壁を、コンロを、フライパンを、ベーコンを、目玉焼きを、赤く紅く朱く汚していく。香ばしい匂いは、生臭い鉄の臭いに上書きされた。
疑問と苦悶の色を湛えた母の目が、夏目を見た。
それに微笑みを返しながら、包丁を振りかざし――――
「切れ味、どう?」
「柚木が手入れしてくれるからばっちりよ。今日のトマトも、楽々スライスできたわ」
「ん、よかった」
「トマトはサラダにするのと、ベーコンと一緒にトーストにのせるの、どっちがいい?」
「んー、じゃあベーコントマトで」
「はいはい。トマトはテーブルの上に置いてあるから、とってちょうだい」
「りょーかい」
そう返事をしながら、手に持った包丁を再びまな板の上に戻した。
皿に盛られたトマトを渡せば、母はフライパンの隙間でそれを焼き始める。ベーコンから出た脂を吸いながら焼けていくそれを見つつ、今度こそマグカップを回収した。
適当な紅茶のパックを一包放り込み、電気ポットのお湯を注ぐ。茶葉の中身がお湯の中に溶けだしていくのを横目に砂糖やらミルクやらを用意していると、テーブルの上に完成した朝食が置かれた。
気が回らなかった箸やバターも、母はしっかりと出してくれた。
いつもどおりのかいがいしさ。それを当たり前のものとして享受しつつ、準備が整った飲み物を脇に添えてから着席する。
「はい、召し上がれ」
「いただきます」
頭の中では母の死体を見下ろしながら、夏目はそっと手を合わせた。
夏目柚木の一日は、母を頭の中で殺すところから始まる。
決して母と不仲なわけではない。テレビのバラエティーやホームドラマに出てくるような、友達感覚で接する親密さとまではいかないものの、いたって関係は良好だ。
しかし、夏目は毎日のように、母を頭の中で殺している。
斬殺、刺殺、絞殺、撲殺、殴殺、溺殺、エトセトラ。
一般家庭でできるあらゆる殺し方を、あらかた脳内で実行した。
全ては、母を殺す瞬間をなるべく先延ばしにするために。
身の内に飼った殺人への欲求を少しでも想像で宥めすかして、その発散を減らすために。
人間の三大欲求である、食欲、睡眠欲、性欲。生存と繁栄に不可欠とされる三つの欲求を抱えるのが人間という生き物だが、夏目はさらに第四の欲求を抱えている。
それが、殺人欲求。
人を殺さずにはいられない渇望。
生きるための食事を快く思い、生きるための睡眠に安らぎを覚え、生きるための繁殖行為に悦楽を感じるように、夏目柚木は生きるために殺人を犯し、そうして渇望を充足させる。
渇望を充足させたいから、殺すのではない。
それは快楽殺人者と呼ばれるもので、夏目自身はそれとは違うと認識している。
夏目にとって人殺しとは、もはや呼吸に等しいものだ。
呼吸を止めたまま生きられる生き物がいないように、控えることこそできるものの、止めることはできない。生きる上での、必要不可欠なファクター。その時に得られる充足は、あくまでも附属物に過ぎない。何の快楽もなくても、夏目は人を殺すことを止められないだろう。
初めての人殺しは小学生のころ。
家にあった果物ナイフで、寝ているホームレスの老人を刺し殺した。
それから父の仕事で引っ越しが決まるまで、近辺のホームレスを何人か殺した。
その後は転勤族の父に連れられるまま各地を転々としつつ、目についたホームレスを、夜道ですれ違った見知らぬ他人を、殺した。
得物はずっと、最初に使った果物ナイフを愛用している。
家事の手伝いと称して他の包丁と一緒に――けれどナイフだけは念入りに――研ぎ、人を殺せる切れ味を維持していた。調理器具にこだわった理由は、人殺しが自分にとって食事と大差ない行為だからだろう、と夏目は思っている。
食事と大差がない。
夏目にとってはそれくらい、人殺しは当たり前の行為だ。
母を今殺さないのは、まだ親に庇護されないといけないモラトリアムの最中ゆえ。
発散を減らしているのは、やりすぎてしまうと殺人自体がやりづらくなるがため。
いずれは母も殺すだろうし、殺人という行為を止めようとは思わない。
なぜなら、夏目柚木はそういう生き物だからだ。
生まれついた時から、そういうものとして存在が定義されている。
だから夏目は、自分のことをこう呼んでいた。
――――殺人鬼。
人を殺すものとして生まれ落ちたひとでなし、と。
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